12-4. 贋の勅書
(だっぺ、だと……!?)
苳昌英は、慌てていた。
急に声を張り上げたのが、一族の姫、雪麗だったからだ。もちろん、美雀が憑依しているのだが、そんなことを知っているのは、この場では皇太后しかいない。
―― 奔放そのものの李家からきた養女とは信じられぬほどに、地味で控えめでお淑やかで賢明。そんな婦徳の塊のような娘が、急に耳慣れない言い回しで主張を始めた ――
放っておいては、家門の名折れである。
だがしかし、その主張内容は、傾聴に価するに違いなかった。
もし雪麗のこの主張が正しければ、宦官どもの陰謀もここまでだ。
―― 家門か政治か。
(どっちだ……!?)
数瞬悩んだ末に、昌英は政治を取った。さすがは名宰相。謹厳実直並ぶ者なし、である。
「ごほん。そ、それで、雪麗…… なぜ、その書が贋作だと?」
「簡単だっぺ…… です。皇帝さんとは、筆跡が違うっぺ…… ですがら」
「苳貴妃さま。それは、でたらめというものでは」
伏怡は慌てて書を隠したりはしなかった。
薄ら笑いを浮かべたまま、苳貴妃に向かって差し出す。
「この堂々とした汪氏ふうの書、これほど立派になされるのは皇帝陛下だけでしょう。まさに帝王の書でございます」
「んー。だけどなぁ? 気宇が少し、狭いっぺ?」
苳貴妃は眉根を寄せて、書に見入っていた。
「全体として、良ぐ特徴さつかんで真似でるのはわがるけんど…… このな、《《へん》》と《《つくり》》の間な。ここは意識しても、コントロールしにぐいところなんだっぺ」
「なんですって」
「だがらな? 皇帝さんの書は普通に汪書ふうだけんど、よぐ見れば、特徴的なんだっぺ。その辺が、再現できてねえんだなあ、これは。んで、別の人の特徴が出てるんだっぺ」
昌英は背筋が震える思いだった。
苳貴妃の指摘に活路を見いだしたから…… ではない。
苳貴妃が突如しゃがみこみ、床に指で何か書き始めたからだ。
「あれは 『雄渾に見せたい』 欲で気宇を広めにとる書き癖を身につけたんだっぺねー ……」 とかなんとか、ブツブツと口に出しながら。家門の名声、どうしよう。
(うおおおお…… 『雪麗、疲れておるのだろう。帰って休め』 とか、めっちゃ言ってやりたいわ!)
内心の悶絶を隠して、おおきくうなずいた。
「ふむ…… なるほど。雪麗よ、詳しく教えてもらえるであろうか?」
「ほいきた…… です!」
文机が用意された。苳貴妃がその前に座り、姿勢を正して筆をとった。
起筆は穂先を尖らせるようにして入れる。白い紙の上に、繊細な縦線が引かれる。
次に、少し隙間をあけるようにして、横画を短く置き、すぐに縦画へと転じる。角には丸みをもたせ、若干、反り気味にゆっくりと筆を進める。
これほどゆっくりと書かれているとは思えない。穂先のみを使った軽やかな筆致が、手元で形をなしていく。
柔らかくおおらかなのに繊細な 『日』 である。
続いて、『日』 のやや右上に、筆が置かれる。文字を少々、左に傾けることで颯爽とした印象を醸し出させるのは、汪書の特徴といえた。
リズミカルに、縦、横、と繰り返したあと、急に筆を深く落とした。
太く強調された横線が、字全体を引き締め、単調だった紙面が、一気に華やかになる。
そこから再び穂先のみを使って、羽のように優しく軽い左払い。逆に、右下へ伸びる《《あし》》は下へ行くほど太く重くなっていく――
最後は、大袈裟なほどにくっきりとした《《はね》》で終わりだ。
苳貴妃が筆を置いたとき、紙の上には 『暁』 の字が2つ、並べられていた。躍動感のあふれる、見事な筆致だった。両方ともに、額に仕立てて飾りたいほどである。
だが、周りを囲んでいた廷臣たちが、感嘆の声をあげたのは、そればかりが理由ではなかった。
―― どちらの字も、皇帝の手蹟のように見えるのだ。
しいて言うならば、後で書いた字のほうが、扁額の裏からでてきたものに似ているようである。
