指定席は君の前
別に、君がいるから俺がいるわけじゃない。
君と同じ進路を、わざわざ選んだわけでもない。
重なった環境で育って、幼い頃から互いに刺激しあって。
そんな風に生きてきたんだから。
道が似ていたって、しょうがないだろ?
かしゃん。
玄関の扉を開けたら、聞き慣れた門を閉める音が聞こえた。隣の君は、俺の家の前を通って駅へ向かう。必然的に、鉢合わせ。
「あ、應。おはよー」
「おはよ……」
朝が弱い俺と違って、君は朝から元気いっぱい。門の向こうで、ぶんぶんという効果音をつけたくなるくらいの勢いで、手を振っている。でも、君は普通に振らないで、何故かいつも肘から縦振りしてる。
「相変わらずだよね、朝弱いの」
俺が門から出た途端に、話し掛けてくる君。
「……低血圧なんだよ」
……分けてほしいよ、その元気さを。
「背、高いのに?」
「……関係なくない?」
疑問に疑問で返す俺。朝は、普段心地好い君の話でさえも、面倒臭く感じてしまう。
「へ、そうなの?」
いや、更に疑問形で聞かれても。
「さぁ……」
さすがに俺も、知らないよ。
君は俺を気遣っているのか、黙る。けれども君との沈黙は、辛かったり居心地悪かったり、という覚えはない。むしろ、君となら沈黙でさえも心地好い。それは小さい頃から一緒にいるからか、それとも、別の理由か。答えは、わかりきっている。
でも、知らないふりをしておくんだ。
頭が良く働いていないせいか、駅までの道程はよく覚えていない。君が隣にいたのは、覚えてるけど。
定期を改札に通して、ホームへと続く長い階段を上る。正直、この階段はかなりきつい。朝に上る時は、頭まで血が回らなくて、目の前が暗くなりかける。……俺は、貧血気味の女子か。と、一人ツッコミしたくなる。
上りきるとほぼ同時に、ホームに電車が滑り込んできた。ラッシュの時間は過ぎたから、乗り込んだ電車は乗客が少なく空席が目立つ。俺がばてて力なく座席に身を沈めると、君も当然のように隣に腰を下ろす。俺が腰を下ろしたのは長椅子の端で、右は壁、左は君で逃げ場がない。もちろん空席は他にも沢山あるのに、あえて君は俺の隣。……大学の友達が見てても、知らないよ?
君は勘ぐられてしまうようなことも、全然お構いなしでやってしまう。今だって、そうだ。
でも、君にはこれが自然なこと。だから、俺も拒絶しないし、嫌がらない。これが俺たちの距離だから。
「朝、誰に起こしてもらったの?」
ああ、ほら。
「……流」
そういうこと、しないでほしい。
「また? 應の弟に生まれて流くんも大変だね」
肩とか。
「俺のが先に生まれたんだから……知らないよ」
髪とか。
「それもそっか」
当たってるから。
「あ、そうだ。應」
もたれないで。
「……ん?」
……なんて言えない。
「明日、應んちにCD返しにいくね」
君には、これが自然だからね。
「……は?」
家が隣なのに、何故わざわざ明日?
「だから、明日た」
「いや、明日は圭が来るから却下。今日だっていいだろ?」
「明日圭くん来るの? それなら私も逢いたいっ」
……そんなに、あからさまに嬉しそうにしないでほしい。君はあれ以来、圭とメールしたり電話してるのに、それなのに逢いたいんだ。
胸が、ちくりと痛む。
「俺が嫌がったって……どうせ、母さんとかが勝手にあげるだろ」
溜息が、心なしか熱かった。胸が、嫉妬に焦げる。
俺じゃ、圭には勝てないの? 十二年間、君の隣にいたのは俺なのに。
「そうだよね。じゃ、明日は私が起こしたげる」
「や、それは……」
それは色々、朝から刺激が強すぎる。君の起こし方は、いつも破天荒で突飛で大胆。心臓に悪い。
「遠慮しなくてもいいよ。中学までは私が起こしてたんだし。ね?」
肩が離れ、俺を覗き込むように見る君。
もう、お願いだからやめてくれ。上目遣いの君は、無駄に可愛いから。胸が忙しく騒ぐんだ。
「遠慮、してないから」
「そぉ?」
君は元の体勢に戻る。
だから、肩に頭をもたれさせないでほしい。胸が苦しくなるから。
「今日で試験終わりかぁ。明日、バレンタインだね」
大学に入ってから、やっと一年目が終わる。長いようで、短かった。
「……そうだっけ?」
「そうだよ。今年は出来たてのを食べさせてあげるね」
君は、楽しそう。俺も楽しくなる。けど、心に体がついていかないから、表面上は出ない。だから俺は、頷くだけ。
「圭くんにもあげようかなぁ……」
また、胸がちくり。
それは、友達として? それとも……。
「明日来るなら、丁度いいよね。みんなでおやつにできるし」
君の言葉に、安堵した。
君の言葉ひとつで忙しく変わる、俺の心。君はこんな気持ち、知らないだろうけど。君は、知らなくていい。知らない方がいい。
「……って、待て。完全に遊びにくる気か?」
「え、ダメ?」
「ダメ、じゃないけど……」
「じゃあいいよね。私はお菓子担当するから、應は場所担当ね」
「圭は?」
「圭くんはお客さんなの」
君と俺、それと圭。微妙な分け方だけど、俺が圭より君に近いのが嬉しい。これって、重症か?
