12-7. 後宮も9度目なので
皇太后と美雀は、いつの間にか堂の外に出ていったようである。気をきかせたのだろう。
しかし、浩仁は、恥ずかしさに頭を抱えてしまっていた。
「なんだかその、いろいろあって、すっかり勘違いしていたんです…… ええと、勝手に盛り上がってしまったようで、すみません…… ああもう、どこかに隠れてしまいたい……!」
「あの、どうか落ち着いてください…… 浩仁さま」
「…… いえ、大丈夫です…… せせせ、いえ、なんでもありません」
もう1度、名前呼びに挑戦しようとしてあえなく失敗したらしい浩仁。ふう、と息をついたあと、匂い袋を取り出した。
連理の枝にとまる片目片翼の2羽の鳥の刺繍はまだ色褪せてはいないが、少し、もとの艶を失っている。
そっと、雪麗の手に握らせて、おずおずと囁くように問うた。自信満々に、などはとうてい無理である。
「―― これをくださった意味は、まだ、勘違いし続けていて良いですか?」
「そうですねえ…… その辺は、ご自由にしてくださればよろしいですよ」
雪麗の反応は、あまりにもあっさりしていた。
土真国の斬馬隊に斬り込むときの百倍は勇気を出したのに ―― と、戸惑う浩仁。これでは、喜んでいいのか悲しんでいいのかすらわからない。
「ええと…… つまり、どういうことでしょうか?」
「そうですねえ……」
雪麗は、また首をかしげた。
―― 遠慮がちにであっても想いを伝えてもらえるのが、嬉しくないわけではない。
これが、1度めの人生ならば、おそらくは夢中になって、即座に浩仁の申し出を受けていたはずだ。
だが、そんなときはもう過ぎた。
愛する人の皇后となることも、確かに悪くはないが、それが残り1度しかない人生をかけてまですることかといえば、どうしても疑問が残ってしまう。
「皇后などになると、いろいろと面倒ごともつきものですし…… 」
「め、めんどう…… 」
「わたし、実は嫉妬深いので 『ほかの妃もお召しになって』 などとは、絶対に言いたくありませんし…… 」
「そんなこと、言わせませんから!」
「…… ということは、わたしがいても、ほかの妃もせっせと均等にお召しになると…… 」
「違います!」
慌てる浩仁。ほかの妃を召すことなど、もちろん考えていない。あくまで推し命、なのである。
―― だが。
言われてみれば、考えなければならない問題だった。
「その…… 後宮は、縮小する方向でいこうと思います…… 私には、あなただけいてくだされば、いいんで…… ってその! 今のは!」
「あら? 今のは、何だったのでしょう?」
「………………。本気です」
浩仁は、どこまでいってもヘタレだった。だからこそ、1度目の人生ですら、手を繋ぐ以上の仲にはなれなかったのだ。
懐かしい、と雪麗は目を細めた。
「では、浩仁さま。この続きは、後宮が縮小できてから、ということでいかがでしょうか?」
「えっ…… では、それまでは一体、どうすればいいんですか?」
「そうですねえ…… とりあえず、保留でいいのではないでしょうか」
「保留…… ということは」
唖然とする浩仁に、雪麗は、また、首をかしげてみせた。
愛しているのか、と問われれば、そうだと答えられるとは思う。しかし、だからといって、全てをハイハイと受け入れるつもりにはやはり、なれなかった。
「そうですねえ…… たとえば、寵愛などは、特に必要なく存じます」
「寵愛が…… 要らないんですか?」
「ええ。そのようなものよりも、大切なことがある気がしますので」
「…………。そのようなもの、ですか…… 」
雪麗の口から出てくるのは、浩仁にとって意外な発言ばかりだった。
幼い頃から後宮で育ったため、妃どうしが寵を競って争うさまも、見てきている。浩仁は悪気なく、女性とはそういうもの、と考えていたのだ。
―― そうした中で、特段、何かを求めることもなく、粛々として皇貴妃としての務めを果たす雪麗だからこそ、浩仁は惹かれたともいえる。
だが、まさか、なんとなく良い雰囲気ではしばしばあるにも関わらず、 『寵愛が要らない』 と言われるとは、思っていなかったのだ。
「―― 寵愛よりも、大切なこと、とは……?」
「そうですねえ…… うーん……」
雪麗はまた、考え込んだ。
まだ、きちんと言えるほど、考えはまとまっていない。
―― 寵愛されるのも確かに嬉しいことだろうが、なにか違う。
ベタベタと甘やかしてもらうのも、いつもでは飽きる気がする。贅沢させてもらうにしたって、己の容量には限りがある。
つまり、その辺は、適度でいいのだ。
「―― わたしが浩仁さまとお話していて嬉しいのは、こうして、考える間、嫌がらずに待ってくださること。きちんと、話を聞いてくださることなのです」
「そんなこと、当たり前ではないですか」
浩仁は、思わず、雪麗の手を両手に包んでいた。
あとで気づいて 「やっちまった」 と赤面し、ついでに 「この手はできる限り洗わないでおこう」 と決意することは、ほぼ確定であるが、それはさておき。
「いくらでも待てますよ。あなたが考えているときの表情は、すごく可愛いから」
「えっ、そんなつもりは……」
引き抜こうとされた手を閉じ込めて、全身を引き寄せる。
「それに、あなたが話すことなら、なんでも聞きたいんです。どんなことでも、全部、大切ですよ」
「…… それならば、まず、わたしにこれまで起こったことを、聞いてくださいますか?」
「もちろんです」
雪麗は浩仁の目を見て、小さくほほえんだ。
―― 一生離れずむつまじく、と連理比翼を絶対のものだと思い込めるほど、もう幼くはない。
人の関係が、儚く脆いものであることは、いやというほど知っている。
だからそのぶん、共にいられる一瞬一瞬を大切にしよう。
愛しあえるときも、喧嘩をして悲しくなるときも、たくさん、その気持ちを味わおう。
そのために、復讐よりも寵愛よりも、互いの信頼を築くことを選ぶのだ。
「―― 実はわたし、後宮も9度目なので……」
雪麗は静かに、話し始めた。
話し声は、春蚕が桑を食む雨のような音の中、ゆっくりと続いていった。