「えっと。こっちが、皇帝さんの字で、こっちが、その太監さんの持っでるやづな」
苳貴妃が、指先でとんとん、と2つの文字を順に示した。
「皇帝さんは見栄っ張りだったっぺなー。本来は小者っぽい字を書ぐ人が、努力しで、泰然自若な芸術っぽい感じを目指したんだっぺ」
「苳貴妃ともあろうおかたが…… なんと失礼なことをおっしゃるのでしょう」
伏怡が反論しかけたが、「書に優劣はねえっぺ。失礼と思うほうが失礼だっぺ」 と言われて黙った。
―― 太監の身分は決して低くはないが、皇貴妃のほうが上なのである。
しかも、この場では李家出身者と宦官以外は全員、確実に雪麗の味方だ。あまりに強く反論すれば、逆に墓穴をほってしまうのは明らかだった。
「んだがら、皇帝さんの手蹟は絶対に、接筆と気宇が大きく開いてるんだっぺ」
接筆、とは縦画と横画がくっつく部分のことだ。確かに、『日』 の左上部分、皇帝のほうだという 『暁』 は、横画がほぼ点であり、ほとんど引かれていない。そのぶん、開きが大きいのである。
「帝王の筆蹟っぽく見せるだめに…… ご苦労さまだなぁ…… 」
対して、扁額裏の書は、同じ部分が確かに開いているものの、やや狭めだ。
気宇と呼ばれる、《《へん》》と《《つくり》》の間の部分に関しても同様だった。
「次にここ、『十』 の縦画な。皇帝さんのは若干短め。ここ性格出るよなぁ。もともと、上に立つ気なんてそんなに無い人だっぺな?」
比べれば扁額裏の書のほうは、少々長めである。
「似せようと思っで書ぐがらこの程度だけんど、たぶん、こん人の本来の字は、もーちょい、キツく上部突出してそうだっぺな」
「ほう…… よく見れば、これほどにも違いがあるのですね」
「んだ。汪氏ふうというと、みんな似た字に見えるもんだけんど、それでも、ひどりひどりの書きぐせっつうのは出るもんだっぺ」
いかにも納得がいった、というように、皇太后がうなずいた。
伏怡をはじめ、宦官たちは一様に押し黙り、李家出身の者たちはうつむいて小さくタメイキをついた。放っておくと春霞をはじめ李家全体の立場が悪くなりそうな局面ではあるが、自分がこの事態に関わったと思われるのも、また避けたい ―― そんな心境なのである。
「―― ですが、それも苳貴妃の思い込みに過ぎないかもしれませんね」
反論したのは、やはり伏怡だった。相変わらず口調は柔らかく、頬には薄ら笑いが貼り付いたままである。
「苳貴妃がおっしゃるような手蹟が、皇帝陛下の真蹟と同様であるという…… 証拠がどこにあるのでしょうか。
そもそも皇帝陛下の手蹟を、後宮の妃さまがたが、そうしばしば目にしたとは思えませぬが……」
「うっさいっぺなぁ…… あっ、香寧さん。こっちだっぺ!」
ぷい、と横を向いた苳貴妃が、ふいに手を振った。
後方で、巻き物を手に、いつ入ろうかと迷っていたらしい侍女が、いそいそと前に進み出た。
「雪麗さま。お言いつけどおり、大経の写経を持って参りました」
「ありがとだっぺ」
「大経の写経だと? 奉納したはずではありませんか」
伏怡の顔から、薄ら笑いが消えた。
「写経のときに、紙を2枚重ねて写しを作っでおぐのは常識だっぺ?」
どやあ、と胸を張る苳貴妃。それが常識だったかはさておき、しばしば役立つことは間違いない。
「皇帝さんの写経は、いちばん前のところだっぺ! そっちの扁額裏の書と比べてみれば、一目瞭然だっぺよ!」
―― そしてまさしく、そのとおりになった。
皇帝の写経の文字は、説明された点に注目すれば確かに、扁額裏の書よりは、苳貴妃のなした書のほうに似ていたのだ。
とすると、問題は、この扁額裏の書を誰が作ったのか、ということになるのだが……
それも、すぐに解決した。
「ほれ。この接筆と気宇の微妙な開き具合と、頭突き出た書きがだ。そっくりだっぺ」
苳貴妃が指摘したのは、皇帝の次にあった写経の文字だったのだ。