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幻の世界、幸せ、未来。
そんなものに身を委ねることを幸せだと言うのは、立ち向かう勇気を失った愚か者だ。
残飯を漁り死肉さえ食らおうとしたかつての自分、何度、狂ってしまおうと思ったことか。狂って笑っていれば幸せかも知れないなんて、本気でそう思っていた。だけど希望がなかったわけではない、何もない世界にたったひとつだけ、希望があった。
「お願いね。十年後、二十年後、どうか笑っていてちょうだいね」
死にたくない。
そう悲鳴が聞こえそうなのに、母は無理やりに優しい笑顔を作って最後にそう言った。
手も足も失って、死を待つだけの彼女が。最後の最後、息も絶え絶えにそう言ったのをライトマンは忘れない。忘れたことなど、一度たりともなかった。
彼らは、望んだのだ。
この世界の、未来を。
彼らが過ごしてきたささやかでも幸福な日々を。
だから、失わせるわけにはいかない。体力もなくて力もなくて、だけど知恵だけあるなら、その知恵を駆使しよう。駆使して、全力で戦おう。
「待ってて、すぐに助けるから」
アムルとクリムの所までやって来たライトマンはゴーグルを掛けて立ち上がり、二人の間の樹の幹に手を添え瞳を閉じた。
紫と紅の糸状の光が手の下から溢れて、精神偽態図を作り出す。
そして指先からどんどん彼の腕にも光が吸い込まれ、古代文字と数式が浮かび上がり始める。
その時だった。殺気を感じたライトマンが咄嗟にそちらを見上げると、硝子の鳥を飛び降りたシュヴァルツがライトマン目がけて剣を振り下ろしていた。
ライトマンは慌てて飛びのき、彼が今までいた場所に剣を振り下ろしたままの勢いでシュヴァルツが着地した。剣は硝子の鳥にヒビを入らせ、彼は勢いを衰えさせず猛獣のように襲いかかって来る―――今までとは違う、本気で殺すつもりだと、直感的にそう感じたライトマンは、再びドライバーを手にして立ち向かった。
「最早、人が作りだすしか真の平和を手に入れる術はないんだ! 邪魔をするな!」
「断る! ワシはそんな未来、認めない!」
二人は剣を交え、撥ね退け、隙を狙っては相手を斬りつけようとする。
剣とドライバーがぶつかり合い、互いに飛びのき、隙を狙って再び駆けだし、剣を交える。どちらも一歩も退く気はない。互いに互いを押し遣りながら、睨みあう。
「エネルがいて、皇帝陛下達がいる今の暮らし。ワシは絶対に、失いたくないんだ」
「だがいつかそれも失われる。いつか裏切られるかも知れん、あるいは明日にでも誰かが死んでしまうかも知れない。そうなったら辛いだけだ!」
「偽物の世界に身を委ねて笑ってられるだけが幸せって、そんなの立ち向かうことをしない弱虫じゃないか!そんなの幸せじゃない、何もないってだけだろう! そんなの真っ平ごめんだ!」
怒鳴ると、右足で思いっきり相手の腹を蹴り飛ばす。
思わぬ攻撃にシュヴァルツは尻もちをつき、せき込みながら、忌々しげに顔を上げた。
「大切な人達が呼吸を止めて血だまりの中で折り重なっていた、あの光景は今も忘れない。生きるために動物の死骸だって貪った。だけど今、世界は平和なんだ。ワシは笑って暮らすことができている。この先、辛いことがあってもワシはまた笑うよ。笑ってみせるよ」
一歩、大きく、シュヴァルツに近づく。
ドライバーを相手の喉元に突き付けて、けれど残酷にはなりきれない彼の葛藤が表情を歪ませる。
それはシュヴァルツにとって、絶好のチャンスだった。素早く跳ね起きると、躊躇わずに剣を振り下ろした―――咄嗟に避けたものの、肩から左わき腹にかけて深く傷つけられてしまい、ライトマンは膝を折って崩れた。血を吐き、激痛に蹲るライトマン。シュバルツは眼を剥き、それこそ理性なんて微塵もない獣のような顔で剣を振り上げる。
「説教なんぞ訊きたくもない。殺してやる」
「いやだ」
ライトマンは呻き、よろよろと立ちあがろうとする。
けれど体力を消耗し、加えて深い傷を負った彼は、まともに立ちあがることもできなかった。
そんな彼を冷酷な眼差しで見下ろしながら、とうとうシュヴァルツは剣を振り下ろす。
「だから、いやだって」
再び膝をついて崩れ、ドライバーで剣を受け止めるライトマン。
