12-3. 太子密建
「扁額の裏とは……」
皇太后は雪麗に向かい、怪訝そうに眉をひそめてみせた。
「後継は浩仁に決まっているのですよ。今さら皇帝が扁額の裏に後継者名を潜ませる必要など、ないではありませんか」
黄鳳国には先代まで、皇位継承に関して妙な風習があった。皇帝は後継の名を死ぬまで明かさず、勅書に記して封をしたうえで、寝所である瑞黄殿の正面上に掛けられている看板の裏に入れておくのだ。
死後に周囲の者がこれを確認し、遺された皇子たちの身の振り方を決める。
この方法は兄弟で帝位を争うのにウンザリした2代目皇帝によって行われるようになったらしい。
しかし連綿と続いた風習のかげで、いつしか皇子たちや周囲の者たちは、過剰にアピールしては皇帝の腹のうちを読み、一方では敵を追い落とす、ということをするようになった。2代目皇帝の願いむなしく、結局人は分かれて争うのである。
だがこの風習は、クーデターにより帝位を簒奪して弟を後継に据えた鳳光により、幕を閉じたはずだったのだ。
「扁額の裏など、今さら誰が確認するというのです」
「憶測ではございますが…… 総監は、瑞黄殿の償正堂に軟禁されているとはいっても、宦官を自由に使っているそうでございますね」
「…… わかりました」
皇帝が突然亡くなったときそばにいた暁龍は、皇太后に知らせ、死後の処理を指揮して皇帝の亡骸を牡丹宮に移したのち、ふたたび自ら、瑞黄殿の償正堂に戻っていっていた。
償正堂は貴人を軟禁する際に使われる建物で、かつてはクーデターのあと、皇帝の実父である先帝も亡くなるまでの日をここで過ごしている。
先帝のときには皇帝は宦官を使って見張らせ、人の出入りに目を光らせていた。暁龍のときにも同じくそうしたわけであるが、先帝と宦官トップである総監の地位にいる男では、その意味は全く違う。
暁龍は、軟禁されていてもなお、宦官たちを手足のように動かせる状況なのだ。
そんな男が、春霞が皇子を出産し、皇太弟が不在というこのタイミングで狙うこと ―― それはひとつしかない、と雪麗は考えていた。
現にいちど、暁龍の指示で浩仁の生命が狙われているのだから、可能性はかなり高い。
皇太后も、すぐに理解したのだろう。眠る皇帝の手に優しく触れて位置をなおすと、踵を返した。
「すぐ、行きましょう」
「お供いたします」
―― 雪麗の予感は当たっていた。
瑞黄殿の正面にはすでに、主だった廷臣たちが集められていたのだ。
ちょうど暁龍子飼いの太監、伏怡が梯子にのぼり、看板の裏から封書を取り出しているところだった。
「どうぞ」
梯子から降りた太監が、封をしたままの勅書を宰相のひとりにを渡す。苳昌英という男で、かつては皇帝の教育係もしていた、古参である。
名字からわかるとおり、苳家の縁戚だ。この場に集められた重臣のほとんどは、李・蕣・楸・苳の四名家の出身者だった。伝統的にそうなのだ。
封を開け、内容を一読した苳宰相の目は、まず丸く見開かれ、それから険しくなった。
「…… 信じられぬ」
ひとこと呟いて、同僚に渡す。
「…… 信じられぬ」
「まさかこのような……」
次々と上がる声がひとめぐりしたところで、伏怡はここぞとばかりに拱手してみせた。
「こちらが、皇帝陛下のご遺志であられます」
宰相たちが、怒りに肩を震わせる。
「ふざけるでないぞ、宦官」
「そなたらが、捏造したのではないか」
「英邁なる皇帝陛下がこのような指図をされるはずがない」
唯一だまっているのは、李家出身の宰相だけである。
おそらくは李家の者らしく、風向き
を読んでいる、といったところだろう。
伏怡の頬と口元に、薄ら笑いが浮かんだ。
「ご確認いただいたとおり、こちらは紛れもなく、皇帝陛下の筆跡でございます。それを疑うということは、天子さまへの反逆に等しいかと存じますが…… 」
宰相たちが黙り込んだ。
鳳光皇帝はこれまで宦官を重用し、さまざまな権限を与えてきた。その中には、宮正とはまた別の、不穏分子を摘発するために設けられた秘密警察権さえあるのだ。
その目的の第一は、黄鳳の四華とまで呼ばれる四名家の影響力を抑え、皇帝の専制を確立していくためだったのだろう。
だが、おかげで今や、宮廷内の要職につく者たちですら、皇帝の召使いにすぎぬはずの宦官の顔色をうかがわなくてはならないありさまである。
「…… だが、皇帝陛下はずっと、浩仁皇太弟が後継だと明言されてきた」
苳宰相が、苦々しい面持ちで、口を開いた。
「急に翻えされるのは、それこそ、天子たるもののなさることではないだろう」
「親子の情が勝ることもございましょう」
「…… それはそなたこそ、天子を愚弄しておるのではないか?」
「めっそうもございません ――
ともかくも、ここにこうしてご指示があるからには、遺された者はそのとおりに動き、いっそう国を盛り立てるべく協力していくことこそが肝要なのではございませんでしょうか」
手元に戻ってきた勅書を、伏怡はこれ見よがしにかかげた。
『第一皇子、泰煜を後継となし、摂政を康暁龍として万事執り行うように』
「そんな…… そんなはずが、ありません」
皇太后は呆然としていた。
内心は、疑念でいっぱいである。
―― 死ぬ間際に、償罪を口にしていた者が、このような裏切りを働くだろうか?
鳳光がそのような男ではないことは、誰よりも皇太后がよく知っている。
―― だが、どう見ても確かに、皇帝の手蹟のように ――
「それ、贋書だっぺ!」
落ち着いてよく通る声の主は、まっすぐに、宦官がかかげた勅書を指さしていた。