その名は裂花
「そろ~り……」
夜だ。
水仙の描かれた巨大な金襖を静かに開けて、琉詩葉が『鳴滝の間』からこっそり抜け出した。
屋敷にいくつもある琉詩葉の『勉強部屋』の一つ。
もっとも、どの部屋でも、勉強したことなどついぞ無いが。
「いくぞ、すくらんぼー!」
冬の最旬コーデでちょっとクールでスパイシーなカッコかわいいテイストに決めた琉詩葉。
夕方、昇降口で見つけた手紙を握りしめながら、屋敷の庭園を駆け抜けていく。
聖ヶ丘の中腹に構えられた大邸宅、人呼んで『冥条屋敷』。
巨大な屋敷に琉詩葉と住んでいるのは、祖父の獄閻斎と数人の使用人だけだ。
両親はもういない。
古い屋敷と草深い庭園をさして、『お化け屋敷』なんて言う者もいるが、琉詩葉は気にかけなかった。
「こんな夜中に呼びだすなんて、この照れ屋さんめ~~!おぼこいの、おぼこいの~!」
妄想満開の琉詩葉が、ぴゅるぴゅる脳汁を出しながら、ひどいテンションで公園に走っていく。
だが、屋敷の書斎から、ひっそりそれを見下ろす者がいた。
獄閻斎だ。
「琉詩葉……」
孫娘のやんちゃには慣れっこの彼だが、今夜はなぜだが不安そうに眉を寄せていた。
「おかしい、物の怪どもが騒ぎおる……こんな夜にいったいどこに!」
老人は一人呻いて、窓から階下を見渡した。
なんということ。
夜の更けた冥条屋敷邸内は醒めて見る悪夢の如き異境の様相を呈していた。
草叢を泳ぐように金色の双頭蛇が中庭をうねっている。
真っ白な大狼が月にむかって遠吠えをあげている。
洞の様な眼窩に松明を燃やした木人達が森にまぎれて揺れている。
真っ赤な毬藻の様な毛玉がそこかしこで嬌声をあげながら弾んでいる。
池の中の鯉を追いかけて水面を駆けまわっているのは緑色の河童だ。
獄閻斎の眼には見えるのだ。
琉詩葉にも誰にも、見ることも触ることも出来ない『影』たちが、常になく昂って騒いでいるのが。
「今宵は……やはり何かある、確かめねば!」
老人は厳しい眼で、闇に遠ざかっていく孫娘の背中を追った。
#
「今参ったぞ~!」
公園に到着した琉詩葉が、落ち葉を踏みながら一路『首縊りの桜』を目指す。
「このへんでいいんだよね……はて?」
聖ヶ丘の名木『首縊りの桜』の前には誰もいない。
なぜだ。夜とはいえ、周囲を通る者すら一人としていなかった。
ざざあああああ。
樹間を駆ける夜風が枯れ葉を舞い散らせ、彼女の頭上を覆うまだ寒々しい桜の枝を大きく揺らした。
「う~さむ!心もさむ!もー、なんだったのよあの手紙!イタズラ?どっきり?」
寒さに首をすくめがらブツブツ言う琉詩葉。
「それにしても……」
桜の根っこに体育座りした琉詩葉は、枝の間から顔をのぞかす三日月を見上げながら一人つぶやいた。
「最近、毎日いろいろあるよな~」
毎朝のように繰り返される電磁郎との立ち回り、コータとのバカ騒ぎ、エナからのプレッシャー、魔衣先生の折檻。
まるで予め決められているように、一日必ず一波乱おきるのだ。
度外れた元気っ子の琉詩葉でも、さすがにちょっとうざい。
「せめて素敵な出会いでもないかと思ったけど……だめかこりゃ!」
待ちぼうけをくって(´・ω・`)ショボーンな琉詩葉が、家に帰ろうと腰を上げた、その時。