「あ、着いた。降りよ?」
君に促されて窓の外を見れば、大学が見えた。君といれば、時間なんてあっという間に過ぎる。
「ん」
丁度扉の前に移動している時、激しく揺れた。
「「わっ」」
完全に油断してた。この駅、いつも着く寸前に揺れるんだった。ブレーキかレールに欠陥でもあるんじゃないか? と、いつも思ってた。なのに、今日に限ってすっかり忘れてたんだ。……俺の馬鹿。
ぐらりと後ろへ揺れる視界の中、自分で自分を張り倒したくなった。だけど、そんなことする前に、身体を支えなければいけない。左手で、一番近い銀色の手摺りを掴む。右手には携帯とか電子辞書が入った鞄を持っていたけど、そんなことはどうでもよかった。倒れかかった君を支える為に、鞄を放して右手をのばした。君に怪我をさせるわけにはいかないんだ。俺が俺を許せなくなる。
のばした右手は、君の細い腕を掴んだ。のばした腕を今度は縮めて、君を引き寄せ抱き留める。君を受けとめた時の勢いを受けとめきれず、左の背中と腕をしたたかに打ち付ける。
そこまでするのとほぼ同時に、電車が駅に着いた。
「いっ……てぇ」
乗客が一瞬のスタント劇に注目していることは、十分知っている。視線が、痛い。そんな視線の嵐の中、君は固まったまま。
「……潤、降りるぞ」
俺は半ば投げ捨てた鞄を左手で拾い、固まったままの君を右手で引っ張り、電車を降りた。俺と君が降りるのを待っていたかのように扉が閉じて、電車は何事もなかったかのように去った。
「……潤?」
この世で一番愛しい君の名を、呼ぶ。君は、魂が抜けたような顔から普段の表情に戻る。
「應……ありがと」
俺を見上げて、笑ってくれた。
「ん。大丈夫だったか?」
「うん。應は? 身体、打ってたよね?」
君が無事なら、それだけで俺は十分。
「ああ、ちょっとな。別に平気だから」
……本当は、鞄を持つ今もズキズキ痛む。けど、君に心配掛けたくないから、隠させて。ちょっとくらい、いい格好させて?
「それならいいんだけど……」
気付かれないように鞄を右手に持ちかえ、君と駅を出た。
「……でもさ、應すごいねっ。私庇いながら立ってるんだもん」
君は先を歩きながら、後ろの俺を見るために後向きに歩く。ひやひやする。そんなことしたら、危ないよ。
「まぁ、さっきは必死だったから」
「そんなに?」
「うん」
そんなの、当たり前。君を守るためなら、いくらでも必死になるよ。
「そっか……。ありがとね、ほんとに」
「いやいや」
そんなに何度も言われると、少し照れる。
「やっぱ、應は運動神経いいよね。何か部活やればよかったのに」
君は残念そうに、俺を見る。
「朝練とか無理」
朝練がなかったら、部活も悪くない。運動自体は嫌いじゃないし、実際運動神経は良い方だと自負している。中高の時は、よく助っ人を頼まれたり、体育大会でリレーに出たりした。ただ、朝が弱いから、朝練なんて無理。それだけがネックだったんだ。
「ですよね。朝弱い人には無理だよね」
君はふふ、と抑え気味に笑う。俺が低血圧に加えて寝起きが悪いことを知っているから、大方思い出し笑いでもしているのだろう。勿体ないな、とよく部活の顧問たちに言われたものだ。朝が弱いことを知っているから、あっちも無理には誘わなかったし。顧問たちも他の生徒の手前、練習に真面目に出ない奴をレギュラーとして使うわけにはいかないから、誘わない。変な利害関係が一致した結果、俺の部活はずっと文科系だった。
俺の思考がそこまで飛んだ時、君はくるりと前を向き、再び俺の隣を歩き始める。いつのまにか、校舎は目の前。
「何限まである?」
「三限。そっちは?」
「私も三限まで。一緒に帰ろっか?」
……だから。誤解うけるよ。俺は構わないけど、君はいいの? それとも、俺のことそういう風に見てくれてる、って勘違いしちゃうよ?
