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「んぶっはああああああああああ!」
空気の中を漂っている感覚なのに、息を吸おうとすれば喉が詰まる。
存在しないはずなのに、妙なところだけ現実的で腹立たしい。
ライトマンは流れ着いた森の奥、湖の畔に体を投げ出して、胸一杯に空気を吸い込んだ。横でエネルは、明らかに体を濡らしているにも関わらず何の感触もない水滴をじっと眺めていた。
「なんだか気持ち悪い、です」
「本当に全て幻、か。なんだかなぁ」
ライトマンは濡れた己の両手をじっと見つめ、首を捻る。
するとエネルが両手を地面について、そっと近づいてきた。
「おや。エネル、どうしたんだい恐いのか」
なんて笑うと、エネルはじっと彼の顔を見つめ、少し恥ずかしそうにきゅっと抱きついてきた。やはり彼女もまだ子供、感触のないこの異常な世界が恐いのだろう。表情に乏しい彼女だけれど、けして感情がないわけではないし、むしろ誰より感受性の強い子だというのをライトマンは知っている。
「大丈夫だよ。ほら、ワシはちゃんと温かいだろう?」
苦笑して、優しくエネルを抱き締め頭を撫でる。
「博士のくせに温かい、です」
頬を赤らめて、彼を抱く手にきゅうっと力を込める。
「くせにって………」
「早く帰りたい、です」
「うん。そうだね、早く帰ってゆっくり眠りたいよね」
「ところがどっこい、博士には仕事という現実が待っているのです」
「もういっそこの街に住んじゃおうかなぁ」
現実=仕事。
この世界を気味悪く思うけれど、現実も現実で辛い。
なんだか帰りたいような帰りたくないような、複雑な気分になるのだった。
「私は帰りたい、です」
「まあ、ここにはゆっくり休める場所もないからね。もう行こうか」
とライトマンは、辺りを見回してみる。
運河は深い森の奥まで続いていて、その先は、湖になっていた。
そこは街の様子とは正反対に瑞々しい葉をつけた木々が生い茂る美しい場所で、半分砕けてはいるが石を敷き詰めた細い道がどこかに続いているのが確認できた。それは生い茂る雑草の向こうに続いていて、目をこらして見てみると、複雑に絡み合う木々の間に、なにやらこれも石造りの建物らしきものが見えた。
二人は顔を見合わせて、頷く。
そして茂みを分け入り、建物に近づく。
しばらく歩いて、絡み合う木々をなんとか乗り越えて、ようやくその場所に辿り着いた。
長方形の建物が長い階段の両脇に並び、その階段が真っ直ぐ伸びた先に、半壊して苔むした墓石がある。
その後ろで、複数の樹に飲みこまれた巨大な懐中時計が、時を止めて眠っている。
「これは一体」
「その墓に、近づかないでいただけますか」
あの鉄の兵士の声。
二人は武器を構え、振り返る。
「私とて、無駄に命を狩りたくはありません。ですが―――この世界を、護るため」
兵士は地を駆り、空気を引き裂かんばかりの素早さで真っ直ぐ二人に向かって来る。
エネルはライトマンの前に飛び出し、チェーンソーを構えて全力疾走・剣とチェーンソーがぶつかり合い、金属を削る甲高い音が鳴り響く。バーの魔操が火花のように弾け、音のない世界に煌めく。
兵士は大きく後ろに飛び退り、かと思うと間髪入れずに攻撃を仕掛けるエネルを交わし、跳躍・建物の壁に足をつくと、その勢いで今度はライトマンに向かって剣を振るう。
ライトマンは飛び退るとドリルを構え、着地して間も置かずに襲ってくる兵士に魔操を放つ。
だが兵士は素早くそれを避けながら、着実に迫って来る―――ライトマンは逃げ出すと、工具袋から別のビットを取り出し素早く交換・取り外したビットは口にくわえつつ身を翻し、魔操を充填・迫る兵士に攻撃する。
ビットから放たれたのは、青と白の眩い光。
それは獣のように唸りながら、地を削り、真正面から紳士を飲みこむ。
「っあぁあああああああああああああ!」
鉄の体は青白い光を放ちながら吹き飛び、階段の中央に落下・焦げ臭い匂いを漂わせながら、わずかに黒煙を立ち上らせる。それでも彼は動こうとするが、しかし、まともに身動きが取れない。
「すまないね、ワシらにはやらなければならないことがあるんだよ」
「それは私も同じ。私は侵入者を排除する………主の世界を護るために」
兵士は俊敏な動きで跳ね起きると、地を蹴り、空気を切り裂き真っ直ぐに二人に迫る―――エネルは素早くライトマンの前に飛び出し、兵士に立ち向かう。
「エネルっ………!」
「こんな街を護ることに、なんの意味があるのです」
「貴方にはわからない。説明したところで、理解などできるはずもない」
剣とチェーンソーが交わり、火花を散らす。
「所詮貴方達は現実の人間なのですから」
チェーンソーを弾き、攻撃を繰り出す。
エネルは剣を交わし、隙をついて相手の懐に潜り込む・しかし兵士も素早くそれを避け、剣を閃かせる。
双方、一歩も引かない。何度も攻撃が交わり合い、火花が散り、押しては押され、終わらない。
「ここにいる者達は現実を拒む。私はこの世界を、人々を護らなければならない! 大切な人間が望んだ世界、それを護りたいと思うのは当然のことでしょう! 貴方にわかりますか、戦で何万もの人間を手に掛け英雄と称えられた騎士の気持ちが―――正義と罪の矛盾に耐え切れずに苦しみ続けた者の気持ちが!」
紳士の動きが、さきほどまでとはまるで違う。
殺気めいたものが化け物のように牙をむいてエネルを襲う。
「エネル、もういい!」
ライトマンは駆け出し、腰の工具袋からドライバーを取り出し魔操を充填・ドライバーは紅い光をまとって剣のように真っ直ぐに伸びる。兵士はチェーンソーを弾くとエネルの攻撃を交わし、ライトマンに向かって駆け出した。
ライトマンはなんとか相手の剣を受け止めるが、あっさり倒れ込んでしまう。
兵士は躊躇いもなく剣を振り上げ、ライトマンに突き立てる―――が、寸前にエネルが二人の間に滑り込み、今度は剣ではなく兵士の体めがけてチェーンソーを振り回す。
兵士は吹き飛ばされて地面を転がり、その隙にエネルはライトマンの首根っこを掴んで無理やり起き上がらせ、半ば引っ張るように走り出す。
「ワシ、もう限界」
「博士は情けない、です」
「ごめんよ、かっこ悪くて」
情けないやら不甲斐ないやら、ライトマンはがっくり項垂れるのだった。
二人は茂みを掻きわけ、半壊した廃墟群を進み、迷路のように曲がりくねった階段と通路を走って逃げた。やがて屋根の落ちた廃墟の最上階に出て、二人は足を止めた。
その廃墟の外には、庭があったのだ。
いつの間にか夜になり、海に囲まれているはずの空には星が瞬き、そして庭には無数の花―――その花は光輝き、濃度の濃い魔操の粒子を放ち、風もないのに歌うように揺れている。その花の名を、二人は知っていた。




