5
彼が望んだ世界は、ただ人々が笑って暮らせる世界だった。
悲鳴を上げて地を這いつくばって命を乞いながら、絶望の中に死んでいく人々の姿などもう見たくないと彼は叫んだ。そして彼も自らその手で人々を絶望に叩き落とし、それでも未来を望み続けた。だが彼はそこに希望を見ることなどなかった。
未来が平和を取り戻したところで結局、いつかはまた歴史が繰り返される。
どれだけ戦おうと、悪を屠ろうとも、なにも変わらない。
「人間はまるで蟲のようだよ。美しい世界を蝕み、血に染めて、学ぶこともなく同じ過ちを繰り返す」
男は消え入りそうな声でそう言って、やせ細った手で友人の手を握る。
とある村の片隅に在る、簡素な小屋。
豊かな自然に囲まれた、訪れる者も少ない村。
そこに、その男はいた。
眠りに就きそうな眼を必死にこじ開けて、やせ細った顔にわずかな笑みを浮かべて、泣きだしそうな友人の手を握りしめながら言うのだった。
「なあ、クェンよ。お前ならどうする、命ある者達に永遠の平和を約束するために………お前なら」
それが最後の言葉だった。
それきり彼はもう、眼を覚まさない。
けれど息をしている。肌は温かく、心の臓は規則的に鼓動する。
彼は生きている。まだ生きている。それなのに、もう、死んでしまった。
クェンは力を失った友人の手を両手で握りしめ、悔しげに歯噛みし深く深く項垂れ涙を流した。
ああ、自分がもう少し彼の支えになれていたなら。
ああ、なにもかももう後の祭りか。後悔しても泣いても仕方がないとわかるのに、生きながら死んでしまった友人に涙を流してやるしかできなかった。
「――――私なら。私なら」
「――――――――――!」
眼を覚ます。
私なら、どうすると叫んだったか。
忘れてしまった。
ただ、でも、これだけは確実だった。
けして彼と同じ道を望みはしないと、それだけは確実に言えることだった。
「ああ、気がつかれましたか。大丈夫ですか」
誰かの声がして驚いてそちらを見る。
そこには、皇帝陛下の象徴である黒衣を纏った体つきの良い男がいた。
まさかと思ったが、その服装とその胸元の紋章が、クェンに確信をもたらした。
「こ、皇帝陛下っ?」
「ああ、そんなかしこまらんでも大丈夫ですよ。皇帝陛下なんて名ばかりの、ただの男ですから」
「そ、そんな。いえ、でもあのっ………すみません、本来ならばこちらからお伺いに行かせていただくべきでしたのにっ」
「だからかしこまらんでいいと」
かしこまられるのは苦手だ。
なんて言ったところで、仕方ないのだろう。なにせ自分は皇帝陛下、国で一番偉い人。頭を下げるのも恐縮するのも普通の神経だろうし、慇懃無礼な態度をとられたらそれはそれで腹立たしいのも事実である。もういっそこの衣装を脱ぎ棄てて、国から逃げてしまおうか、なんて思ったのはこれで何度めだろうか。
「それで、貴方はこの魔操の異常の原因を知っているそうなのですが」
「ああ、はい。ですが」
「なにか言えない事情でも」
訊ねると、クェンは固く口を閉ざして、困ったように俯いてしまった。
「無理に訊くのも申し訳ないと思いますが、状況が状況ですし。すみませんがお話ねがいますか」
「し、しかし」
事実を口にすれば、どうなるのか。
わかっている。だから言葉を口にするのが、恐かった。
けれど、事実を伝えなければならない。それはこの国を、いやこの世界を救うことになるのだから―――
「実は」
「そこまでだ、クェン博士」
男の声―――クェンはビクっと体を振るわせ、ロキは反射的に振り返る。
そこにいたのは白衣を着た一人の男。
青白くやせ細り骨ばった躰、とがった鼻に鼻に引っかけただけの小さな丸眼鏡に寝ぐせだらけの髪。不健康丸出の容貌と悪辣な笑みを浮かべた顔を持つその男は、人の温もりを感じさせず、まさに悪魔のような冷たさを持って存在している。
その彼の右手には、魔操を充填した剣。
更に彼の後ろには、三体の神殻傀儡が立っている。
「なんだ貴様は。誰の許可をもらって城に入った」
「許可? そんなもの、必要ありませんよ。神殻傀儡達が道を開けてくれましたからね」
クク、と男は悪意に満ちた愉しげな笑みを浮かべる。
「………油断したか」
兵士達を心配しつつ、クェンをかばうように彼の前に立つロキ。
「陛下っ?」
「案ずるな。これでも二十年前は【五聖団】が一人として戦った。今でも腕は衰えておらんだろうよ」
「丸腰でか。本当に陛下は平和ボケしておられるようで、私もこの国の未来が心配ですよ」
「平和ボケはどっちだかな。皇帝陛下に刃物を向けて、無事で済むと思うのか」
「皇帝陛下、ですか。まあ今は確かにそうでしょうがね」
「なに?」
「やめろタルカス!」
「うるさいですよ。クェン博士、貴方は裏切り者だ。その口が下らないことを口走る前に、跡形もなく消して差し上げますよ。さあ行きなさい、神殻傀儡!」
男・タルカスの叫びに呼応して、神殻傀儡の体に魔操が充填され、淡い光が漏れだす。
生身の人間と神殻傀儡二体・勝ち目なんてないだろう。
タルカスは確信し、更に楽しげに表情を歪めた。だがロキはそんな彼の確信を裏切って、迷いもなく駆けだした・襲い来る兵士を片手で撥ね退けて、もう一方の手で横から剣を振るう神殻傀儡の頭を鷲掴みにして床に押し付けて、その背中に膝をめり込ます。そこに、跳ねのけた神殻傀儡が再び襲いかかって来る。だがロキは怯まず、膝の下の神殻傀儡から剣を奪って飛びのき、身構える。