「琉詩葉ちゃん……まさかと思ったけど本当に来たなんて!」
彼女の背後の闇から、声が聞こえた。
かさり、かさり。
乾いた足音をたてながら、振り向いた琉詩葉むかって誰かが歩いてくる。
びょおお。
冷たく逆巻く風をさえぎり彼女の前に姿を見せたのは、一人の少女だった。
身に纏った真っ黒なセーラー服からスラリと伸びた足は冬なのに夜気に晒されるがままで、月の光を反射して銀色に光っている。
長い髪は纏った服に同じく夜空を流し込んだような漆黒でまるで周囲の闇を縫い取るようにざわわと風になびいている。
白い肌に整った目鼻立ちはどこか人形のような冷たさを感じさせる麗貌だが、ただ人形と違うのは口だった。
形の良い唇をきゅうぅと歪ませて、琉詩葉に笑いかけているのだ。
「裂花……ちゃん?」
琉詩葉が目を丸くした。
同じクラスの夕霞裂花。
教室に来ることがほとんど無いので、琉詩葉が彼女と口をきくのはこれが初めてだった。
「琉詩葉ちゃん……ここまで来た勇気は買う、さすがは『あの人』の血ね……」
裂花がそう呟きながら琉詩葉に近づいてきた。
「裂花ちゃん、今日、具合が悪いんじゃなかったの?どしたのさ、こんな所で……」
戸惑う琉詩葉。
はっ!
琉詩葉は恐ろしい事実に気付いた。
「あの恋文……まさか裂花ちゃん!?」
彼女の肩が細かく震える。
「裂花ちゃん、ごめんなさい!気持ちは嬉しいけど、あたし『そっち』の方は、だめなの!!」
琉詩葉が涙目で裂花に頭を下げた。
「……あの果たし状をそんなふうに……やっぱり面白い子」
裂花がクスリと笑う。
「は、果たし状?」
琉詩葉が呆然と顔を上げた、その時だ。
しゅらん!
琉詩葉の眼前に、月光に煌く白刃が飛んできた。
「おわ~!」
琉詩葉咄嗟に後ずさり、バク転しながら裂花から距離をとる。
アホなれど琉詩葉、運動神経だけは学校でも誰にも負けないのだ。
だがこれはいかなることか、琉詩葉は眼前の裂花が手にしている物が何なのか、しばらく理解できなかった。
裂花が右手に構えたるは、いつの間にか腰から抜き放ったひと振りの短刀。
水晶を思わせる透明な刀身は月の光を受けてキラキラと輝き、この殺伐たる決闘の光景に一種凄艶な美を与えていた。
「琉詩葉ちゃん、轟龍寺先生との立ち合い、いつも楽しく拝見してるわ」
少女が瞳を歓喜に輝かせながら短刀を振るう。
「でも私には判る……貴方の『力』、まだまだあんなものじゃない!」
「ちょ……ちょっと待った裂花ちゃん!」
困惑の琉詩葉、無我夢中で裂花の刃をくぐる。
「さあ立って、いくわよ!」
しゅばっ!
短刀が琉詩葉の頬を掠めた。
「ぅああ……!」
恐怖に叫んで裂花から飛び退る琉詩葉。
ぱぱっ!
落ち葉に血飛沫が散った。
裂花の一閃が琉詩葉のなめらかな左頬を、浅いが、確かに切り裂いたのだ。
「……れ、裂花ちゃん!」
頬を押さえる琉詩葉の顔から、困惑の色が消えた。
「ちゃんとお話したこともないのに、いきなりなんなのよ!これ!」
彼女の表情が怒りで歪んだ。
「もー知らないから!こっちも技を使っちゃうよ!」
琉詩葉が鞄からアメジストの錫杖を取り出して叫ぶ。
「冥条流蠱術『ダーク・レギオン』!」」
ぶずずずず。
闇を震わす不気味な羽音。錫杖から濛々と羽虫が沸いた。