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「オンブル様」
懐かしい声に、オンブルは若干驚いた様子で眉間にシワを寄せて振り向いた。
鉄の兵士は閉ざされていたはずのこの部屋にシュヴァルツがいることに驚いて、思わず足を止めた。
「何故、貴方がここに」
「許された者のみ立ち入ることが許されているからな。お前はただの番人、大人しく侵入者を屠っていればよかったものを。一体なんの用だ」
オンブルが不機嫌な顔をして、低い声で訊く。
「いえ。奇妙な樹が現れたのでオンブル様に何かあったのかと」
思いもよらない主の言葉に戸惑いつつ、鉄の兵士。
するとオンブルは口の端に笑みを刻んで、小さな窓の方に体を向ける。
「あれは世界の希望だ」
「希望?」
「現実の世界はようやく未来という不安から解放される」
シュヴァルツは静かに言いながら、オンブルの背後に歩み寄る。
「どういうことですか、オンブル様。一体なにをしようとしているのです」
鉄の兵士が戸惑った様子で訊ねる。
すると主は言う。
「あの樹は【世戒樹】という。人々の精神体を吸収して具現化した、いわば巨大な【神核体】のようなものだ。人々の精神体を吸収して成長し、やがて世界中の人々をこちらに誘う核帯を生み出すだろう」
「待ってください、何故そのようなことをするのですっ? 貴方はこの街さえあればそれで満足なのではないのですか!」
鉄の兵士は悲鳴じみた声を上げる。
だがオンブルは静かに、続けるのだった。
「どれだけ時が過ぎようと、どれだけ多くの人間が平和を望もうと。この世界が理想の未来を手に入れることなどありはしない。どうせ訪れることのない世界なら、作ればいい。あの時、私が望んでも手に入れられなかった世界をな」
「それはこの街のことを言っているのですよね?」
いつもと様子の違う主に戸惑い、不安を感じながら、恐る恐る訊ねた。
しかし彼から返った言葉は、けして彼を安心させてはくれない。
「現実の人間の精神体を全て、こちら側に移すのだ」
オンブルは静かに笑い、窓に歩み寄る。
ライトマン達は信じられず、愕然とした。
「どういうことです」
信じられない。
鉄の兵士が、僅かに震える。
「知っているだろう。この世界がどんな歴史を歩んできたのか。人間は過ちを繰り返し積み上げた歴史の上で尚も同じ過ちを繰り返している。この先どれだけの歴史が積みあげられようと、その先に真の平和が訪れることなどない」
オンブルはそう言って、そっと窓の外に腕を伸ばす。
硝子の鳥が煌めく光の尾を引きながら飛んで来て、彼の指先に止まる。
「ならば全て、この箱庭に閉じ込めてしまえばいい」
硝子の鳥が翼を広げ、飛んでゆく。
それを見つめ、オンブルは言う。
「例えそこが偽りの世界だとしても、そこに真の平和があるのなら。私はそれを正義だと言おう」
「ですが。ですがオンブル様」
「お前は私の世界を護るために存在している。ならば逆らう必要などないだろう」
オンブルはゆっくりと、鉄の兵士を振り返る。
「頼むぞ」
だがしかし、兵士は小刻みに震えたまま、動かない。
その剣をライトマンとエネルに向けることを躊躇っているのだろうか。
彼はとうとう俯き、そして首を振る。
「私は、貴方の世界を護りたかった。貴方の世界を護るためなら私はいくらだってこの手を穢しても構わなかった。現実世界の平和も争いも関係ない、ただ今、貴方の望んだこの街さえ護ることができたらそれでよかった。それで貴方が幸せだと笑ってくれるなら、それで貴方がもう二度と苦しむことがないのなら。私は手を穢したって、罪を背負ったって、構わなかった。貴方の眼の届かない場所で侵入者を屠って、世界を護って。貴方が幸せだと………笑ってくれるのならば………私は」
もし彼に顔があったなら、今、彼は涙を流していたかも知れない。
声は震え、弱々しく、そこに絶望と深い哀しみが滲んでいる。
ライトマンは彼の背中を、哀しげに見つめた。
「だけど。現実の世界まで壊すことは、私には」
「壊すのではない。救うのだ。この世界から争いをなくすのだ」
「だけど」
「逆らうつもりなのか」
オンブルが眼を細め、ゆっくりと鉄の兵士を振り返る。
睨むような、哀しむような、そんな眼差し。忠実な部下に裏切られた哀しみが瞳に滲むのは、彼の演技か、気のせいか、それとも真実なのか。鉄の兵士は戸惑う。だがすぐに彼は剣を握り、駆けだす。が、シュバルツが素早く彼の前に飛び出し、その剣を受け止める。
「なんのつもりだ」
オンブルが忌々しげに口元を歪めた。
すると鉄の兵士は、
「今のうちに! 早く、世戒樹に向かってください!」
ライトマンとエネルに叫んだ。
二人は息を飲み、顔を見合わせると、すぐに部屋を飛び出した。
シュバルツは素早く剣を弾いて二人を追いかけるが、すぐに前方に回り込まれてしまう。
「どういうつもりだ貴様」
オンブルが声を震わせる。
怒り、とは違う。信じられないのと驚きと戸惑いが入り混じった声だ。
鉄の兵士はシュバルツの剣を受け止めながら、叫ぶ。
「私が護りたいのは、貴方の世界だ! 私が護りたいのは、貴方だ! 現実の世界を壊したいわけじゃない」
「私が望む世界を護りたいというのなら、私に従え。この世界でならば、人は永遠に幸せを感じていられるのだからな」
「けれど、けれどそれでは」
なんの意味もない。
鉄の兵士は、そう思った。
逃れることは簡単だけど、それをしたら未来はそこで終わってしまう。
どうせ大切な人と生きるなら、痛みも苦しみも分かち合いたいからね
未来を失って。
世界はただ、巡る。
幸せだけを感じて、未来を放棄して、平和という名の物語を漂う。
そんなのは、この世界だけで充分だ。現実の世界のことなんてどうでもいいけれど、でもあの時彼が世界に望んだことはけしてそんなものではなかったはずだ。この世界は彼の夢物語、彼の理想郷、彼の箱庭。けして現実世界が触れることのない、彼だけの夢の世界―――夢を見るのはこの世界だけで充分、現実の世界までをも夢物語にしてしまうのは、間違っている。