ぬか喜び、させないでほしいんだけど。君が好きで、堪らないんだ。君が愛おしくて、苦しいんだ。
だから。だから、さ。
「あ、やっぱ今のなし。帰りに材料買いに行かなきゃ」
俺が沈黙して答えなかったからか、君は自分から提案を取り消す。
「……はぁ」
「明日、美味しいの食べさせたげるから。ね?」
俺は、君の頭の上に手を置く。
期待してる。わかったよ。
二つの意味を込めて、ぽんぽん、と君の頭に置いた手を上下させた。
「よしっ、決まりっ。じゃあ、明日の為にテスト頑張ろっとせ」
「だな」
そして君と、階段で別れる。君は一階の部屋へ。俺は圭と同じ、五階の部屋へ。明日を楽しく迎えるために、今日の最後の試験を目一杯頑張ることにした。
◆ ◆ ◆
只今、午前九時。世間の女子が頑張る、バレンタイン当日。今日も冬晴れである。風があって寒いのだが、晴れは晴れに違いない。
潤は昨日返すと言っていたCDを左手に持ち、ぴんと立てた右指でインターホンを押した。ぴんっぽーん、と、大層間の抜けた音がする。
『はい、どなたですか?』
「隣の潤です」
『あら、潤ちゃん? 今開けるから待っててね』
「はーい」
スピーカー越しに話し、鍵が開くのを待つ。近づく足音が微かに大きくなり、音がして玄関が開いた。
「いらっしゃい。寒いから早く中入りなさい」
潤の格好――Vネックのニットに、ショートパンツとニーハイ――を見て應の母親は急いで迎え入れた。
「はい、お邪魔します」
潤はあまり遠慮せずに門を開け、應の家に入る。幼少の頃から出入りしているので、遠慮の必要すらあまりない。
「應ったら、まだ寝てるんだから。潤ちゃん、叩き起こしていいわよ」
「またですか? じゃあ、返すついでに起こしてきますね」
潤は手に持つCDをひらつかせ、階段を上る。勝手知ったる他人の家、とは正にこのことである。潤は迷う事無く應の部屋に到着した。軽快に二回扉をノックしてみるが、当然ながら返事はない。
「應ー、生きてる起きてるー?」
隣の部屋の扉が開き、弟の流が出てくる。
「兄さん生きてるだろうけど、起きてないと思いますよ?」
只今高校一年生であり三歳離れた弟の流は、應とは似ているが少し違う。どちらかというと、應は母親似、流は父親似だ。兄弟の両親は整った顔をしているので、兄弟も言わずもがな、整った顔立ちをしているのだが。
「やっぱり? あ、流くんおはよう」
「おはようございます、潤さん」
流の丁寧な言葉遣いは、父親譲りである。應が産まれた時は父親は単身海外赴任中で、ほとんど母親一人の手で育てられた。流ができる前には海外赴任から戻った為、産まれてからはよく世話もみてくれたらしい。という話を、潤は大きくなってから聞いた。
「兄さん、朝です。入りますよ?」
言うと同時に素早くノックし、流は應の部屋の扉を開ける。慣れたように入り、シンプルな黒いカーテンを勢い良く開ける。シャッ、と軽快な音をたてカーテンが開くと、朝の強い光が暗い部屋に突き刺さる。陽光は應の顔にも容赦なく降り掛かるが、布団に埋もれた應は光をものともせず安眠している。
「あいかわらず……激しい寝入りっぷりだね」
「……ですね」
「あ、私が起こすからいいよ。流くん学校は?」
潤の隣で呆れたように兄を見る流の服装は、時間が時間にも関わらず制服ではなかった。
「今日は入試で休みです」
そう言い流は苦笑する。バレンタインの日にわざわざ入試をするとは、流の高校も不粋である。
「ありゃま、タイミング悪いね」
「そうでもないですよ。持ち帰る量が減って助かるんで」
この言葉に、二人はそれぞれ違うことを思い苦笑した。
「そうだ、流くんにも後からチョコあげるね。でも……迷惑じゃない?」
「ありがとうございます。潤さんのチョコは唯一、毎年家族で楽しみにしてるんですよ」
にっこり、という形容が相応しい笑顔を見せ、
「では、兄さんのこと頼みます」
と言い残し、流は應の部屋を後にした。
取り残された潤は、借りていたCDを物の少ない机の上に置く。部屋のカーテンを全て開け、様子を見てみる。これくらいのことで應が起きたなら、今日は雪か槍が降るかもしれない。案の定、すー、すー、と気持ち良さそうな寝息と共に、布団が上下している。毎朝起こす流の苦労が、手に取るようにわかる。流の場合、力業でも使うのだろうか。
そんなことを潤は考えながら、應の布団を剥ぐ。寒さに耐えられなくなって起きないかな、という小さな期待を込めて。
「たーかーっ! 朝だよーっ!」
まず一般的な起こし方として、声をかけながら揺さ振ってみる。相手が應なので、当然効果はさっぱりだ。
「もぉ……昔っから寝起き悪いんだから」
めげる事無く揺さ振るものの、起きる気配すらみえない。無防備に寝入る應の顔に近づき、観察する。女の子なら軽く嫉妬するくらいに、整った顔をしている。すべすべな頬に、そっと指で触れる。反応は全くない。そのまま突いてみるが、反応はやはりない。
「睫毛、長っ……」
起きないことを確信し、睫毛にも触れる。しなやかで、長い睫毛。女の子じゃないのに、女の子が理想として求めるパーツばかり持っている。羨ましい限りだ。
