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最終回

 

 新十郎は前と同じように七之助に見張りと手伝いをさせて川縁で化粧し、髪は島田に結い、上帯もきっちり路考結びで絞め、今度は七之助と一緒に櫛間村へと戻った。小人目付として話をするためだ。

 七之助は、正体を明かすことは普通やらないし、こんなくたびれた格好で供もつれず、役人といっても怪しまれるだけではないかと抗議したが、公儀の役人なのは事実なのだから、堂々としていれば良いと新十郎は諭していた。

 北から村へ入り、まずは偽実方と話をした。


 偽実方の部屋には()()がいた。

 まんは偽実方、東蔵の情婦なのだ。そうではないかと新十郎は思っていたから、驚きはしなかった。

 偽実方、東蔵の顔色は三日前より良くなっていた。首の痛みも軽くなってきているという。

 新十郎はほっとすると同時に、東蔵の頑丈さに感心した。

 東蔵いわく、元々丈夫な方ではあったが、山で暮らした月日が更に頑健な身体を作ったらしい。

 新十郎が決めた対処に東蔵もまんも揃って深く頭を下げた。


 小人目付の探索の職務は、本来、事実確認だけで、対象に調べていることを知らせはしない。対処や処罰は、小人目付や徒目付らの報告に基づき、目付が決める。

 今回、新十郎がやったこと、やろうとしていることは完全な職務越権、職務違反である。長く悩んでいたのはそのためだ。


「繰り返すが、山賊としての山嵐は解散するように。もしも今後、山嵐の面々が悪事を働いたら、その時は容赦しないぞ」

 それで締めくくったつもりの新十郎に東蔵が顔を上げて言った。

「最後くらいは女振りにしてくれませんかね……」

 それを聞いた、横に座るまんが東蔵を睨んだ。


 続いて、新十郎と七之助は、弥右衛門の家へ向かった。東蔵と話をする前に()()を使いにして、丹兵衛に弥右衛門の家へ出向くよう知らせていたから、二人が着いた時には客間に二人が揃っていた。

 偽実方には新十郎が話したが、弥右衛門と丹兵衛には、七之助が小人目付だと名乗り、新十郎は三味線弾きという生業から、時々その手伝いをしているということにした。

 それを聞いた弥右衛門も丹兵衛もこんな綺麗な女人が現れたら、大抵の男は鼻の下が延びて油断するから、秘密を探るのに都合が良いだろうなと納得していた。

 畏まる弥右衛門と丹兵衛に、七之助が今の実方は山嵐の頭であること、従って、友吉の罪は問わない、偽実方は手附を罷免、体調が良くなり次第、身柄は江戸へ送ることになる、山嵐と櫛間村のつながりは、それによって山嵐の悪事がおさまっていたのだから、今後も続けるように。今の時点では首領を抑えるだけで、他の面々を探し出して捕まえようとは思っていないが、もしも山嵐が再び山賊として活動するようなら、おまえ達も罪を背負うことになる、と告げた。

 弥右衛門も丹兵衛も青ざめながら、ひたすら畏まりましたと頭を下げ続けた。

 新十郎は、七之助の宣告の後に、山嵐の面々を櫛間村に正式に迎え入れてはどうかと、控えめな口調で付け加えた。そうすれば、今後、櫛間村はもっと穏やかな押込みや争いのない村になることでしょうと。

