第9話「聖戦初戦」
暁の闇を破り、鋭い警鐘が二度、ヴァルグラードに鳴り響いた。
門上の見張りが、遠くの丘に連なる灯りの列を視認したのだ。
「旗列、三! 聖印多数、祈祷の低唱が聞こえます! 敵、接近中!」
その報告に、城壁を走る蒼灯が帯のように繋がり、警戒の色を強める。
アルフレッドの怒声が、眠気を吹き飛ばした。
「全隊起床! 列は十人隊で組め! 矢は、俺の合図があるまで放つな!」
リシアは書記へ冷静に指示を出す。
「通達の準備を。“防衛”の語を前に。恐怖を煽る言葉は禁止ですわ」
「歌……」
セラフィーナの表情から、眠たげな色が完全に消える。
「黙らせる準備は、できてる」
俺は、東の空を見据えた。
「黒鷹線、点け。迎え撃つ」
◇
夜が完全に明ける前、先行していたカイルが音もなく帰投した。
その報告は、常に簡潔で正確だ。
「先鋒は七百。槍歩兵を主体に、僧兵が百。破魔の槍が二十、聖油の火壺を多数携帯。後方に、宣告台を載せた戦車を確認」
「三列の薄壁で受けます」
アルフレッドが、広げられた地図を指し示す。
「押し返す必要はない。敵の“頭を折る”ことだけを考えろ。歌台の前に、道を作る」
「油は灰に、歌は“静謡幕”で無力化する」
セラフィーナの言葉に、俺は頷いた。
「降伏受理の通達文は、わたくしが用意しておきます。ただし、武器を捨てた者のみを対象といたしましょう」
「交戦規定を聞け」
俺は、全員に最終確認を促した。
「非戦闘民には手を出すな。審問官、僧兵、そして放火隊は殲滅対象とする。逃げる軍勢は追わない。ただし、放火隊だけは、追って殺せ」
◇
やがて、敵の軍勢がヴァルグラードの前に布陣を終え、一人の宣告官が赤い封蝋を掲げて馬を進めてきた。
「“災厄の庇護”は異端である! 汝らに、聖なる浄化の火を適用する!」
その高圧的な物言いに、城壁の上のリシアが、穏やかな笑みで応じた。
「ここは庇護の地。祈りは自由ですが、火を灯すことは禁じておりますわ」
宣告官は、その言葉を鼻で笑うと、持っていた布告を地面に立てた杭に乱暴に打ち付け、無言で去っていった。
俺は、門の外へ展開する自軍に、背中だけで合図を送った。
「市中には入れるな。外で終わらせる」
◇
土塁と木柵の手前に、俺たちの全兵力が展開する。
三列の薄壁。二列目に弓隊。数では、圧倒的に不利だった。
「歌、下げた」
セラフィーナが囁くと、戦場に響き渡っていた不気味な祈祷の圧力が、ふっと薄くなる。
「列は壁、壁は動かない。――始める」
◇
敵の角笛が、甲高く鳴り響いた。
破魔の槍を構えた僧兵たちが、俺たちの張った結界を突き、甲高い音を立てて膜が軋ませる。
「半歩だけ退け! 敵との間合いを殺せ!」
アルフレッドの号令が飛ぶ。
二列目の弓兵から、頼りないながらも矢の雨が放たれた。
敵の前列が僅かに怯んだ、その瞬間。
「黒槍、道を穿て」
俺は、地面を強く踏みしめた。
黒槍の列が、足元の地面から噴出し、敵陣を縦に引き裂く。兵士たちが悲鳴を上げて倒れ、分厚かったはずの隊列が、あっけなくひしゃげた。
側面から、敵の軽騎兵が回り込もうとする。
「通行止め」
セラフィーナの低い声と共に、蒼炎の帯が地を横一文字に走った。
炎は馬と騎手だけを正確に包み込み、一息で焼き落とす。延焼は一切広がらず、炭化した影だけが地面に沈んだ。
◇
「鐘索(合図用の鐘の綱)、視認。落とす」
影から躍り出たカイルが、宣告台で打ち鳴らされていた鐘の索を、一閃のもとに断ち切った。
戦場に響き渡っていた不気味な聖歌が途切れ、敵陣の気勢が明らかに崩れる。
「終わりだ」
俺の言葉に応じ、黒槍が宣告台の車輪と床板を同時に突き上げた。台はバランスを失い、轟音を立てて横転する。中にいた僧たちが、無様に地面に散らばった。
