12-5. 自 刃
寝転んで、空を見上げている。
黄鳳国の春の空は白みがかった淡い色合いだが、それを眺めているときいつもまぶたに浮かんでいるのは、故国の空だ。
どこまでも高く、吸い込まれそうな深い碧 ――
そろそろだろうか、と暁龍は考えながら、なお起き上がろうとはしなかった。
敷地の端にあるここ償正堂までは聞こえてこぬが、瑞黄殿の正面では今、名家の威を鼻先にぶらさげた宰相どもが、部下の太監と言い争いをしていることだろう。
伏怡は、人の表情を読むのがうまく、態度は常に物柔らかで心地良い。だが、内面は相当したたかである。
―― 彼に任せておけば、無能な重臣たちを丸めこむことなど造作もない、と暁龍は考えていた。
もし万一、失敗したとしても、伏怡は己の責任にして自害するタイプである。そういう者だからこそ、これまで散々引き立ててやったのだ。
(果報は寝て待て、ということか)
いつか皇帝をなだめるために使った言葉を思い出し、暁龍は鼻先で小さく笑った。
―― あのときまではまだ、自分自身に嘘をついていたのだ、と思う。
不老不死の薬という怪しげな仙薬を皇帝に勧めたり、なにかと目障りな蕣徳妃や皇太弟を遠くへ追いやろうと小さく画策はしても、基本、皇帝の信頼を裏切ろうとは考えていなかった。
全てをかけて復讐するのは、黄鳳国でトントン拍子に得た地位と権力と比較すれば、割に合わなさすぎた。
復讐したからといって、炎の中で雑兵に囲まれて死んだ叔父たちは帰ってこない。花街に売られたのち、病で死んでいったという叔母や従姉妹たちも帰ってこない。悪逆の王とその妃として処刑された父母も、血に狂った兵たちに犯されている最中に死んだという、きょうだいたちも……
誰ひとりとして、帰ってきはしないのだ。
それならば、得た権力で黄鳳国を意のままに動かすほうがまだ復讐たり得るだろう、と暁龍は自身に言い訳をしながら生きてきた。
ただそれだけでは、一族の中でひとり、宝を差し出すという屈辱を経ても生き延びたその後の人生が、異様に長く、退屈だったのだ。
何をしても、故国の隣に広がる砂漠ほどにも、心は動かなかった。砂漠とて、朝夕には太陽の光で、昼には吹きすさぶ風で、その表情と姿を徐々に変えていくというのに。
なにをすれば、胸の底に横たわる虚無の大地にヒビのひとつも入るのか ――
いつしか暁龍は、その答えを追い求めるようになっていた。
そのために下らぬことにも権力を使い、皇帝を惑わし、後宮の妃に手を出し、バレそうになると容赦なく、女官を殺しさえもした。
バレるのが怖かったのではない、と思う。殺してみたかったのだ。
殺した後で自分の中で何が変わるかを、知りたかった ―― だが、何も変わりはしなかった。
それが急激に動き出したのは、ある桂花の香る夜。
春霞の妊娠を知ってからだった。
そのとき暁龍は、はじめて女を愛しいと思った。春霞は混乱し、暁龍に水差しを投げつけて暴れたが、それすらも愛しかった。
春霞の子は、亡国の血をつぐ子 ―― 必ず帝位につけるべきだ、と即座に決心は固まっていた。
―― 失われたものを、より大きな形で取り戻すのだ。
動き出せば、することは簡単だった。もとからいろいろと邪魔になる皇太弟はすでに出征することになっていた。ならば、火器隊をつけタイミングをみて暗殺させるのが効率的。まずはそう、考えた。
だが皇太弟は思いの外、生き汚かったようである。この企みは、失敗に終わった。
しかし、次の機会は間もなくやってきた。春霞の出産である。
罪を得て軟禁状態になっていたのは、こうなるとかえって有り難かった。
朝晩となく皇帝を閨に誘い、大量の紅鉛丹を服用させることに成功したからだ。
あとは、宦官を使って瑞黄殿正面の扁額の裏に、贋の勅書をしのばせ、そのときを待つだけ ――
もちろん、上手くことが運ばない場合もあるのを暁龍は、重々承知しているし、そのときのための準備も怠ってはいない。
事態がどう転ぼうと、ようは、最終的に認めさせればいいのである。春霞の子は正統である、と。
―― 騒がしい気配と、 「総監ではございません。全ては私の一存でしたことにごさいます!」 と叫ぶ伏怡の声がかすかに聞こえた。
どうやら贋書であることがバレたばかりか、疑いは直接、暁龍に向けられてしまったようだ。聡い者もいたものである。
暁龍はまた、ふっ、と鼻先で笑った。
(大失敗か…… )
ようよう起き上がると、衣服を整える。着ているのは、白い上衣と袴に帯 ―― 皇帝の喪に服している印であった。
物事には、タイミングが重要である。
事前に宦官に差し入れさせていた短剣を、棚の奥から取り出す。
鞘から引き抜き刃先を心臓に向けてかまえ、暁龍はそのときを待った。
やがて、足音が聞こえた。
宮廷の衛兵たちだ。浩仁皇太弟の不在と皇帝の死により、指揮権は一時的に皇太后に移っているはずだった。
(―― あのかたも容赦ないな)
他人事のように考えながら、堂内の扉が開くのを眺める。
最初の数人が、足を踏み入れた。
同時に暁龍は、短剣の柄を支えていた両腕にぐっと力を込めた。
そのまま、のしかかるように上半身を落とす。傷が深くなったせいだろう。痛みはすぐに消え、かわりに喉元に、血のにおいがせりあがってきた。
「総監どの!」
悲鳴のように呼びかける声は伏怡か。
微笑もうとして、ごぼりと血を吐く。目からも鼻からも、生ぬるい液体が垂れる ―― もう、においはわからない。
目の前が赤く染まり、それから暗くなった。
数日後 ――
清林宮の桑寿堂には、桑の葉を食べる春蚕に目を細める皇太后と、そのうしろに従う雪麗の姿があった。