 熊太郎には東蔵ほどでなくとも、かなりの統率力があると、新十郎は感じていた。そのうえ敬愛する東蔵の指示は命がけで守ろうとするだろう。

 そんな元山賊のいる櫛間村。間違いなく防衛効果がある。


 七之助は弥右衛門の家で、新十郎と別れるつもりでいたらしいが、新十郎は友吉の家へ一緒に来いと命じた。

「あの親子にも俺がおまえの手先として村に来ていたと説明するためだ」

「わざわざそれがしが行く必要ありますか?また新兵衛の家に戻らないといけないじゃありませんか」

「なんでそんなに嫌がるんだ?女一人で戻るより説得力がある」

 七之助の顔つきは明らかに「誰が『女一人』だ」と言っていたが、黙って南へと歩き始めた。

 新十郎は七之助の一歩後ろをしずしずと歩いていった。



 二人が友吉の家にあと五間ほどまでに近づいた時、辰吉が戸口から飛び出してきた。

「おしんさん、お帰り!無事でよかった~!」

 嬉しそうな、満面の笑顔だ。それから七之助を見て、不思議そうな顔でペコリと頭を下げた。礼儀正しい子供である。

 次には戸口に友吉が顔を見せた。こちらはすぐに七之助に気づいて顔が曇った。

「このお人はお役人です。実方様のことを捌きにいらっしゃいました。わたくしを送ってくださったのです」

 七之助は「それがしはまた新兵衛宅へ戻るから、いずれまた」と言いながら、友吉に笠に手を遣る挨拶をし、すたすたと歩き去った。さっさのこの場を離れたいというのが、新十郎には見え見えだった。


「あのお人がおしんさんが知り合いだというお江戸にいるお役人?」

 友吉が戸惑った顔で尋ねてきた。

 新十郎はうつむき加減で用意していた台詞を口にした。

「ごめんなさい。元々わたくしはあのお役人様のお指図でこの村へ入り込むつもりだったのです。それが山嵐に襲われて……」

 新十郎はそっと友吉の顔を窺い見た。さほど驚いてはいなかった。

「そうか……そういうことだったか……」

「ごめんなさい。だますつもりはなかったんです。けれど友吉さんも辰吉ちゃんも、おろくさんも親切で……ありがたくて……言い出せなくて……」

 男であることも言い出せなかった。心の中では、そう続けた。


「本当は山嵐のお頭だという、あの実方様はどうなるんです?」

 役人の手先と分かったからか、友吉の言葉遣いが変わった。

「そんな言葉遣いしないでください。わたくしを許せないでしょうけど、でも、お二人とおろくさんを探っていたわけではないから……実方様はお役御免はもちろんのこと、体調がよくなったら、科人としてお江戸送りになります」

「死罪になるのかい?あのお方には、おいらは世話になったんだ……あんたにしたことは許せねぇけど……」


 友吉の顔を見ていたら、予定していた台詞が言えなくなった。というのも、寂しそうな顔になっていたのだ。

「お別れに来なさったんだね。この村に来た目的が終わったから」

 友吉の言葉に辰吉の顔色が変わった。

「え?お江戸に帰っちゃうの?いつ?」

 新十郎は笑みを浮かべて辰吉に言った。

「明日、発つつもりです」

「そんなぁ!急すぎるよ!帰ってきたばかりじゃないか!」

「ほんとにごめんなさいね。こんなに親切にしてもらったのに、大したお礼もせずに去ってしまうなんて」

「違うよ!お礼なんか要らない!帰るのをもう少し待ってよ。もうすぐお祭りがあるんだ。お祭り見てから帰ろうよ。三人でお祭りしようよ。おしんさんの三味線をみんなに聞かせてよ」

