2-2. 見えない客
「この役立ず! 家柄だけで侍女になったおめでたいお嬢さまは本当に使えないわね! 雪麗さまをお連れせずによくもひとりでおめおめとここに戻れたものだこと!」
「ひいっ……」
仙泉宮の裏の泉で、明明は小柄な身体をさらに小さくして、うつむいた。
香寧は怒ると声がやたらと大きくなる。
本人としては叱る相手に気を遣い、わざわざ泉のほとりまで足を運んで叱っているのであるが、その罵詈雑言が実は庭園中に響き渡っていることには気づいていない。
「あの、すみませんでした、香寧ねえさん」
「明明、あなたが謝らなければならないのは、雪麗さまによ! 私に謝ってどうするのよバカなの!? そんな時間があるなら、ほら、さっさと探しに行く!」
「はいぃぃぃ!」
怒鳴られて、勢いよく飛び出していった先で、明明はほっと息をつき、それから大いに困惑することになる。
ほっとしたのは、はぐれてしまった主の姿が、庭園にあったからだ。
困惑したのは、その主が、《《見えない誰かと》》嬉しそうに話していたからだ。
「あら、明明。どう? わたしだって、ひとりでちゃんと帰ってこられましたよ」
雪麗は明明を認めると、得意そうに胸を張った。
そして返事をする間もなく、主はさらに明明を困惑させる指示を出したのだった。
「お客様が一緒なの。お茶とお菓子をふたりぶん、お願いしますね」
「…… はい …… あの?」
聞き返そうかどうしようか迷って、やっぱり聞き返そうと明明が口を開いたときには、雪麗はもう、すたすたと宮に向かって歩いていってしまっていた。
見えない何者かに、笑顔を向けながら。――
※※※※
その頃。
宮正院の書庫では、皇太弟・浩仁が立ったまま、巻物に目を通していた。最近の事件の記録である。
彼はそのうち、解決したものを順に追っていた。
解決済みの項目には大きく 『済』 の判が押されるが、比較的新しいこの書には、すでにこの判がびっしり並んでいる。立派なものだ。
もしこれに、賄賂とともに一方的な讒言を容れた挙げ句の、杜撰な捜査の結果がひとつもないとしたら、だが。
『華桜宮の耳飾り盗難。同宮庭園の瀧の裏に落ちていたものを尚寝局女官が清掃中に見つけ、返却。盗難の事実なきものとみなす』
『尚儀局女官どうしの喧嘩。原因は皇太弟近侍・宦官 朱九狼を挟む恋愛のもつれ。儀礼を司る部署の者に不相応、両名ともに浄衣院で20日の勤務ののち、尚寝局に移す』
順に記録を追っていた浩仁の口元にほんのり苦笑が浮かび、すぐ消えた。
求めていた記録は、次だった。
『小虹河の溺死体。尚寝局女官 楊美雀、20歳。
遺書に、後宮の宝物を盗み売りさばいていた旨あり、故にこれを苦にしての自殺とみなす』
やはり、と大きくうなずき、書を元に戻す。
―― 先ほど、南庭の道に突っ立っていた女官。
おっとりとした態度や丁寧で滑らかな物言い、そして何よりも顔かたちが、皇貴妃である苳雪麗とあまりに似ていた。というか、本人だった。
―― ことさらな美女でもないのに、式典で見掛けるたびにそれとなく目で追ってしまっていた人。
皇帝への忠誠を振りかざして近衛隊長という地位を得たのも、皇太弟 ―― つまりは実子でなく異母弟、という微妙な己の立場を (おもに対外的に) 守るのが5割なら、あとの半分は、そちらのほうがより自然に彼女の近くにいられるからだ。
もっとも浩仁に、それ以上なにかをしようというつもりもなかった。
立場的に手を出してはいけないことは了解している。
清廉な雰囲気と立ち居振舞い、そして侍女や女官たちを大切にしている様子が見ていると癒される…… これはどちらかといえば、恋というよりは推しに近い。
だが、ともかくも。
彼女を見間違えるはずがない、という自信が、彼にはあった。
そして彼女が名乗った 『楊美雀』 という名は偽名だろう…… と、心当たりを調べてみたところ、あっさり見つかったというわけだ。
(ということは、あの女官、どう考えても…… 苳貴妃か。そのような性格には見えなかったが……)
抱き止めたときには、髪にたきしめた麝香にほのかに饅頭の匂いが混じっていた。
南庭のあの道で饅頭の匂いをさせている、ということは、彼女は貴妃でありながら女官の姿をして奴婢たちに混じって食事していたということになる。
それに、あのときの慌てた表情も…… 普段の優雅で落ち着いている彼女からは想像もできないほど、生き生きとしていた……
(……ん? ちょっと待て)
それ可愛くないか、と首をかしげる皇太子。
(いや、私が推しているのは、あの静かな湖を思わせる穏やかさと落ち着きと、清らかさであって……)
そんな人が、女官に変装して饅頭を口いっぱいにほおばるんである。
( ………………! )
言葉にならない衝撃が、浩仁を襲った。なにそれ超見たい。
(女官姿のときなら…… 気軽に話しかけられるし、饅頭もおごって差し上げられるし、断ることなど許さん、と押し通せるな)
考えながら書庫を出た皇太子の顔が、微妙にゆるんでいたことに気づいたのは、おつきの宦官・九狼だけだったという。
※※※※
「あの、雪麗さま。どなたかお客様がいらっしゃるんですよねこれから……?」
応接ではなく自室へ、と命じられ、雪麗の部屋にお茶とお菓子を運んだ明明は、おそるおそる尋ねた。
はぐれちゃったショックで主の頭がおかしくなっていたら、と思うと気が気ではない。
明明が想定している中で、最もマシな答えは 『是是』 で、最悪な答えは 『今そこにいるじゃない』 だが……
雪麗の返事は、その最悪なほうに限りなく近かった。
いや、むしろ予想を超えていた。
「せっかくだから、明明にも紹介しますね。もしかしたら、見えないかもしれませんけど……」
すぐ隣の、何もないはずの空間を示して、雪麗ははっきりと、こう言ったのだった。
「こちら、もと尚寝局女官の楊美雀さん。殺されたのが悔しすぎて、泰山府に行き損ねたんですって」