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そう。
もし彼が壊れてしまうようなことがあったなら
その時は。
その時は、どんな手を使ってでも引き留めるだろう。
彼が消えることなど許されないのだから。
彼が勝手に何処かに行ってしまうなんて、許されないのだから。
ずっとずっと仕事に押し潰されて悲鳴を上げていればいいのだから。
朝にはまたいつものように起こされて、悲鳴をあげていればいいのだから。
情けない顔をして
弱音を吐いて
だけど優しく笑っていればいい。
彼が消えることなど許さない。
彼が勝手に何処かに行ってしまうなんて、許さない。
勝手に壊れてしまうなんて、絶対に許さない。
そんな勝手なこと、許すわけがない。
悲鳴が聞こえる。
真っ暗な部屋の片隅で、声なき悲鳴が聞こえる。空気は冷えて、心は動きを止めることに徹して、両手はいつも耳をふさいでいた。聞きたくない誰の声も何の音も視界に入るものすら排除したくて瞳を閉じて声を飲み込んで息を殺した。
輝く文字の羅列と大人達の汚い笑いだけしかない。
世界を知らなかった。
それが全てなんだと思っていた。
「――――お前に心など必要ないだろう」
誰かが言った。
笑って言った。
「お前は優秀な生徒だ。その才能を有効活用してやろうというのだ、有難く思え」
大人は汚い。
子供も汚い。
人間が汚い。
なにが間違いで正しいのかわからない。
周りの人間が正しくて、こちらが間違いなのか。
胸が痛むのは、狂っているからなのか。
わからない。なにも、わからない。
もう、どうでもいい気がした。
文字の羅列の世界も、優しさのない世界も、それが逃れられない現実だというのなら受け入れるしかない。
そう、思っていた。
だけど―――
「おいでよ。君だって、そんなところにはいたくないだろう?」
そんなふうに、彼が笑った。
傷だらけの顔で笑って、手を差し伸べてくれた。
その時はじめて、現実の世界に一筋の光をみた気がした―――
いつの間に眠っていたのだろうか。
懐かしくも忌まわしい夢を見ていた気がする。目を覚ました瞬間の気分と言えば何ともいえず最悪なもので、胃の辺りがむかむかしている。あの夢を最後に見たのはいつだったろうか、もう随分前だったような気がするが。そういえばなぜ、いつからか、あの夢を見なくなったのだろうか。
エネルはぼんやりと目を開けた。
まだ、夜のままだった。
現実の時刻は何時なのだろう。そんなことを考えながら、眠い目をこすりつつ起き上がる。
そしてここがライトマンの寝ていたベッドだと言うことに気が付き、どこにも彼の姿がないことを知る。
どこにいったのか―――漠然とした不安が胸を過る。エネルはベッドを下りて、ライトマンを探しに行った。
寝室を出ると、ココンがまだ窓の外を眺めながら鼻歌を歌っていた。彼女はやはり眠らないのだろうか。ここは現実ではないし、彼女も現実の人間ではない。寝ることも食べることも想うことも忘れてただ、彼らは夢の世界で笑い続ける。
こんな何も無い世界でただ、楽しいと。
そんなの勝手だ。彼らは現実を、そこに在る自分を想う者を棄てて逃げ出したのだから。
こちらに気付いていないのか鼻歌を歌い続けるココンを横切って、そっと家の扉を開けた。さっきまで扉はなかったのにいつの間にかまた復活していたのは、ココンの油断だろうか? そんなことを考えながら外に出てみると―――
庭一面に咲き乱れる夜光花が煌めく魔操粒子を闇夜に放出し、辺りは仄かな明りに包まれとても幻想的だった。その中に、ライトマンが立っている。両手を上着のポケットに突っ込んで、じっと、空を見上げている。その横顔が、気のせいか、ほんの少し切なそうで、それを見るとエネルの小さな胸はきゅうっと締め付けられるのだった。
彼と出逢って二年間、この表情を見たのはほんの数回。
全て、彼が育てる夜光花の部屋の中でだ。でも彼のその表情の理由なんて聞く勇気もなくて、エネルはただ痛みを飲み込むしかなかった。
「――――エネル。起きたのかい」
こちらに気付いて、ライトマンが振り返る。
いつもの彼らしい、柔らかな笑み。
さっきまでの表情は、もうない。
「夜光花がたくさん咲いてます、です」
「うん。これはでも殆ど偽物みたいだね」
ライトマンは寂しげに笑うと、足元の夜光花を見下ろした。
「まるで本物みたいなのに、です」
「夜光花は二十年前の戦争で搾取し尽くされて、現存しているのはワシの育てている分と、あとはほんのわずかだけだと思うよ。昔は自然に咲いていて、森や山なんかに行くと夜でも困らなかったぐらいなのに」
寂しげな苦笑がまた、エネルの胸を突く。
「――――戦争、ですか」
「戦争は本当に、大切なものを沢山奪っていくよ。破壊し失うばかりで、けして何も手に入れることなんかできやしないのに」
遠い遠い昔を想い見つめる瞳が、空を仰ぐ。
