12-2. 崩 御
棺ができるまで、皇帝の遺体は後宮の入口中央、牡丹宮の玉座の間に安置される。
訪れた臣下はここで、皇帝に最後の謁見を許される。遠方であっても必ず訪れ、遺体のそばで大袈裟に泣き叫ぶのがならわしなのだ。
だが、ひととおりの処理を終えたばかりのいま、氷を敷き詰めた牀の上に横たわる皇帝のそばにたたずむのは、義理の母である皇太后、薇青月ただひとりであった。
扉の外からは大臣たちが号泣する声が聞こえているが、皇太后の目に涙はない。
「光…… 」
ぽつりと呼び、義理の息子の眠るような顔に見入っている。
きれいに拭かれて薄く化粧を施され、口に玉を含んだその顔に苦しみのあとはなく、少年の頃の面影すら感じさせるようだった。
―― 生まれたときから存在を隠されていた不遇の皇子を青月が引き取ったのは、単なる憐れみからだった。
その母が同じ下級女官の出身ということも、皇子に対する青月の義務感を強めたのだ。
実の子であるふたりの皇子はすでに成長して手を離れていたこともあり、青月は彼を、我が子以上に大切に育てた。
彼も青月によく懐き、無邪気に慕ってくれていたはずだ。
そして、しばらくして生まれた皇子、浩仁をことのほか可愛がっていた。
「義母上、ご覧ください。浩仁はわたしについてくるのです」
「義母上、この硯はきれいでしょう。浩仁にあげてもいいですか」
なにかといえば浩仁、浩仁とかまい倒し、幼い子が笑えば喜び、泣けばおろおろと心配してくれていた少年 ――
そのいちいちは、愛しい思い出としてまぶたの裏に焼きついている。
そうだ、と青月は思った。
(光は、いつでも浩仁をいちばんに考えてくれていたのだ……)
彼がクーデターを起こしたときすらも、ふたりの兄から浩仁を守るためだと説明する、苦々しく悲しげな口調に嘘は感じられなかった。
だからこそ、青月は彼を皇帝と認め、皇太后として支えてきたのだ。
―― だが。
それでも、光が殺したのは、青月の子どもたちだった。愛した夫だった。
初めのうち青月は、こうした運命も皇家にはつきもの、仕方がないものと諦め、浩仁を守れればそれで良い、と自身に言い聞かせてきた。
光は世間の評判をおそれるあまり、臣下のくだらぬ意見にまで流されやすいところが若干あったが、皇帝としてはよく国を治めたほうである。
だから、皇太后として彼を支えるのは、民のためにも重要なことであった。
そうして、いろいろな理由をつけて気持ちをごまかしているうち、気づかぬうちに、憎悪は膨れあがっていたのだ。
―― 私の子も夫も死んだのに、なぜお前は生きている。
声には出さない叫びが日ごとに大きくなっていたあるとき、楸淑妃が新しい仙薬を持ってきた。
不老不死の薬と伝えられている、と、謎めいた笑みとともに彼女が差し出したのが、紅鉛丹である。
その名から、それが不老不死どころか、緩慢な死を招き寄せる薬であることは、容易に想像できた。
鉛が仙薬と考えられていたのは、はるか昔の話。実は中毒を引き起こす恐ろしいものであることは、少し薬に詳しい者なら誰でも知っている。
それについてはどう考えるのか、と問う青月に、楸淑妃は 「真実のところは試してみなければわかりませぬが」 と前置きした上で 「この処方でなら毒を抑えられ、効能だけを引き出せるのかもしれませぬ」 と、鈴をふるような声で答えた。
―― そうであれば、皇帝に与えても問題はないはず。
思い込むのは、簡単だった。
自ら手をくだす必要もなかった。
皇帝の学友として共に育った寵愛あつい宦官に託すだけで良かったからだ。
暁龍なら必ず紅鉛丹を皇帝に飲ませるだろう、と青月が踏んだのは、カンというほかはない。
―― どれだけ忠義の者と呼ばれて皇帝からの信頼を得ていたとしても、かの宦官の根は、黄鳳国に滅ぼされた一族のものなのだ。
これまで受けた恩が有難くないわけではない。
共にすごした時間が大切でないわけではない。
それでもきっと、この異国の美貌を持つ宦官にもあるはずだ。意思の力ではどうしようもない、消そうとしても消すことのできない憎悪が。
―― 案の定、しばらくすると、皇帝は人柄が次第に変わってきた。短気になり、物事を感情のみで判断することが多くなってきた。
悪くなった顔色を青月は本心から心配する一方で、裡でうごめきつづける醜い獣が多少なりともなだめられるのを、感じずにはいられなかった。
体調が悪化しても、皇帝は喜んで紅鉛丹を飲み続けていたようだった。その効能が、不老不死などという曖昧なものだけでなかったからだろう。
精力を増し、夜を大いに楽しめる効果のほうを、皇帝は気に入ったのだ。
ほどほどになさい、と憂い顔で忠告しながらも、そのたびに青月は、どこか胸のすく思いを味わっていた。
そして皇帝が 『ほどほどに』 することなど一切なかった。
浩仁と蕣徳妃の間もなくの凱旋 ―― その知らせが宮廷に届いたその夜も、前祝いだと浴びるほどに紅鉛丹を飲み、罪を得て軟禁されているはずの宦官と乱れまくったようである。
そしてその途中で、急な眩暈と息切れにおそわれたのだった。
皇太后として青月が呼ばれたのは、まさに皇帝の今際のきわ、といったところだった。
だが、青月が光の名を呼び手を握ると、彼は一瞬だけ意識を取り戻し、苦しい息の下からこう問うたのだ。
「義母上 …… これで、私の罪は、償えましたか」
青月は、罪などではない、と答えていた。
かつて、自身に向かい何度も言い聞かせていたことが、自然と口をついて出ていた。
「仕方がなかったのです、光よ。罪があるとすれば、その巡り合わせに。そなた自身には、罪などなかった…… 」
義母上はやはり、お優しい。
それが、鳳光の最後の言葉となった ――
知らせが伝わったのだろう。
扉の外で 『皇帝陛下!』 と嘆く声は、ますます大きくなっている。
「光…… すまなかった」
皇太后は、ふたたびつぶやいた。
「わかっていたのに、にくむしか、できなかったのです」
涙がひとすじ、流れ出す。
しきたりどおりに泣き叫び悲しんでみせる気には、到底なれなかった。
「失礼いたします」
澄んで落ち着いた声が、扉の外の嘆きの大合唱を突き破って、青月の耳に届いた。苳貴妃、雪麗だ。
正式には皇后ではないが、こうした折には皇后の役割も果たすのが、皇貴妃のつとめである。
そのために弔問に訪れたのだろう、という皇太后の予想は、微妙に外れた。
雪麗は、皇帝の死を嘆いてみせるのもそこそこに、こう言い出したのである。
「陰謀の可能性があります。至急、瑞黄殿の扁額の裏をご確認ください」