潤は観察を止め、立ち上がる。伊達に中学まで應を起こしていたわけじゃない。應を起こすツボは、十分心得ている。驚かせるか、激しい身体的ショックを与えれば、起きるのだ。潤はベッドの上に乗り、應を跨ぐ。そのままお腹辺りに膝立ちで馬乗りになる。
「ふぅ……。さて、やりますか」
ベッドに沈む足で体を浮かせ、気合いを入れる。
そして。
足に入れていた力を、抜く。應のお腹にずんっ、と全体重をかける。
「うっ」
お腹にクリーンヒットしたと思われる應から、呻き声が漏れる。
「應、起きた?」
体重をかけたまま、應の胸に手をつき前のめりになる。起きたかと思い顔を覗くが、眉間に皺が寄っただけであった。昔はこれで驚いて飛び起きたのに、今ではあまり効き目がないらしい。
「寝起き悪いの進化してるじゃん……」
がっくりと脱力しそうな体を、腕で支える。くすぐっても起きないのは、知っているからやらない。
「たーかぁ、起きてよ」
今度は跨がったまま、胸に手を当て揺さ振る。小刻みに揺らしてみたり大きく揺さ振ってみたり、強弱を付けてみたり。だが、一向に起きる気配はない。
こうなったら、力業を使わざるをえないかも。などと本気で考えかけた時。
「ん……」
下敷きにしていた應が、ついに身じろぎをした。
「あ、起きた?」
潤が思わず前のめりになり確認してみるが、反応はない。半分開いた瞼から、まだ覚醒してない瞳が覗く。
「應?」
呼んでも、返事も反応もない。ただ、半開きの目で、ぼやーっと潤を見るだけ。
「おーい、起きたの?」
目の前で手をひらひら振ってみる。應は、しばらく目の前を動く掌を見つめていた。
次の瞬間。
「ぬぉっ?」
應の手がのび、引っ張られる。その力は寝呆けている人のものとは思えないような強さで、急なことに潤は対応できなかった。引っ張られるままに、潤は應の上に倒れこんだ。應の首筋辺りに、潤の頭が乗っている。そんな状態に陥った。状況的に、潤が應を押し倒したような構図。
これは、色々ヤバい。應の寝呆け方で、ヤバいパターンだ。そう思って起き上がろうとしたら、腕がのびて強く抱き締められた。
「ちょっ、應っ!?」
密着する体の間にどうにか腕を割り込ませて離れようと抵抗するが、男の腕力には勝てない。抵抗したら、抱き締める力がより強くなっただけだった。應は潤を強く抱いたまま寝返りを打ち、横向きになる。潤もされるがまま、自然と應と添い寝するような形になった。
「應」
身動きをすればするほど絡め取られるような、そんな感覚に陥る。應の寝顔は先程と違い、苦しそうに歪んでいた。
「……くな……」
「え?」
泣きそうに歪む、應の寝顔。ぎゅう、と腕の力が増した。
「……行くな……」
潤にどうにか聞き取れたのは、その一言だった。たった一つの単語だが、意味のある言葉がやっと見つけられた。辛そうな顔をしている應は、未だ目を閉じたまま。
では、これは寝言? こんなにも苦しそうで、辛そうなのに。嫌な夢にでもうなされているのだろうか。
「應……どうしたの?」
返事は、ないまま。かき抱くようにし、首筋に顔を埋める應。首に、鎖骨に、息や髪があたり、くすぐったく感じる。
「……潤……」
次にはっきりと聞き取れたのは、潤自身の名。では、悪夢の原因は……?
「潤……くな……」
再び、呼ばれる。辛そうに。苦しそうに。行くな、と。
「應」
悪夢から、解放してあげたかった。辛そうに、名を呼ばないでほしかった。
「行かないよ」
体の間に入れた手が、知らず知らずのうちに。しがみつくように應の服を掴んでいた。どこに行ってしまうのを怖れているのか、わからないけど。今できるのは、これしかないから。
「應。私、行かないから」
だから、安心して。苦しそうにしないで。辛そうにしないで。そう、強く思った。
「ここにいるよ」
應が苦しむなら、辛いなら、どこにも行かない。行かないから。ここに、いるよ。
腕の力が、増す。痛い程、きつく抱き締められる。
「應、痛いよ」
息苦しい。首筋に顔を埋めたままなので、どんな表情をしているかはわからない。悪夢から解放されたのかも、わからない。わからないことばかり。
ココン、と背中の向こうにある扉を軽快に素早くノックされる。
「兄さん、圭さんみえましたよ」
がちゃりと扉を開けながら、流が圭を引きつれて入る。
「「「あ」」」
圭と流、それに潤の微妙な声が重なる。圭の顔が、ざっと勢い良く青ざめていく。應に抱き締められてベッドに横たわる潤。勘違いされても仕方がないシチュエーションだ。
「えっと……潤さん?」
「流くん……助けて」
「はい?」
「應が寝呆けて離してくれないの……」
「あ、それでですか。うちの兄が迷惑かけてすみません」
流は至極冷静に状況を理解し、ベッドに向かって進む。
「潤さん、動かないでくださいね」
「へ? う、うん」
ベッドの手前で足を止めると、おもむろに右足を高く振り上げる。右足はそのまま振り落とされ、踵が應の脇腹に見事クリーンヒットした。
「うぐっ!」
兄に対する容赦ない踵落としに、應は呻き声をあげ目を覚ます。
「おはようございます、兄さん。目の前を、よく御覧になってくださいね?」
流の言葉に従い、やっと両目の焦点が合う。
