その二
予告どおり、昼過ぎにろくが再び顔を見せた。農家には大事な肥料であるおまるの中身をしかるべく片付け、中食(昼食)として粟飯と梅干しを椀に入れてくれた。
ろくが着替えにと持ってきた上の娘の着物は、赤系の縞模様だったから、新十郎は年に合わないと恥ずかしく思いつつ身につけたのだが、見るなりろくは似合ってると言ってのけた。
椀を受け取りながら新十郎は杖になるような木の棒は手に入らないかと、ろくに尋ねた。
「四、五日でよくなると思うけど、そりゃじっとしてばかりも嫌だよね。裏山で探してこよう」
「お手数かけます。杖があれば、以降はさほどご面倒をかけることもなくなるかと……」
「あんたみたいな人は世話かけること、あんまり気にしなくていいと思うけどね」
ろくは目を細めて言った。
そう簡単には杖に使える棒が見つからないだろうと思っていた新十郎だったが、ろくは一刻(約2時間)たつかどうかのうちに、片方に横木のついた杖にぴったりの棒を持って現れた。横木の切り口からすると、切り立てである。
「うちの納屋を覗いたら、ちょうどよさげなのがあったよ。昔、馬小屋で使ってた柵だね」
新十郎は礼を言い、試しに上がり框に腰掛け、そこから棒を杖として立ってみた。ろくの見立ては確かだった。杖で右を支えてゆっくり歩いてみる。もう少し痛みが引けば、かなり動けるようになりそうだった。
礼を言おうと、土間でろくと間近に向き合ったら、ろくの背は新十郎より三寸以上高く、身体に幅も厚みもあり、新十郎は少し圧倒された。
ろくの方は新十郎のそんな動揺に気がつかなかったのか、気にしなかったのか、「着物、丈もちょうど良いかんじだね。娘より似合ってる」と関心は違うところにあった。
日が暮れる頃に友吉、辰吉の親子が戻ってきた。
新十郎は緊張した。どんな態度をとられるかわからなかったからだ。
辰吉の「ただいま、帰ったよぉ」という元気な声が聞こえ、続いて引戸を開ける音がした。
気配を感じ取っていた新十郎は土間との仕切りの障子を開けて待っていた。二人の姿が見えたところで上がり框に指をついて返した。
「お帰りなさいませ」
顔をあげると、友吉、辰吉親子はポカンと口を開けて新十郎を見ていた。
夜食は囲炉裏のある真ん中の部屋で固まって食べた。
家では炊事も給仕も全くの妻任せにしている新十郎が、しおらしく友吉と辰吉のために鍋から粥を椀についだ。世話になっているせめてもの礼という気持ちがあった。
辰吉は照れながら椀を受け取り、その後は新十郎の顔をちょくちょく見上げながら、粥を啜っていた。
新十郎は「そんな食べ方してたら、こぼしますよ」と、辰吉の膝に手拭いを広げ、頬についた粥を拭いてやった。
友吉はそんな辰吉を微笑んで眺めていた。
そういう友吉も粥をこぼしかけた。
食べたり給仕をしながら、新十郎は二人の日常と村のことを尋ねた。来るつもりの村ではなかったから、何も知らないとうそぶいて、だ。
もちろんある程度の情報は仕入れている。事前に手に入れた情報と実際がどれくらい同じか、違っているかが重要だ。
事前に集めた情報では、この公儀、幕府の直轄領である櫛間村には二十五件の家があるが、庄屋の一族である三家がずば抜けて裕福で、あとは似たりよったりの小さな農家という話だった。他に庄屋一族の奉公人となっている一家が十二件。
庄屋の現当主は、新兵衛といい、昨年家を継いだばかりの三十半ばの男だという。父親は健在で、今は友人を頼んで上方へ旅行中だそうだ。
「山嵐という山賊の二番手の実家は、どんな御家なんですか?」
「井澤の丹兵衛さんといって、庄屋さんの分家の一つです」
友吉は明るく答えた。
――庄屋の分家出身の山賊……だから、代官所が山嵐に手を出せない?分家なのだし、そんなわけはない。やはり山嵐そのものに代官所が何らかの形で関わっていると考えるべきだ……厄介だな……
新十郎が友吉達の暮らしを尋ねると、友吉は親から受け継いだ田畑を少し売り払い、一人と一頭でなんとか守りのできる広さにして百姓を続けていると答えた。今年からは辰吉が手伝ってくれているので、かなり楽になったと穏やかな笑みを浮かべて言い、それを聞いた辰吉は嬉しそうだった。その姿はなんともほほえましく愛らしかった。新十郎が辰吉を抱き締めたい衝動にかられたほどだ。