 辰吉の目から涙がこぼれた。新十郎にはまさかの辰吉の反応だった。泣くとは思っていなかった。

 思わず新十郎はしゃがんで辰吉をそっと抱き締めた。

「ありがとう。そんな風に言ってくれるなんて。ほんとに嬉しい……」

「とにかくうちに入ろう。おしんさんは疲れているだろうから……」と言った友吉が、直後に新十郎の左手首をそっと掴んだ。晒に気がついたのだ。

「この怪我はどうしなさった?」

「かすり傷です。大したことないんです。山の中で怪我したから、膿んではいけないと、晒を巻いてるだけで」

 友吉は新十郎の目を見つめてきた。新十郎は友吉から目をそらし、辰吉の背を押して戸口から土間へ足を踏み入れた。


 新十郎もこの家で過ごすのはあと一日だと思うと、しみじみとした気持ちで中を見回した。

 三人は夜食を静かに食べ、食べ終わった後に新十郎はこれまでもそうしてきたように、三味線を弾いて唄った。

 辰吉は必死に涙をこらえて聴いていた。

 なかなか寝ようとしなかった辰吉だが、新十郎が唄う子守唄でとうとう寝入ってしまった。友吉はそっと息子を抱えて寝屋へ連れていった。

 その後ろ姿を新十郎は見納めだとじっと見守った。

 自身の心の中が穏やかでないことは自覚していたが、その気持ちがどういう類いのものなのか、新十郎はわからなくなっていた。


 寝屋から囲炉裏の部屋に戻ってきた友吉に、新十郎はいちの容姿を再確認し、ときで間違いないと、今の姿と暮らしを告げた。

 新十郎の予想どおり、元気で暮らしていると知って友吉は心底からホッとした顔になり、目が潤んだ。

「よかった。本当によかった……」

 そう言いながら、友吉は軽く顔を撫でた。

「これで切り替えることができますね。辰吉ちゃんのためにも、後添いを迎えないと」

 友吉が驚いたように新十郎を見た。

「後添いをもらうつもりはねぇ。言っただろう、おいらは甲斐性のないヤツだって」

「そんなことありませんよ。今の友吉さんなら、きっと、みんな喜んで後添いに来てくれます」

 励ますつもりで新十郎はそう言った。

「みんなじゃねぇだろう」

 友吉は悲しげな笑みを浮かべた、

「少なくともあんた以外は、だ」


「ごめんなさい……」

 考える前に口が動いていた。

「ごめんなさい……騙すつもりはなかったんです。本当に。ここで暮らしたこの半月、本当に楽しくて、楽しかったから言えなくて……」

 大変なことや戸惑ったことも多かったのに、振り返ると楽しかったことばかりが思い出される。派手なことは何もない日々だった。なのに、そんな地味な日々が、振り返るととても大切な、かけがえの無かった日々に感じられた。


 珍しく涙が出そうになった。新十郎は必死にこらえた。白粉顔で泣いたら悲惨なことになる。

 零れそうになる涙を袖から襦袢を出して拭おうと新十郎はうつむいた。友吉が動く気配がした。

 次には目の前に友吉がいた。

「泣かないでくれ。おいら達も本当に楽しかったよ。家へ(けぇ)ると、あんたがにっこり笑って出迎えてくれて、夜には三味線弾いて唄ってくれて。なんて贅沢な暮らしだろうって思ってたよ。こんな暮らしが長く続くわけないってことは、辰吉もわかってた。わかってたけんど、ついああ言わずにいられなかったんだ。許してやってくれ」

「お怒りにならないんですか?」

 新十郎は友吉の顔を見あげ、尋ねた。

「あんたみたいな綺麗な人がこんな山ん中へ来るのはよっぽどの事情があるんだろうと思ってたからね。それがあの御手附様のお調べとは思ってもみなかったけんど……」

「友吉さんも辰吉ちゃんも、優しすぎます……」

「おしんさんも優しいじゃないか。こんなおいら達との暮らしを楽しかったと言ってくれるんだ。いや、優しいだけじゃない。強い人だ。その強さがおいらにもほしいよ」

 あまりに意外過ぎた言葉に、新十郎は友吉の顔を唖然と見つめた。

「この前のように抱きしめても良いかい?最後にもう一度だけ」

 顔を赤くして友吉が言った。


 新十郎は唖然とした状態のまま、ほとんど無自覚に頷いていた。頷いた直後にしまったと思ったが、時、已に遅し。バレても構わない、いやとうにバレてるはずだと思いながら、身を固くした。

 この前のように、またあの悪夢を見るかもしれないと思った。さらに身体が固くなる。

 その直後、この前久しぶりに見た悪夢の最後を思い出した。気持ち悪さと痛みに頭がおかしくなりそうになっていた新十郎の身体が突然楽になったのだ。宙に浮かんでいるような感覚だった。そして、誰かが新十郎を見つめていた。それまでに見えていた欲望や欲情の塊の目ではない、穏やかな優しい目で。深い情に満ちた目で。