寝起きのあまり働いていない目に飛び込んだのは、細い誰かの首筋。擦れると硬質な音をたてる、硬めの髪。よく知っている、匂いがした。
「應、起きた?」
すぐ傍で、息遣いさえもわかるような距離から聞こえる、愛しい声。
「……え?」
いつも感じない腕の中の温もりに、丸まっていた背中を伸ばして声のした方を見る。
嫌な、予感がした。
「おはよ、應。腕、放してもらえると嬉しいんだけどね?」
困ったように笑う潤が、至近距離にいた。……というか、腕の中にいた。
「#△£◇Ж○!!?」
声にならない叫びを発して、應は腕を放し後ろにとびずさった。
「流くん、グッジョブ」
やっと解放されてベッドに座った潤は、親指を立てて流に向ける。
「いえいえ、出来の悪い兄ですみません」
流は笑顔で答える。
「私、お茶いれてくるね。その間に着替えてよ?」
潤はそう言い残し、流とともに部屋を出る。
ぱたん、と扉が閉められて。残ったのは、寝起きの應と、青い顔の圭。そして、微妙な沈黙だった。
◆ ◆ ◆
「……今、何時?」
沈黙が辛くて、自分から破った。
「……九時半」
答える圭を見て、時間に正確な奴だ、とぼんやり思う。
「もうそんな時間か? ってか圭、来るの早くないか?」
「約束どおりだよ」
そうだったかな、と思いながらベッドから下りる。時間を指定した記憶が、無きにしもあらず……といった感じだ。
「本当に……寝起き悪いのな」
圭の歯切れが悪い。まだ固まったままだし。
「あ? ……あぁ。毎朝流の愛の鞭が身に堪えるんだよな」
「そりゃそうだ。見事な踵落としだったからな」
圭の金縛りはようやく解けたようで、ブリキのロボのようにぎこちなく動きだし、ローテーブルの前に腰を下ろした。
「だろ。うーっ、さて、着替えるか」
伸びをしながら、クローゼットに向かう。楽なスウェットでいたいところだが、君も圭もいたら無理だ。髪をワックスで固めるのだけは、さすがに面倒だからやめるが。
「あーっと……本当に、隣なんだな」
「うん?」
「潤ちゃん」
未だに、圭が君を“潤ちゃん”という呼び方に慣れない。君の名前を呼ぶ圭を見ると、胸が少し燻るんだ。
「ああ。幼稚園からだけどな」
「そうなのか?」
適当に服を選び、パジャマ代わりにしているスウェットを脱ぐ。
「ここら辺、俺等が幼稚園の時に出来た新興住宅地だから。そん時に家買って、たまたまお隣さんに同年代の子供がいたって寸法」
「はぁー、えらい偶然だな」
俺にとっては、偶然では済まされない。運命、なんて大層な事は言わないから。必然、くらいは言ってもいいと思う。
「で、よく遊んだりしてたってわけだ」
「そーゆーこと。典型的な幼馴染みだよ」
脱ぎ捨てたスウェットを拾い、適当に畳む。
「顔洗ってくるから、適当に寛いでて」
「言われなくても」
既に寛いでる、とでも言うように、圭はにやりと笑う。
「あーはいはい、そうだったな」
俺はスウェット片手に部屋を出る。流の部屋の前を通り、階段を下りる。そのままリビングを通らずに洗面所に行こうとしたら、キッチンに通じる扉から流と君の声が聞こえてきた。
「潤さんが兄さんの彼女になってくださると、僕としても大変嬉しいんですけどね」
突拍子な言葉に自分の耳を疑い、足が止まる。
……弟よ。本人のいない間に何ぬけぬけと言っているんだ。というか、どういう流れでその話になったんだ。
「えっ……と。それ、本気で言ってる?」
扉の向こうから、君の少し困った声。立ち聞きは趣味が宜しくないと思い、立ち去ろうと一歩踏み出したその瞬間。
「ええ。潤さんは兄さんのこと、嫌いですか?」
流の至極落ち着いた声につられて、再び足を止めてしまった。
聞きたい。……聞きたくない。こんなにも流の声を憎らしいと思った瞬間は、初めてだ。だって、君の答えひとつで、俺の世界は天国にも地獄にもなるから。
「そんなわけないじゃんっ」
君の即答に、俺は嬉しくなる。嫌われては、ない。全身で安堵する。
「では、兄さんのこと……」
「……変わっちゃうんだね」
ぽつり、と落とすように呟く。
君の口から出たのは、問いに対する答えではなかった。
「應、いつのまにか〝男の人〟になってた……」
悲しそうな、寂しそうな君の声に、胸が締め付けられる。
「力も、体も、昔とは全然違ってた」
少し籠もったような君の声。顔を、手か何かで覆っているのだろうか。
「ずっと……変わらずにいられないのは、わかってるんだけどね。でも……変わらないでほしいの」
「兄さんには?」
「うん……。でも、変わっちゃった。体も、……心も」
段々小さくなる君の声。
俺は、いつのまにか君を不安にさせてた? 変わることで、君を悲しませてた?
「いつか……應に彼女が出来たり結婚したら、この関係も終わっちゃうのかな……?」
消えそうな声だった。
君の声が、泣いてる。涙は出ていないのかもしれない。けれど、泣いている。その声が、俺の中でひどく響くんだ。
ドアノブに手を掛ける寸前で、やめた。扉一枚が、厚く、遠く思えた。
「終わりませんよ」
流の、凛とした声。
ああ、そうだ。こいつはいつも、不安な時に話すと安心させてくれる。本人もそれをわかっていて、あえて話を聞く。