「あのぉ……辰吉ちゃんのお母様は?」
新十郎はいかにも言いにくそうに話を向けた。途端に友吉の全身から重い気か立ち上った。
「おいらの甲斐性がなくて、ここを出ていっちまった……辰吉にはすまねぇことした……」
それ以上言いたくないということが、表情からも、全身から出た気からも明々白々だった。
「母ちゃんのことは覚えてねぇから、どうでもいいよ」
辰吉は父親を気遣ってか、そう言った。健気である。
新十郎はまたしても辰吉を抱き締めたい衝動にかられた。ふと、そんな己の気持ちに不思議さを感じた。女の振りをしなければと思う気持ちが起こした衝動に思えた。
新十郎は一気に重たく暗くなった雰囲気を変えるため、壊れてないか、調子を見るのを兼ねて、三味線をひいてみることにした。
横座りで三味線をひくのは初めてで、少しやりにくかったができないことはなく、三味線にも鈸にも大きな問題はなかった。
新十郎が親子のために唄ってひいたのは短い静かな曲だ。
親子はうっとりした表情で聞き入っている。…と、新十郎は思った。
新十郎自身も、三味線をひいて唄うことで、引きずっていた賊にやられた気分の悪さと悔しさを、一時的とはいえ、忘れることができていた。切り替えることができたと感じた。
新十郎にとって三味線は嫌なこと、悔しいこと、辛いことといった、暗い気持ちを切り替えさせてくれる、心の拠り所なのだ。表向きには探索のお役目にも役立つという言い訳をしながら、本音では気まぐれで始めた三味線なのに、いつの間にか、そうなっていた。
後片付けは辰吉がやった。嫌々やる風は微塵もなかった。
その様子になんて働き者の良い息子なんだと、新十郎はしみじみ感じ入った。
その間に友吉は馬の様子を見に平屋から出ていった。気になるところがあるらしい。馬は毛色のとおり「黒」と名付けられていた。六歳になる雌馬だという。
そんな二人の様子を眺めながら、新十郎は昼間にろくから聞いた友吉のこれまでの話を思い返した。実は、友吉が話したがらないこともろくは教えていたのだ。
友吉は隣村からいちという嫁を迎えたのだが、いちは辰吉が一歳半の頃、ある日突然この家を出ていった。当時、まだ友吉の両親が健在で、ろくによると、いちは舅とも姑とも折り合いが悪かったらしい。そうして、いちが行方知れずになってまもなく舅が卒中で息絶え、姑も一年たたないうちに死んだ。
友吉にとっては悪夢のような一年だったろうに、母親の四十九日の法要ではさばさばとした風があったという。
それ以来、隣家のろく一家や権太郎一家に助けてもらいながら、友吉は一人で田畑を耕し、辰吉を育ててきた。
「後添いの話はいくつもあったけんど、友吉さん、ぜんぶ相手の顔も見ずに断っちまってねぇ……おいちさんで懲りたかねぇ……かなりの美人だったしねぇ……」
そう言いながら、ろくはじっと新十郎の顔を見ていた。
「あんた、ちょっとおいちさんに似てる気がするよ」
辰吉がしっかりしているのは、母親がいないせいもあるのだと、新十郎は思った。
辰吉は台所を片付けたあとには、新十郎の部屋に小皿を蓋にして椀を持ってきた。
「夜中に喉が乾くといけねぇから」
「ありがとう。辰吉ちゃんは働き者だね」
新十郎がそう言うと、俯いていた辰吉の耳が赤くなった。
「父ちゃんと二人だから、当然だよ」
新十郎は「悪いけど、この手拭いを濡らしてきてほしいの」と、椀を置いたばかりの辰吉に頼んだ。辰吉は全くためらうことなく、嫌な顔を見せず、軽く頷き、手拭いを持って水瓶へ引き返した。小振りな桶に水を汲んで手拭いを濡らし、桶ごと新十郎のところへ戻ってきた。
「この方が良いかなって思って……」
よく気のつく子供である。
新十郎が礼を言ったあとに感心して褒めると、辰吉は顔を赤らめ、すぐに戸口へ向かった。馬小屋へ行くのだろう。
新十郎は椀を手に取った。
古い、使い込まれた椀だ。いちが使っていた椀ではないか。新十郎はふっとそんな気がした。