もう、体力なんて無い。でも必死に、剣を受け止める。シュヴァルツは憎しみ溢れる眼を剥いて、無表情でドライバーを押し返す。
「未来なんて、誰かが決めるもんじゃない」
顔を上げ、世戒樹を、アムルとクリムを見上げる。
早く行かなければ。あと少しなのに。あと少しで、辿りつけるのに。こんな所で死にたくはない。
ライトマンは奥歯を噛み締め、ふらふらになりながら立ち上がろうとする。
「大丈夫ですか!」
鉄の兵士の声がして、後ろで重々しい着地音がした。
一瞬、シュヴァルツの手が緩んだ。その隙に、ライトマンは力を振り絞って世戒樹に向かって這いだした。
それを追おうとするシュヴァルツ、だが鉄の兵士は彼の腕を掴んで無理やりに振り向かせる。
「なんて顔、してるんですか」
「殺してやる。殺してやる。やっと、やっと………彼が望んだ世界が手に入ると思ったのに!」
シュヴァルツは、剣を振り上げ鉄の兵士を斬りつける。だが当然、鉄の胴体が傷つくはずもなく、彼は平然と立ったままでいる。逆に彼は落ち着いた声で、言うのだった。
「大丈夫。偽りの世界なんて作らなくても、彼の望んだ世界はもう既に、完成しています。今、世界はとても平和だそうです。戦争の影なんて少しもない。だから」
「じゃあ明日は、明後日はどうなんだ! 約束されているのか、未来が!」
シュヴァルツは、我武者羅に剣を叩きこんでゆく。
その勢いに一歩後ろに足を引くことはあっても、鉄の兵士はそこから動こうとはしなかった。
「明日を作るのは今を生きる人達です。だからもう、こんなことはやめてどうか現実に」
「うるさい、うるさい!」
悲鳴を上げながら、剣を叩きこむ。
と鉄の兵士は彼の剣を片手で受け止めると、彼の腹に拳を叩きこんでその場にねじ伏せた。
「人は愚かです。大切なことを忘れ、目の前のことに囚われ罪をおかしてしまう。だけど心がある限り、反省してきっとまた歩き出せるはずなんです。主も貴方も、現実の世界できっと―――」
「鉄の頭に心など、あるものか」
「わかりますよ。貴方はずっとずっと、お父様のことを想っていらっしゃいましたよね」
言われて、シュヴァルツはハっとする。
「だから彼の生み出したこの夢の世界を、護りたいと願った。彼のためになら手を穢したって構わないって、そう思った。彼が二度と苦しまずに済むのなら、夢を見て幸せだと感じてくれるのなら、それでいいと思った。そう、昔の貴方は彼の幸せだけを願っていたでしょう」
「お前は………」
「はじめまして。私は幼い貴方が主―――いえ父のために生み出した、もう一人の貴方です」
それを聞いて、シュヴァルツは驚愕する。
床に伏し、眼を開けることのなくなった父。
彼の友人がそれを嘆き哀しみ、使用人達も項垂れていた。
それをシュヴァルツは、涙も流せず呆然と見ているしかなかった。
父はどこか遠い世界に行ってしまったのだと訊いた。けれど死んでしまったわけではないという。
彼は彼が幸せでいられる世界に行っただけだと訊いた。
彼はこの世界が辛かったのだろう。多くの人を殺めたのに英雄と称えられ、正義や罪について考え過ぎるあまりに心を病んでずっと寝たきりだったのだから。
彼を護りたい。
幸せにしてあげたい。
彼が望む世界をずっとずっと護り続けてあげたい。
彼が望むなら手を穢しても構わないから。
彼が二度と哀しむことのない彼だけの夢の世界を―――
戦後の瓦礫の中で、一体の神殻傀儡がむくりと起き上がった。
殆どの神殻傀儡が処分されてゆく中、まだ残っていた数体のうちのひとつが彼だった。
彼は己の両手を眺め、ぼんやりと空を見上げる。
護りたいものがある。
手を穢しても、罪をおかしても。
彼が二度と哀しむことのない彼だけの夢の世界を、護りたい。
彼のためなら、なんだってしよう。
彼のためなら、この身を捧げても構わない。
だからどうか、泣かないで。
貴方の世界を、護ってあげますから―――
「はじめまして主。私は貴方の部下だった者です。どうか私目に貴方の世界を護らせてはくれませんでしょうか。この世界に干渉する者を、貴方の目に触れない場所で、私が屠ってさしあげます」
ルインヴィルを訪れた鉄の兵士は、彼が眠る監視塔に向かってそう言った。
返事はなかった。
けれど、伝わって来た。
言葉ではなく、彼の気持ちが。
それは肯定―――
鉄の兵士は静かに頷いた。