「たとえ変わっても、兄さんとの関係は終わりませんよ」
確信に満ちた声に、俺は安堵する。潤もきっと、流の声に安心したはずだ。もう、ドアノブに手を掛けようとは思わなかった。
流に任せよう。俺は動かなくなっていた足に命令して、のろのろと洗面所に向かった。気合いを入れる為に、頑張る為に、触ると飛び上がりそうに冷たい水で顔を洗った。
一通り身だしなみを整えて部屋に帰る途中、キッチンから出てくる君と流に出くわした。君の瞳は、本当にうっすらとだが充血してた。
「兄さん、やっと目が覚めましたか?」
「……おかげさまで」
流の笑顔の嫌味に、溜息のひとつも吐きたくなる。俺は君からお盆を受け取り、階段を上がる。君は少し沈んでいて、会話はない。
「では、僕は勉強に戻りますね」
「もうすぐ試験だもんな。適当に頑張れよ」
「兄さんも」
何を頑張るんだ、と口を開くより早く、流は部屋に入ってしまった。全く、未だによくわからない弟だ。改めてそう認識しながら君の方を見ると、君は俯いたまま。
「潤」
「……何?」
声に反応して、少しだけ顔が上がる。君が目の前で落ち込んでいるのに、何も出来ない自分が悔しかった。君を呼んだのに、そう思う表情を見られたくなかった。だから、君の頭に手を置いて。犬を撫でるように、君の髪をくしゃくしゃにした。
君が、いつもの君になるように。俺が、いつもの表情に戻るために。
「ちょ……髪がぐちゃるよっ」
君が焦ったような声を出す。
もう、大丈夫だよね? 俺も、表情を切り替えよう。君の為の、安心させるための笑い顔を被る。
「気のせい気のせい。圭の前で凹んでると、圭が心配するぞ?」
「それはやだっ」
「じゃ、いつもみたいに元気出せ。な?」
「……うん」
君は笑い顔になる為か、顔に手を当て頬を持ち上げている。口の形が、歪ながら無理矢理笑った形になる。
「その顔は……どうかと思うんですけど」
「別にいいのーっ。圭くん待たせてるし早く入ろっ?」
君は急に元気になって、俺の背中を押す。
「押したら茶が零れるから危ないって」
「應なら大丈夫だって」
君に背中を押され、傾れ込むように部屋に入った。俺と君が勢い良く入ってきて、圭は少し目を丸くしていた。
「圭くんお待たせっ」
「あ、うん。潤ちゃん、おはよ」
君は俺の後ろから圭に声をかける。
「おはよ」
そして上手い具合に俺の手からお盆を奪うと、ローテーブルに手際よくお茶を並べる。三つ、カップが並んでいる。
「って、ちょい待った。潤も居座る気か」
あまりにさり気なく置いていくもので、危うく見過ごしそうになった。
「え、いいじゃん。ねぇ、圭くん?」
首を軽く傾げて圭の方を見る君。
「そーそー、人数多い方が楽しいし。ねぇ、應くん?」
それを真似て、同じく軽く首を傾げて俺の方を見る圭。男がやっても気持ち悪いだけである。
「茶化すな誤魔化すな圭も乗るなっ」
「おぉ、應の一息早口」
「だーかーらーっ」
「意地悪言うと、チョコあげないからね」
一瞬、言葉に詰まる。君のチョコが貰えないのは、この上なく悲しい。
「別に意地悪とかじゃなくて……もういいよ。潤の好きにしなよ」
諦めた。というより、お手上げ。君に今まで口喧嘩で勝ったことなんてないし。
「やった、勝った」
君は小さくガッツポーズをし、圭と手を叩いて喜んでいる。
負けたけど、いっか。君が嬉しそうだし、圭も楽しそうだし、チョコは貰えるんだし。結果オーライ、かな。
観念して、主のいないカップの前に腰を下ろす。さすが長年俺の家に出入りしてきただけあって、君は俺専用のマグカップをよく知っている。有名なカフェチェーン店の、白いマグカップ。シンプルで、適度な大きさと厚さで手に馴染むから気に入っている。ほんの少しだけ砂糖を入れた、限りなくブラックに近い珈琲が中になみなみと注がれてる。君のいれた珈琲は、俺の好みをよく知っている味がした。
「圭くん珈琲でよかった?」
「うん。ミルク貰える?」
「どぞ」
「ども」
君が手渡したミルクピッチャーから、圭はカレースプーン三杯分くらいのミルクを投入する。で、砂糖は入れずにそのまま飲んだ。
「毎回思うんだけど」
「ん?」
目の前でとても美味しそうにミルクたっぷり珈琲を飲む圭。
「ミルクオンリーって、旨いの?」
「あ、私もそれ思った」
「んまいよ。お前、珈琲飲む度に同じ質問するのな」
圭は飲むのをやめ、呆れたように俺を見る。毎回飲む度にミルクだけで飲まれたら、確認したくなるのも当然だろう?
「俺には旨そうに見えないから」
「私も微妙……」
君は言葉通り微妙な顔をしている。
「二人してひどー」
ひどい、と言いながら、圭は一向に改める様子もなく、大量のミルク入り珈琲を飲む。どれだけ否定されても、止めたり変えたりという気は更々ないらしい。
「まっ、俺の好みは特殊ってことで」
「今更言われなくても知ってるし」
「タイプ微妙に違うのに、二人とも仲いいね」
「「だろ?」」
声が重なって、顔を見合わせて。みんなで笑って、お茶を飲んで、一息ついて。そうしたら、君が唐突に口を開いた。
「そういえば、さっき何の夢見てたの?」
想定外の言葉に、珈琲が息道に入ってむせた。
あ、やばい。意外と苦しいとこに入ったかも。