 友吉は前と同様に、そっと腕を回してきた。壊れ物を抱えるように。

 そうだ。いつだって友吉は「おしん」に、薄いギヤマン(硝子)や繭を扱うように、丁寧に慎重に接してきた。最初は客人に対する遠慮だと思っていた新十郎だったが、そのうち、その慎重さと丁寧さに別の感情を感じるようになった。そんな友吉の扱いが新十郎に女振りを崩させなかった。実方に見せたような振る舞いをすることなど、全く頭に浮かばなかった。


 ――あの目は……


 黙ってそっと「おしん」を抱いている友吉に、新十郎の緊張が次第に解けていった。どうしてここまで自分に優しく丁寧に接するのだろう。そんなことを思いながら、その扱いが心地よかったのだと悟った。三人の暮らしはままごと遊びのような暮らしだった。けれど、心地よかった。楽しかった。それは事実だ。


 新十郎の身体から力が抜け切ったとき、友吉が胡座をかいて「おしん」を膝の上に抱えあげた。新十郎は閉じていた目を一瞬だけ開けた。見えたのは、あの穏やかで優しい目だった。すぐにまた目を閉じた。閉じてもその目が見えていた。

 それまでは嫌いだった抱き抱えられることが、この時は何故か心地好かった。

 ――友吉さんはお天道様の匂いがする……土の匂い?作物の匂い?

 そんなことを考えながら、新十郎もまたそっと友吉の首に腕を回した。これで最後だという思いから。言葉で説明しなくてもいいように。

 ただ、そうやって長い時間、抱き合っていただけだった。大人のままごと遊び。そんな言葉が新十郎の頭に浮かんでいた。生まれて初めての、そしておそらく最初で最後になる思いが新十郎に湧いた。

 ――変われるものなら、女に変わりたかった……この人といる時だけは……



 翌朝、夜が明ける前に新十郎は友吉の家を出た。後の始末は七之助に指示してある。

 数日のうちに、偽実方は病死を擬装し、こっそり櫛間村から抜け出すことになっている。そして何年後か、ほとぼりが冷めた頃に、新十郎との約束を守って堅気の暮らしを続けているなら、もしもその時にまだ代官所の仕事をやる気があるなら、別の代官所に手代として働けるよう画策したいと新十郎は思っていた。その可能性だけは伝えてある。


 かなり迷いはしたが、考えれば考えるほど、新十郎の気持ちは東蔵達を助けることに傾いていった。

 というのも、確かに東蔵達は悪事を働いたが、そもそもは家族を助けようとして始めたことであり、殺しと強姦の罪は犯したことがない。そのうえ、東蔵は実方に成り済ましてからはひたすら不作に苦しむ村人のために尽くしてきた。手下が自暴自棄になることも防いできた。

 そんな東蔵を山賊の慣例どおりに罰することが新十郎にはできなかったのだ。

 新十郎のやったこと、やろうとしていることの真実が上にばれれば、禄を失い、浪人になるところだが、某目付の弱みを握っていることもあり、新十郎は自身の目こぼしが表に出ることはないと自信を持っていた。


 友吉の家が見えなくなる直前に、新十郎は今一度と振り向いた。長く、いつまでも覚えておきたい風景だ。

 江戸へ戻ればやらないといけないことが山ほどある。今回の探索の上役への報告書は、慎重に書かなければいけない。

 すぐにまた新しい探索を割り当てられるだろう。

 そんなことを考えているうちに、江戸にいる妻子のことがしばらく頭から完全に抜け落ちていたことに新十郎は気づいた。そんな自分自身にゾッとした。このことは絶対に誰にも言えない。