「き、貴様ぁぁぁ!」
敵の指揮官である騎士長が、怒号を上げて俺に突進してくる。
俺は一歩でその間合いを潰すと、金眼を閃かせた。
閃光と共に、騎士長の兜の継ぎ目に刃が吸い込まれ、一息でその首が宙を舞う。
「旗、倒れた。――指揮官を落とす。今だ、押せ!」
アルフレッドの檄が飛んだ。
◇
「殉教を! 聖なる火を!」
指揮官を失った僧兵たちが、狂気に駆られて突撃してくる。
セラフィーナは、彼らの周囲に円環状の蒼炎の壁を立て、逃げ場を完全に塞いだ。
「灰に還れ」
円環の内側で、僧兵たちが次々と崩れ落ちていく。
その凄惨な光景とは裏腹に、炎は外周の畑にも森にも、一切燃え移ることはなかった。
「武器を捨てた者だけ生かす。抵抗は討て」
俺は、全軍に聞こえるように宣言した。
「伏せろ! 動けば射るぞ!」
アルフレッドの声が、戦場に響き渡る。
数十の兵がその場に槍を捨てて伏せ、抵抗を続けた僅かな小隊は、俺が放った黒槍の雨に沈んだ。
◇
「武器を集めろ。十人ごとに整列させろ。戦死者は、敵味方の区別なく記録を分けろ」
アルフレッドが、戦後の処理を淡々と進めていく。
セラフィーナは、味方の火傷兵に冷却の魔術を施していた。致命傷を負った僧兵には、確認の上で静かに止めを刺していく。
カイルは、敵の死体から審問印や赦免状の束、そして火壺の目録を回収していた。
「印と公文書、押さえました。写しを回します」
「見出しは“聖戦初戦、防衛成功”と」
リシアが、書記に命じる。
「宣告台の破壊、指揮官の首級、僧兵の殲滅、そして放火未遂の無力化。ただ事実を並べるだけで、結構ですわ」
◇
その時だった。
北の空に、黒い煙が幾筋も立ち上っているのが見えた。
伝令が、血相を変えて馬で駆け込んでくる。
「報告! 退却した僧兵の一部が、北の村々に火を! 家も、畑も……逃げ遅れた子供も……!」
一瞬、時が止まった。
「北の黒煙、放火隊だ。追撃隊、出る。皆殺しにする」
俺は、即断した。
セラフィーナの放った逆焼きの炎が、村を飲み込もうとしていた火の舌を断ち切る。
カイルが、影から影へと飛び移り、放火犯の位置を示す印を次々と打ち込んでいった。
「右翼、楔となって潰せ!」
アルフレッドの号令一下、俺たちの軍が反転する。
俺は、断罪の楔で敵の退路を断ち切り、残った小隊を黒槍で串刺しにした。
短い悲鳴の後、森に静けさが戻る。
だが、火を止めても、燃え尽きた家屋と、黒焦げになって抱き合う親子の遺体は、元には戻らない。
すすで顔を汚した母親が、虚ろな声で呟いた。
「どうして……私たちは、ただ……」
俺は、兜を脱ぐことなく、低く言った。
「……救いが遅れた。次は遅れない」
◇
「被害名簿を、今すぐ作成なさい! 焼失した家屋、畑、そして……亡くなった方のお名前も。配給の増量と、仮宿の手配も急いで!」
リシアが、早口で書記に指示を飛ばす。
「遠征監からの通文です。“これは序章にすぎない”と」
カイルの報告に、アルフレッドが歯噛みした。
「黒鷹線を二重にする。救援線を常設し、即応できるようにせねば」
セラフィーナが、蒼い灯りを一つ、静かに空へ浮かべた。
「……迷わないように」
その夜。
城外の杭に、新たな布告が打ち付けられていた。赤い蝋で厳重に封をされた、遠征監の署名入り。
リシアが、それを読み上げる。
「“これは聖戦の序章である。次は、本隊が赴く”」
「規定どおり夜は閉門だ。全隊、防衛配置」
俺は、短く命じた。
「正面で迎え撃つ。――焼けば、殺す」
城壁の蒼灯が一斉に、その輝きを増した。
風が、祈りの匂いと、そしてまだ消えぬ黒煙の筋を、静かに運んでくる。