「ちょっ、大丈夫?」
「どした、平気か?」
あんまり大丈夫じゃないし、平気だったら苦しさで顔を真っ赤にして咳き込んでないと思う。……とか考えてて、変なところで頭だけが冷静だった。
君も圭も、さり気なく背中をさすってくれたりしちゃって。嬉しいじゃないか。
「ごほっ……ふぅ、お騒がせしました」
ようやく息がまともに出来るようになって、人心地ついた。
「そんなむせるような内容じゃないでしょ」
君はそう言うけれど、俺にとってはむせる内容だったんです。なんて、口が裂けても言えないけど。
「何お前、淫夢か?」
にやにやしながら聞いてきた圭を、自分に出来得る限りの素早い動作で殴り飛ばした。拳は上手いこと鳩尾に入り、今度は圭がむせる羽目になった。
「女の子の前で変なこと言うな、どアホ」
むせる圭を尻目に、君は俺と圭のやり取りを半ば唖然として傍観してた。
「だっ、からってっ、殴ることないだろっ」
「殴られてもしょうがないこと言うからだろ」
間髪入れずに切り返したら、黙った。
「……で、結局何の夢見てたの?」
圭が口を閉じたのを合図に、入れ替わるように君が口を開く。
「……潤、しつこい」
「しつこくないもん。誤魔化そうったって、そうはいかないからね」
いや、誤魔化す気はなかった。まぁ、誤魔化せれるものなら誤魔化したいが。
君の夢を見ていた、なんて、付き合ってもいない相手に言えないよ。しかも、君が俺の隣からいなくなってしまう夢。どんなに呼んでも、どんなに叫んでも、夢の中の君は行ってしまった。
この夢を口に出したら。君に言ったら。夢が現実になりそうで、怖い。君がいなくなってしまいそうで、怖いんだ。
「……應、恐い顔してどうしたの? そんなに嫌な夢だった?」
君が、不安そうな顔をして俺を覗き込む。
君を不安にさせちゃいけない。君が悲しむのは、もう見たくないよ。
「ちょっと、な。嫌な夢だったから……聞かないでくれる?」
その時、自分がどんな顔をしていたのか、わからない。苦笑していたと、思う。
「うん……わかった。ごめんね」
ただ、俺の顔を見た君は追求を止めた。
そんなにひどい顔、してるのだろうか? 確かに、夢を思い出して気分は鬱いでいた。あまり顔に出ない方だと自負していたが、もしかしたら君にはわかってしまったのかもしれない。
君がいなくなる夢を思い出すと、胸が痛くなる。苦しいよ。
「……私っ、チョコの用意してくるね」
「いってらっしゃーい」
君はいきなり席を立ち、俺が答える暇もなく部屋を出ていった。圭は笑顔で君を見送った後、わざとらしいくらいに大きな溜息を吐いた。
「應さぁ、本当に大丈夫か?」
「んー……あんまり」
「潤ちゃん、ちょっと泣きそうだったぞ」
君が、泣きそうだった? 自分のことに精一杯で、君の顔まで見れなかった。
「え、嘘だろ?」
「マジ」
気付かないくらいヤバかったのかよ、と更に心配された。
「やっちまった……」
後ろにあったベッドの側面にもたれかかるように、倒れる。肩から上をベッドに乗せて、顔が見られたくなくて腕で隠した。
やってしまった。君に心配を掛けて、不安にさせて。やっちゃいけないことだったのに。俺が、自分と約束したことなのに。
君を泣かせない。君を不安にさせない。君に心配掛けさせない。君を、悲しませない。
なのに、約束、守れなかった。
自分の動揺を抑えるのに必死で。夢に、簡単に揺さ振られて。こんなんじゃ駄目だって思ってる。わかってる。けど、俺はまだまだ子供で。自分に手一杯で、余裕なくて。大人になりたいのに、理想と現実は違って。君を安心させる、そんな余裕ある大人になりたい。そう思うのに、なれないんだ。
「俺、最悪だな……」
自嘲気味に、呟いた。
自分を戒めるために。もう、約束を破らないために。
「何凹んでるんだか知らないけど、元気出せよ。お前が元気ないと潤ちゃんも元気なくなるし、俺まで調子出ないだろ」
何だかんだ言いながら、結局圭も心配しているらしい。
こういう時、友の存在は有り難い。
「……だって俺ら、一心同体だろ?」
「冗談言える余裕残ってんなら大丈夫だな」
乾いた笑いで、応えた。
余裕なんてない。今の俺の精一杯の、見栄と強がり。強がっていれば、いつか元に戻れる。そう、信じてるから。
その後、俺は“いつもの俺”に戻った。
圭とアホな話をして、ふざけて、笑って。そんなことをやっていたら、君が部屋から出て三十分ほどが過ぎた。珈琲もそろそろ無くなるし、おかわりはいるかと圭に聞いた時だった。
ケータイが、着うたとバイブ音を騒々しいくらいの音量で喚き散らし、ぺかぺかと光った。君専用の着うただ。親指一本を隙間にねじ込み勢い良く開け、耳に近付けながら通話ボタンを押した。
「潤?」
『應? あのね、もうすぐ出来るから。出来たて食べるやつだから、焼けたら速攻持ってくから準備しといてね?』
「わかった」
『あとねっ、應はビターの方がいいよね? 圭くんにビターとミルク、どっちがいいか聞いて?』
「圭ー、ビターとミルク、どっちがいい?」
「何の話?」
「チョコ。ビターかミルクか」
「断然ミルク」
そんないい笑顔で言われても、親指立てても、見えないぞ?
