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「なんなんだろうねぇ、これは」
二人は慎重に歩みを進め、街に入った。
世界中から物音が消えてしまったように静かなその場所は、何故か、二人の靴音すらも吸収した。静寂という言葉は何か違う。音を失った孤独の世界、そういうほうが正しい。しかも、さっきまであんなに冷えていたのに、ここには温度すらも存在せず、何も感じない。確かに肌は濡れているが、それすら気にならないのだ。
「なあエネル」
「はい」
「ああ、よかった。こうも物音がないと、頭が変になったのかと思うよ」
「気味が悪い、です。温度も、物音も、なにもない」
「うん。本当に―――【なにもかもが死んだ】ような場所だよ」
ライトマンは靴の先で地面を叩いてみるが、しかし、やはり音はない。
エネルはじっと自分の掌を見つめると、そっと、ライトマンの手を握る。
「あ。よかった、君の体温はちゃんと感じるね」
「………」
エネルは少し恥ずかしそうに頬を染めて、小さく頷く。
それから二人は手を繋いだまま、街の中を歩いた。
やがて道が開け、広場に出た。
そこに在るのは、楽しげに歌い笑い踊る人々。見たこともない色鮮やかな翼を持つ鳥が、豪奢な飾りの施された白い乗り物を引いて通りを歩き、その乗り物に乗った鉄仮面の男がお菓子や宝石をばら撒いている。その周りでは紅い制服を着た同じ顔の兵隊達が音楽を奏でて歩き、ドレスを着た女性達が列の周りで踊っている。
通りにはその他に様々な露店が並び、民家の屋根の上では宴会が行われている。
酒を飲み歌を歌い踊って笑って、みんな、楽しそうだ。
「想像していたのと違ったかい?」
ライトマンが、優しい笑みを浮かべる。
返事の代わりにエネルは彼を見上げた。
「そう。ここは人の妄想や空想、強い願いが生んだ仮想世界だからね」
「全て幻、ですか」
「まあ、一応はね。だけどここでは現実なんだよ」
しかしエネルはそれが理解できないらしく、変わらぬ表情のまま、わずかに首を傾げ、建物の壁に指を触れてみた。そして彼女は、驚いた。
「なにも感じない、です」
「ワシらは現実の人間で、これは夢の産物だからね」
ライトマンも壁に指を触れる。
本当なら硬く冷たい石壁の感触が指先に伝わるはずなのに、そこにはなにもない。
触れているはずなのに、触れていない。なんとも奇妙な感覚が、二人の指先に残った。
「少し街を見て回ろうか」
言うとエネルは、こくりとうなづいた。
賑やかな演奏が溢れる。人々の歌が続く。空を見上げれば、船を包む海面が切ない黄金色に染まっていた。その色は街を染め、しかしそれは人々の後ろに影を残すこともない。なぜだろう、これだけ賑やかに歌い踊っているのに、そこには少しも幸福感を感じない。むしろまるで想いのない言葉だけの絵本でも見せられているような、そんな気分になる。
そう。
わかってしまうのだ。
そこから伝わるものがなにもない、ということが。
それが偽物だ、ということが。
それがエネルには少し、恐く感じられた。
「エネル、どうしたんだい?」
「なんでもない、です」
「じゃあ行こうか」
ライトマンは何も思わないのか、さっさと歩きだす。
だがエネルはやはり、この【世界】を受け入れられず、立ち止ってしまう。
「エネル?」
どうしたんだろう。
不思議に思っていると、エネルはライトマンの手をきゅっと強く握り、ゆっくりと歩き出した。
「そうか。そうだね、ここは現実じゃない―――造られた夢の街………怖いのは仕方がないよ。大丈夫、ワシの手を握ってるといいよ」
「私が握ってあげている、です」
「あはは。エネルも意外と、恐がりなんだなぁ」
「恐くなどない、です。博士が恐がっているから、です」
なんて無表情で言いながら、ライトマンの骨を砕かんばかりにぎゅぎゅうっと手を握ってやる。
「んぬあああああ! 痛い、痛い、痛いってばっっ」
「行きましょう」
「とほほ………ヒビ入ったよ、絶対」
ライトマンは背中を情けないほど丸めてがっくり肩を落として、とぼとぼ歩きだした。