布団も友吉親子が仲良く敷いてくれた。「誰も来ねぇと思うが、おいら達は引き戸側の部屋で寝てるから、安心して休んでくれ」と言い、親子は引き戸側の部屋へと入っていった。
友吉親子が寝入ってから、新十郎は桶の水と手拭いで化粧を落とし、寝床に入った。朝は親子が起きる前に起きて化粧しなければいけない。夜の短い睡眠時間は親子が田畑へ出ている間に昼寝して補えばいいと思った。
布団の中でしみじみと新十郎は思った。まさかこんな風に、男であることを隠し続けることになるとは、と。
翌日も友吉親子は朝早くから田畑へ出掛けた。昼時に一度戻ってきて中食を食べたが四半刻(約30分)ほどしかいなかった。
新十郎は何もしないのはあまりに気詰まりだったが、何をするにも勝手がわからない。足首の腫れは引かない。
右足首を擦りながら、上がり框でぼんやりしていると、外にいきなり人の気配が湧いて出た。近づいてくる間、気配を消し去っていたのだ。
新十郎はひそかに身構えた。それから、すぐに緊張を解いた。
「七之助か。隠れん坊は無駄だ。おろくさん達に見つからないうちにさっさと入ってこい」
すぐに引戸を素早く開け閉めし、笠を被って着物を尻端折りした男が入ってきた。
笠の縁を手で上げた。薄汚れた顔をしていたが、間違いなく安生七之助だった。
「おくつろぎのところ、申し訳ありませぬが、探索のことを話し合わないわけにいきませぬから」
皮肉たっぷりの口調だ。
「お前が現れるのを待っていたよ。なにせ、この足首では動けなくてなぁ」
新十郎は晒を巻いた足首を前に出して七之助に見せた。
七之助は不信の目をしている。
「お前は元気そうじゃないか。俺の前に姿を現したということは、何か掴んだのだな?」
新十郎はあえて決めつけてみた。言いながら、七之助の様子を窺っていた。
七之助は不信の目のままだ。
「残念ながら、何も。この辺りを見てまわりましたが、気になる所は何もありません。何も見つからないから、天方さんの方で何か掴んでいないか、尋ねようと思ったんです」
「その目つきは何だ?言いたいことがあるなら、はっきり言え」
七之助の目つきに新十郎はそう言わずにいられなかった。
「本当に足首、怪我してるんですか?いてっ」
新十郎は恐るべき早さで七之助の腹を杖でついていた。
「俺がそんな嘘をつくか!」
腹を擦りながら新十郎を見ている七之助の目は、やはり不信のままだ。
「この辺りの地形図を描いてくれ」
新十郎は懐から紙と眉を描くために使っている筆と墨を出して七之助に手渡した。
万が一捕まった時のことを考え、少なくとも一目でわかるような地形図を描いて持ち歩くことはしないのが、隠密行動時の小人目付の心得だ。
そんな気遣いの必要な隠密行動だから、新十郎曰く、何を探っているか隠すのに化粧は筆と墨を持ち歩く良い方便である。
七之助はさらさらと村の中の家や田畑の配置を紙に記した。
「新田の申告をしていないのかと思ったのですが、少なくともざっと計算してみた限りでは、検地の記録とほとんど変わりません」
「ふうん……村の様子におかしな所がないとなると、人だが……」
新十郎は杖を揺らしながら、七之助が描いた村の地形図を眺めた。本当に土地に何の秘密もないのか。
目安箱に入っていた訴状は短いものだった。
〈ごてんりゃう(御天領)のくしま村にひみつ有之 不正有之 いつまですておくや〉
たったそれだけだ。悪戯と思われかねない文面と字の稚拙さだったが、その訴状を見た、現目付では一番の切れ者である神保が引っ掛かりを覚え、新十郎達に探索が言いつけられた。
――訴状を見たのが他の御目付様だったら、お取り上げにならなかったかもな。取り上げたとしても、せいぜい代官に質すだけで終わっただろう
それが訴状の実物を見た新十郎の率直な感想だった。
新十郎ほどではないにせよ、七之助は優秀な小人目付である。その七之助が不審な点はないというのだから、そうなのだろうと思いつつ、新十郎は自身で確かめたい気持ちが湧いていた。
――忌々しい怪我だ……
と、人が近づいてくる気配がした。三人いる。一人はろくだと思った新十郎だが、あとの二人がわからない。
――おろくさんの家族だろうか?
