2-3. 幽霊の生い立ち
楊美雀は罪人の娘だった。
父の楊伯は宮廷に出入りする美術商で、皇帝の求める古代の書家の名蹟を数多く入荷していたが、あるときそれが贋作だと見破られてしまったらしい。
改めて調べると、楊伯が持ち込んだ書画の半分以上が贋作と鑑定された。そんなはずはない、と必死で言い訳しても、時すでに遅し。
楊伯は、皇帝をたばかった罪で杖刑を受け、樫の杖で背を打たれている途中に亡くなった。 ――
「まあ…… それで、美雀さんは、学はあるのに下級女官の地位に甘んじていたのですね。気の毒なこと」
本題の春霞の不倫話の前にまず、美雀の身の上話にゆったりとあいづちを打ち、雪麗はひとりお菓子をつまんだ。
桂花を練り込んだ、ふんわり華やかな香りの紅豆羹 ―― 明明の好物でもあるはずだが、「一緒にどうぞ」 と勧めても、珍しく 「よっ用事がありますので」 と断られたのだ。
ちなみに幽霊はものを食べられないらしく、美雀に勧めると 【あんだそれ、嫌味だっぺ?】 とキレられた。
【え? そごでひとりで食べんのあんだ? さすが、お姫様だっぺ。人の心を踏みにじるのが上手だなぁ】
ここまで言われてはむしろ、美雀のほうが嫌味なのではないかと思う雪麗。
だが、大切でない部分を細かくつついて、場の雰囲気をより悪くする趣味はない。
雪麗が無視してお茶を飲んでいると、美雀は大きくためいきをついた。
どうやらまだ、身の上を喋り足りないようである。
【―― そもそもだ、お父のやづも欲かぎすぎるがら、いげねかったんだぁ】
「きっと、贋書だとは気づいておられなかったんでしょう?」
【いや、あれは本物だった】
「あら…… どういうことでしょう?」
【そもそもだ、いまの宮廷に本物を持ち込んでも、意味がねえんだっぺ】
美雀によれば、現皇帝は文化人を気取って 『書聖』 と尊ばれる汪氏の作品を数多く集めているが、実のところその中に本物は、ほとんどないのだそうだ。
なんでも、宮廷の鑑定士が皇帝の好みをよく知っていて、好みに合うものを本物、合わないものを偽物と断じてしまうらしい。
これは美術商の間では有名な裏話だったから、皆こぞって皇帝好みの書を求め、あるいは贋造しては宮廷に持ち込んでいるのだ。
先に鑑定士に袖の下を渡しておけば 『贋なり』 と断定される心配もない。実に、いいかげんなものであった。
しかし、美雀の父親はそれをしなかった。己の鑑定眼を信じ、真の本物だけを宮廷に持ち込んだのである。
【まっだぐよぉ…… 真を通しでぇなら、宮廷なんが来るどごろじゃね、っつうのになぁ】
辛辣ながらも父親への愛着が感じられる美雀の口調に、ついホロリとなってしまった雪麗。
だが、次の美雀の言葉に、まだゆっくり味わっていなかった紅豆羹を思わず飲み込んでしまった。
「だがら、あだすがこっそり、贋物に差し替えでやっでだのに」
「んふっ、ごほっ、んふっ…… 」
咳き込む雪麗をよそに、美雀は、しみじみとこう言ってのけた。
【 ―― まったく。あだすの作ったのだげにしでおげば良がっだのに…… 】
「…… んふっごほっ…… 作った、ですって?」
【んだ。ちょっと、見せでやろうが?】
「どうやって?」
【こうやっでだっぺ】
美雀がすっと雪麗の首に手を伸ばして触れた。
次の瞬間、がくっと、雪麗の身体から力が抜ける…… いや。
雪麗の身体は動いているが、雪麗自身が動いている気がしないのだ。
まるで、勝手に動く乗り物に乗って、外を眺めているようである。
(美雀さん? いったい、なにを……?)
「ちょっとのあいだ、身体貸しでぐれ。すぐ返すがら」
己の口が普段と全く違うイントネーションで喋りだすのを、雪麗は半分驚き、半分面白がるような気持ちで聞いた。
(これが 『乗り移る』 という現象なのですね……!)
なかなかの感動である。
美雀は文机の前に座り、墨をゆっくりと磨ると、筆に含ませた。
とん、と紙の上に慎重に筆がおろされ、黒々とした線が、すうっと引かれる。
緊張と、極限までの集中。
それをもって書かれた字には、一片の迷いもない。
軽快に、それでいて重厚に。紙面に白と黒の世界が織りなされていく。
書にはさほど詳しくない雪麗にも、それが見事な手蹟であることがみてとれた。
「陛下のお好きな…… 汪氏の書に似ていますが、それより少し壮大な感があります」
「んだ。
雄渾無限、
軽快如浮雲、
猛々如飛龍 ――
ごれが本来の、汪書だっぺ」
「え……?」
美雀は続けて、新たな紙に同じ文言をしたためた。
今回も集中しているが、先ほどよりもゆっくりである。
書かれた手蹟も、読みやすいが勢いに欠け、きっちり枠に収まった感じがあった。
「なんだか…… 先ほどのものと似ているのに、全く違いますね」
「んだ。ごっぢが、お上の汪書だっぺ。紙面に心遊ばせるこどなぐ、粒が揃っでいるが退屈だ」
「なるほど……」
「んでな、あだすはいづも、こうやっで細工しだもんをこっそり、お父の本物と入れ替えでおいたんだ。
気づかないお父が宮廷の鑑定士に見せれば、一発好好っつうわげだぁ」
にしししし、と得意そうに、美雀は笑った。
父親の楊伯は、美術商をやれるだけの鑑定眼を持ってはいたが、娘の作った贋書には騙されていた、ということらしい。
「ただ、あの日は量が多ぐて間に合わねがっただ。半分残しでおげ、言っだのにお父は聞がねかった……」
うーん、と美雀 ―― 実際には雪麗が、両手を上げて大きく伸びをした。と同時に、雪麗の視界がぐらっと動いて、元に戻る。
美雀が、雪麗の身体から抜けたのだ。
【ありがどな、久々に筆を持でで楽しがっだ】
「ふふ、こちらこそ」
贋書というのがとんでもなく引っ掛かる雪麗だが、実際に体験してみれば、美雀の能力は疑いようがない。
―― つくづく、宮廷も惜しい人材をなくしたもの…… と、ここまで考えて、雪麗はやっと、本来聞きたかったことを思い出した。
「つまり、美雀は、こうして作った贋書を外に売って小遣い稼ぎしただけなのに、後宮のものを盗んだと罪を着せられて、そのうえ自殺に見せかけて殺されたというのですね? その…… 春霞と宦官に」
【んだ! ひどいっぺ?】
「それで、殺された原因は、春霞と宦官の、その……」
口ごもる雪麗。
今は何かと敵対してくるとはいえ、幼い頃から知っている実の妹がそんな成人的なことを宦官としていると思うと、非常に複雑な気分である。
だがそんな雪麗の逡巡には全くお構いなしに、美雀は憤懣やる方ない、といった表情できっぱりと叫んだのだった。
【逢い引きを見だっぺ!】