微笑みはしかし切なく、彼方の記憶に向けられた嘲笑のように思えた。
「ワシの家族も、兄弟も、皆、死んでしまったよ」
彼から親兄弟の話を聞いたのは、これが初めてだった。
今まで彼が話そうとしなかったのは、その必要がなかったからか、それとも思い出すのがつらかったからなのだろうか。そんな疑問はしかし、口になど出来るはずもなく、彼女の胸の奥に押し込まれるのだった。
「力を欲した人間達が互いの国に攻め込み、夜光花を採取するついでに狂ったように罪もない人間を殺していったんだ。力を欲し、欲望のままに動き、花と命を搾取して、希望も何も残りはしなかったよ」
そして彼の口から、言葉が消えた。
何も言わず、しかし何かを想うその横顔が、夜空を見つめる。
彼は今、幸せだろうか。彼が見せる微笑みは本物だろうか。何も言わず心の奥底でまだ、一人で暗闇を抱えてはいないだろうか。けれどその場所に触れることはできないし、彼もまた、それを見せることはしないだろう。きっと一人で抱えたまま、嘘をつくかも知れない。何があっても、どんなに辛いことがあっても。それが彼と言う人間だ。それはでも強がりなどではなくて、おそらく哀しい彼の性格―――傷に触れた相手にまで苦しい想いをさせたくないという彼なりの優しさか、あるいは、触れられてまた傷を、記憶を蘇らせるのが恐いからなのか。
そこまではわからない。
ただこの二年間、彼という人間を見てきて、時々その笑顔の裏に別の感情を見ることがあった。
気付かせないようにしているのだろう。だが彼が夜光花に触れる時、戦争の話を口にする時、それは無意識に漏れ出し胸を締め付ける。だけどまだ、触れてはいけない気がする。彼のその、心の奥底にしまい込んだ傷に。だけど。だけどわからないから、余計に辛い。そして何故か、悔しい。
「………エネル?」
後ろから、そっとエネルが抱きついてきた。
優しい温もりが背中に伝わる。
「なんとなく、です」
彼は何も語らない。
それは自分が、語るべき相手ではないからなのだろう。
「うん。ありがとう」
優しく微笑む。
彼女の優しさが嬉しい。
きっと彼女は、何も語らずにいる自分を気遣ってくれているのだろう。
彼女は表情こそ乏しいが、人の心には敏感だ。そして不器用だけれど優しくて、そんな彼女の気持ちがとても嬉しい。
「もう寝ようか。疲れただろう」
「博士」
幸せ、ですか。
そう訊いてみたかった。だけど彼は当たり前のように幸せだと答えるだろうし、そんなこと分りきっている。幸せじゃないなんて、彼が口にするはずがない。例え知らない所でどれだけ傷つこうが、それを悟られまいとして笑うのだろう。
この男はきっと、そんな男だ。
「うん?」
「………なんでもない、です」
だから、訊いても無駄なのだ。
だけど。それならせめて、傍に―――彼の傍に、いようと思う。
今はまだ、それでいい。
今はまだ、そんな場所にしかいれない。
「うん。じゃあ戻ろうか」
「はい、です」
文字と複雑な数式と記号の羅列。
暗闇の中に在るのはそれだけで、それだけが世界だった。その他に世界があるとは思わなかったし、それ以外のものを何と呼称すればいいのか知らなかった。
特別とか、頭が良いとか、周りの人間はなぜかそう言った。
自分自身が何者で、周りにどう思われているかなんて考えたこともない。
自分にとってそれが当たり前の世界だったからだ。だから何も望まなかったし、拒むこともなかった。現実を受け入れるとか、そんな感情すらなかったかも知れない。もうそれが当たり前すぎて、辛さも苦しみもどこかに消えていたのかも知れない。
だけど。
記憶の彼方に在る、ほんのわずかな幸せだった時間。
それが時々顔を覗かせては、この暗闇の現実を深く暗い闇だと気付かせる。
胸の痛みと、蘇ろうとするなにか―――けれどそれを否定して、飲みこんで、頭を抱える。
「私は、ここにいなければならない」
だってそれが、当たり前なのだから。
現実になにを望んだって、仕方がないのだから。
言い聞かせて息を殺して感情を押し殺し、膝を抱えた。
だけど。
だけど、そこにあの男が現れた。
ゆっくりと顔を上げる。暗闇に、その男は立っている。優しく微笑んで、真っ直ぐにこちらに手を伸ばしている。本当ならその手を否定することも受け入れることもせず無感情のままやり過ごせばよかったのに、彼の微笑みを見た瞬間、心の奥底で押し殺された遠い昔の僅かな記憶が弾けたのだ。
衝動、というのだろうか。
考えはなかった。
ただ心のままに腕を伸ばし、すがるようにその手にしがみ付いていた。
生きたい。行きたい。この暗闇から飛び出したい。
どうか、どうか――――
「君のこと、護ってもいいかな」
初めて、人の温もりを知った。抱き締められて、初めて人の感触を知った。そして初めて、自分に感情と言うものがあるのを知った。頬を伝う滴が、涙だと気付いた。その瞬間、世界からゆっくりと暗闇が解け始めていた。
人間でいていいのだと、初めて知った。




