エピローグ①
「お姉さま、残念だったわね」
「ええ、本当に」
杯を手に勝ち誇る妹の表情と、膝の上に乗る赤子の愛らしい顔を、雪麗は交互に眺めた。
「これから泰煜ちゃんと毎日会えなくなるのかと思うと、残念で仕方ないです…… 春霞、あなたのことは別にいいのですけれども」
「ふふっ…… わたくしが、泰煜を手放すわけがないじゃない? バカね、お姉様ったら」
雪麗のあからさまな嫌味にも、春霞は全く動じない。ツン、とアゴをあげ、腹が立つような嘲笑をその頬に浮かべると、こくん、とお茶を飲み干した。
―― 珍しくも皇太后が開いた、茶会の最中である。
繊細な彫刻の施された銀の茶器でお茶を淹れ、枝ごと壺に入れられて飾られている茘枝とお菓子を囲んで談笑する。
雪麗が夢見ていた和やかな光景だが、おそらくはこれが、最初で最後となるだろう。
桃の花びらが風に舞っている穏やかな午後は、常と変わらぬように見える。だがその実は、後宮に妃たちが住まう最後の日なのだ ――
前皇帝の葬儀と、現皇帝・浩仁の即位、同時に対土真国防衛戦の論功行賞 ―― と、一連の儀式があわただしく行われたあと、浩仁は早速、後宮の整理に着手した。
推しを皇后に迎えたいがための、公私混同というなかれ。後宮を縮小することで、年間大体400万賈 (約200億円) ほどの節約になるのだから、早いほうがいい。
もっともその後、女官たちの里帰りや再就職先の斡旋で、ゆうに1年近くがかかってしまったわけだが。
一方で、妃たちの身の振り方は、あっさりと決まった。
もともと、政略的に後宮に入れられた妃たちだから、実家の四名家からの反対さえクリアすれば、彼女らの望みを汲むのはさほど難しくなかったのだ。
蕣徳妃は故郷に帰り、軍人として国境を守る。ついでに、春霞の侍女だった杏花もそれに従う予定である。なんでも杏花が煌蘭宮に忍び込み直談判した結果、蕣徳妃が押しきられてしまったそうな。
楸淑妃は、自ら司薬局の副長となることを願い出た。これからは薬の知識を宮廷のために活かしつつ、怪しげな仙薬の実験を続けることになりそうだ。
そして、李才人・春霞は ――
「泰煜、茘枝はおいちいでちゅか?」
いつの間にかすっかり、赤子に夢中になっていた。
雪麗には相変わらずの上からな態度を崩さないが、赤子に向ける春霞の顔は、これまでの回帰のどのときよりも幸せそうである。
ちなみに、雪麗が泰煜を養子に迎える件については、春霞があることをあっさりとバラしてしまったがために、白紙に戻ってしまっている。
あることとは、もちろん。
「胤? そんなの、暁龍に決まってるじゃない」
―― あの、天女とさえ称されていた美貌の宦官はなんと、ピュッの製造元を自由に出し入れできたらしい。
衝撃の事実は、皇太后周辺に激震をもたらし、一時、春霞と泰煜の処罰について議論かまびすしい事態となった。
だが、雪麗の嘆願と皇帝即位の慶事の恩赦で不問となり、春霞は泰煜を連れて実家の李家に帰ることとなっている。
なぜ父親を明かしたのか、との雪麗の問いに、春霞は 「だって、わたくしの子を取られるのなんて嫌だし。それにバラしてもお姉様がなんとかしてくれるでしょ?」 と図々しいにも程がある答えをしてよこしたのだが、不思議と嫌な気はしなかった。
その手によって処刑に追いやられ、最期の瞬間まで 「お姉様ってずるい」 と罵られることに比べたら、いけしゃあしゃあと甘えてこられるのは、むしろ幸せなほうである。
憎みあうより、よほど良い。
「さて次は―― 神仙術で特別に調合した美人茶でしてよ」
「私は、遠慮しておこう」
楸淑妃が妖艶な笑みを口元に漂わせつつ茶海を持ち上げると、蕣徳妃が急に立ち上がった。
「あら…… おかしなものは入っていませんわよ?」
「―― いや、そろそろ出立の準備をしなければ…… では、これにて」
拱手して挨拶し、颯爽と去っていく男装の後ろ姿に向かって、楸徳妃は軽く舌打ちをし 「試したかったのに」 と呟いた。
皇太后が、少しばかり眉をひそめる
「本当に、おかしなものは入っていないのでしょうね?」
「もちろんですわ。入っておりますのは、西方より取り寄せた女性性を高める媚薬に、高麗人参のヒゲ…… 高価な薬草ばかりでしてよ」
あやしい予感しかしない。
「楸淑妃…… それは、雪麗さんのために作ったのですね?」
「ええ、なにしろこれから…… ですものねえ? ですが、もちろん、皇太后さまと春霞さんのためでもありましてよ」
「へっ、わたくしも?」
「当然でしてよ?」
「もうそのような年ではありませんが…… 」
「いいえ、皇太后さま。皇太后さまももちろん、まだまだこれからでいらっしゃいますわ」
楸淑妃が3つの杯に均等に茶を注いでいく。苦そうな草と、甘い花が入り交じったような独特の香りが、鼻をさした。
「さあ、どうぞ、みなさま。神仙術で永遠の美と健康を手に入れましょうね」
皇太后、雪麗、春霞はいっせいに顔を見合せ、おそるおそる杯に口をつけたのだった。