「ん。潤、圭はミルクで、俺はビター」
『りょーかーい。あ、流くんは……おじさんにあげるときでいっかな?』
「いんじゃない?」
……知らないけど。
電話の向こうからピー、と間抜けな電子音が鳴り響く。
『じゃっ、焼けたから切るねっ』
「うん。じゃ」
君がオーブンを開ける音を最後に聞いて、電話が切れた。
「潤ちゃん、やっぱいい子だな」
圭がにやつく口元を隠しながら話す。切れ切れに、会話が聞こえていたらしい。俺もつい、にやりと笑った。
「いつものことだよ」
昔からだよ、という説明はやめた。
今の君が皆のものなら、昔の君は俺だけのものにしたい。独占欲は、胸にしまっておこう。
誰にも知られないよう、ばれないよう。圭にも、流にも、もちろん君にも。時々苦しくなるけれど、それは代償だ。
「さて、潤がチョコを持ってくる前に、テーブルを片付けておくようにとのお達しだ」
「必要性がないだろ」
そう指差されたローテーブルは、確かにカップ以外に物は乗ってない。物は少なく、が、俺の信条だから。実際、部屋も物が少なくてがらんとしている。本棚だけは、一杯になっているけれど。
「んじゃ、珈琲のおかわり入れてくる」
お盆に再び三つのカップを乗せ、部屋を出た。
急がないと、間に合わないかもしれない。少し急ぎ足で、でも足音がうるさくないように階段を下り、キッチンへ駆け込んだ。フィルターに豆を入れて用意し、ポットのお湯を注ぎ込む。いい匂いがする。香ばしい、珈琲を入れる時の匂いが、好きだ。お湯がフィルターを通るのを待っている間は、珈琲の薫りに包まれて心が落ち着く。余計なことを、考えなくて済む。大きく息を吸い込んで、肺を珈琲で満たした。
息を吐きだす時、ぴんっぽーん、と間抜けな呼び出し音が聞こえた。この音を聞くと、気が抜ける。何年も前から替えようと提案しているのに、使えるからと言って放置したままだし。いい加減替えてくれないかと思いながら、玄関の扉を開けた。
「ありがと、應。再びお邪魔しまーす」
思った通り君がいて、扉を押さえて招き入れる。
君が通ると、ふわりと甘いチョコの匂い。珈琲も好きだけど、この匂いもいいかもしれない。君が作るチョコの匂いを嗅ぐと、嬉しくなる。君の近くにいるんだと、実感できるんだ。
「お疲れ。珈琲入れてるから、先行って」
「えっ、そんなことしてたら冷めちゃうよ」
「あとカップに入れるだけだから」
「じゃあ待ってる。早く早く」
君に押されるようにキッチンに入り、フィルターを通ったばかりの珈琲をカップに分ける。
「あ」
「どしたの?」
「ミルクピッチャー、部屋に忘れた」
「空だったの?」
「圭じゃ足りないかも」
「ん~っ、後でも大丈夫だよ。早く~っ」
「はいはい」
なんだかんだと急かされて、先に行く君を追いかけて階段を上った。目の前からは珈琲で、少し先からはチョコの甘い匂い。お昼前におやつというのも、悪いことをしているみたいでわくわくする。
「圭くんお待たせーっ」
君は元気よく部屋の戸を開ける。
「お待たせされましたー」
中に入る前から、圭の嬉しそうな声が聞こえた。一般的な男なら、義理とはいえ女の子からバレンタインチョコを貰って悪い気はしないはずだ。俺とか流は……嫌がるから、例外かな。見知らぬ人からの手作りとか、見知らぬ人からのプレゼントとか。なんか、怖いし。見知った人でも、彼女等の言う愛は、俺にとっての呪いや怨念に思える。捕って喰われそう、と何度思ったことか。俺の場合、プレゼントに込められた彼女等の気持ちが恐ろしくって、安心して受け取れない。何度も断り、その度に泣かれたり逆ギレされたり押しつけられたり。あんまりいい思い出がない。たぶん流の場合は、持ち帰るのが面倒だからだろうけど。過剰に包装されたそれらは、飾りや箱で意外とかさばる。
部屋に入って珈琲を並べる短い間に、そんなことを考えてた。
「えっと、私から二人へのバレンタインです。フォンダンショコラって言うチョコケーキで、中は生焼けじゃないのであしからず」
君の声で拡散する思考を収束すると、目の前には白いココット型に入ったチョコケーキが粉砂糖とミントで飾られていた。見た目はケーキ屋で売られているやつみたいだ。
「へぇー。ありがと、潤ちゃん」
「潤、ありがと」
「どういたしまして。じゃあ、冷めないうちに食べてね」
君に促され持つと、確かに温かい。スプーンを入れると驚くほど柔らかくて、中からとろりとしたチョコソースが出てきた。口に運ぶと、甘すぎず丁度いい。生地はしっとりとしていて生チョコのようで、温かさとソースが余計に美味しさを引き立てる。
「すんごい美味い! 潤ちゃんってお菓子上手なんだな!」
興奮したように喋る圭。手放しで誉められ、少し顔を紅潮させてはにかむように君は笑う。贔屓目に見ても、確かにプロが作ったものにも劣らない出来だと思う。
「ホント? よかった。應はどう? 甘すぎない?」
食べる俺たちを伺うように見ていて、君は未だ一口も手をつけていない。自分で言ってたのに、冷めちゃうよ。
「美味いし、丁度いいよ。また腕上げた?」
「練習してから作ってますから」
君はすましてそう言い、やっと一口目を食べた。
「んっ、今回もいい感じに出来てる」
君は嬉しそうに言い、圭と一緒になんとも言えない幸せそうな顔をして食べている。つられるように、俺も幸せを食べた。
毎年、君と二人だった。バレンタインは、君とだけの行事だった。付き合っているわけでもないけど、ずっと二人で過ごしてきた。君が作ったチョコを、二人で食べて。後から、父さんや流にもあげるのを見て。それがもう、当たり前だったんだ。
でも今年は、初めて君が違う男にもチョコをあげるのを見た。嫉妬、まではいかないけれど、もやもやしたものがずっと胸の中で渦巻いていた。君が作ったこのケーキの中に、君の気持ちはどれだけこもっているのだろう。
俺への気持ちと、圭への気持ち。……きっと、同じくらいなんだろう。特別に思われていないことくらい、わかってる。けれど、君への気持ちは消せないんだ。長い間、胸の中に降り積もったこの想いは、簡単に融けない。
もう、この想いが叶うことはないかもしれない。けど、いいんだ。誰よりも、どの男よりも君の傍にいれるなら。求めないって、決めたから。君が笑って過ごせるならば、それでいいんだ。
だから、君の笑顔を見ていると。三人のバレンタインも悪くない。そう、思えた。