 夢から覚めたような気分だった。

 けれど、夢を見る前とは何かが違った。江戸へ戻るまでに、その「何か」を封印しなければいけない。新十郎はそう思った。

 友吉親子と出会ったあの川縁で化粧を落として島田をほどき、麓の町で袴を買うつもりでいた。櫛間村にいた「おしん」とは、それでお別れだ。




 新十郎が櫛間村を出て半刻後――

「おしんさん、黙って出て行っちゃうなんてひどいや。グスッ」

「改めて別れの挨拶をされたら、つらいと思ったんだよ。父ちゃんもつらかっただろうな……」

「ほんとは男だって、今も信じられないよ」

「よく言いつけを守ったな。偉かったぞ、辰吉」

「あれだけ顔が綺麗だし、動いても綺麗で、おろくおばさんより女の人らしかったから、言えなかった」

「それで良いんだ。向こうから実は男ですって言わない限り、言っちゃいけない。女の人だと思って相対しないといけない。それが礼儀ってやつだ」


 少しだけ開けていた引き戸をガラリと大きく開けてろくが顔を見せた。手に封書を持っている。

「ねぇ、おしんさん、黙ってお江戸へ帰っちゃったのかい?こんな文をおらに置いてさ……」

「どんな文だい?」

「これまでのお礼と引き続きあんたと辰坊をよろしくって。後添いの世話まで頼んでるよ」

「後添いは要らねぇ。あんたには悪いが、まだまだおいらを助てくれ」

「いくら男でも、あれだけ綺麗な顔を半月も見た後じゃ、しばらくこの辺の女はみんな芋に見えるよねぇ。おしんさんも罪なことしたよ」

「芋には見えとらんよ……そういうあんたも罪なことしてなかったか、おしんさんに」

「え?罪なことかい?戸惑った顔や仕草が可愛くて、可愛くて、からかわずにいられなかっただけだよ。あれで男だなんて、もったいないことするよねぇ、神様も」

「男だから、こんな山ん中のおいら達のところへ来たんだ。女だったら、とうの昔に公方様かお大名の奥向きに囲われてる」

「そうだね……友吉さん、あんた、男とはいえ、あんな綺麗な人と一つ屋根の下で半月近くも暮らしてホントにムラムラっときたりしなかったのかい?」

「辰吉の前で何言い出しやがる」

「あはは、ごめん、ごめん。だって気になってさ。あんたとおしんさんが一緒にいる雰囲気が良かったし、おしんさんはこのところますます綺麗になってきてたから、なんかあったんじゃないかって……」

 友吉は黙りこんだ。

「父ちゃんがおしんさんをモノにしてたら、ここへいてくれたんじゃないか?」

 思わぬ辰吉の言葉に友吉もろくも目を丸くした。

「辰吉、お前、言葉の意味わかって言ってるか?先にクロ連れて田んぼへ行ってろ!」

 辰吉は涙の痕が残る顔で舌をペロリと出し、戸口から外へ飛び出していった。その姿が見えなくなってから、友吉はろくの顔は見ずに話し始めた。


「ムラムラというか、まぁ……あったよ。優しいこと言ってくれるから、つい抱き締めちまったことが。けんど、あの人は怖がってた。あれだけ綺麗だと嫌な目や辛い目に遭ったことがあるんじゃないかと思ってたけんど、そのとおりで、そのことを引きずってた。おいらの腕ん中で身体を固くして小刻みに震えてた。それがわかったとき、新兵衛さんみたいな気持ちは消えて無くなった。ただ守りたいって思った……震えをなくしてやりたいと……手附様の頭をなぐった時になんもためらいは無かった……自分でも不思議だった……」

 ろくはじっと友吉の横顔を見ていた。

「心残りがあるんじゃないの?」

「ないよ」

 友吉はそのままろくの顔は見ずに戸口へ向かった。戸口脇に置いてあった鍬を手に取り外へ出た。そこで立ち止まり、ふと振り向いた。視線は奥の方の上がり框だった。すぐに向き直り歩き始めた。

 ろくはその時、友吉はそこに「おしん」の幻を見たのだと思った。

「世の中、うまくいかないもんだねぇ……」

 一言呟き、ろくも戸口を出た。引戸を閉めるとき、つい中を見回した。それから軽くかぶりを振り、後ろ手にしっかり戸を閉めた。










 ―― 完 ――












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