七之助も気配に気づいたようで、入り口へ振り向いた。
「床下へ隠れろ」
新十郎は小声で指図し、自身は上がり框から素早く四つん這いで障子の内へと引っ込んだ。
二人が身を隠しおえたところで、引戸がガラリと開けられた。
「おしんさん、いるかい?……って、そりゃいるよね?」
ろくの声が響いた。
「はい、おります」
新十郎は閉じたばかりの障子をそっと開けた。
ろくの後ろに見知らぬ男が二人立っていた。三十くらいの小肥りしている男と白髪混じりのひょろ長い男だ。
二人は新十郎を見て目を丸くしていた。
「足の具合はどうだい?ひどくなってねぇかい?」
「ひどくはなっておりません。腫れは変わりませんけれども、いただいた膏薬のおかげか痛みはすこうし軽くなっているかと……」
新十郎がそう答えている間にろくと男二人が目の前にやって来た。男二人の目は新十郎に釘付けだ。
ろくが二人の男に振り向いて言った。
「こちらは庄屋の新兵衛さんと庄屋さんの分家で年寄(副村長のような役目)をしている弥右衛門さん」
そこでろくは新十郎に向き直った。
「誰かが余所者が入り込んでるって庄屋さんに告げ口したらしくてね。怪我人だってのに、やな話だよ。それであんたの顔を見ておきたいって言うんで、仕方なく連れてきた」
「『仕方なく』とは何だ、おろく」
ろくに言い返したのは弥右衛門だ。新兵衛は呆けた顔で新十郎を見続けている。
これだから、村は厄介なのだと新十郎は思った。この対応は大抵の村の常である。人口が少なく何かと連座制で縛られているから、余所者に対する警戒心は強い。行商人を始め、それなりに外から様々な人がやってくるが、強請たかりの類いも少なくないのだから、警戒して当然ではある。
新十郎はおとなしく挨拶しておくことにした。
「おろくさんからお聞きと存じますが、しんと申します。三味線と唄を生業としております。一座の者と旅をしておりましたところ、山賊に襲われ、命からがら逃げるうちに崖から転げ落ちて足をくじいてしまい……動けずに困っていたところを通りかかった友吉さん親子がご親切にこの屋へ連れてきてくださいました」
新十郎が喋っている間も新兵衛は呆けたままだったが、急に股間に手をやった。
同性である新十郎は、新兵衛の身に何が起こったかわかってしまい、うんざりした。
――早すぎだろ。嫁さんと妾がいるくせに。そりゃ、こんな美人じゃないだろうけどね。ふふん。
新十郎達は下調べして、新兵衛が同い年の妻との間に六人の子をもうけた上に五つ年下の妾との間にも三人の子がいることを把握していた。もっとも、この時代には若死にする人が多いから、九人のうち、この時に存命なのは四人だけだった。
ろくと弥右衛門は、新兵衛の仕草に気づいたのか気づかなかったのか、新十郎に向いたまま、やり取りを続けていた。
「三味線と唄ができるんなら、今度の祭りの時にやってもらおうかね」
「祭りは二月近く先の話じゃないですか。そんなに長くこんな所にいてくれるわけないでしょ。ねぇ、おしんさん。早く京の都やお江戸へ戻りたいよねぇ」
新十郎は微笑んでごまかすことにした。探索の目処が何も立っていないし、この村の内情はもちろん、目の前の三人のこともよくわかっていないのだから、迂闊に返事はできない。
すると、今度は弥右衛門が股間に手をやり、新兵衛の方はしゃがみこんでしまった。
新十郎は、新兵衛の行動に内心はぎょっとしたが表には出さず、ひたすら床下に潜む七之助に気づかないことを祈った。
「男ってのは、美人を見ると、すぐこれだ。庄屋さんに年寄ともあろうお二人がなんてザマだね。恥ずかしい!おしんさん、呆れてるよ」
三人が出ていって引戸が締められた後も、気配が遠退くまで新十郎は上がり框に黙って座り、七之助は床下から出てこなかった。
頭に埃と蜘蛛の巣をつけて七之助が床下から出てきたのは、ろくが三十間離れた家に帰りついた頃だ。
「床下から外へ逃げたかと思ったよ」
埃と蜘蛛の巣を払う七之助に新十郎がのほほんと言葉をかけたから、七之助は一段と強い不信の目になった。
「そんな造りにはなっていませんよ、この家。外から床下に潜り込まれないよう、ちゃんと地面を堀りこんで囲ってある」
「そんなにぷりぷりしなさんな。お前は麓の町に行けるじゃないか。そこでうまい酒と飯を食ってくるがいい。山賊の噂や評判を聞き出しながらな。ほら」
新十郎は銭を七之助に差し出した。
不信の目で七之助は新十郎の差し出した銭を見つめた。手は出さなかった。
「頼みはなんですか?」
「さすがだなぁ。俺が仕込んだだけのことはある」
新十郎は自画自賛の頷きをしてから、言った。
「白粉と紅を買ってきてくれ」




