11-6. 泰山府④
【では、最後は…… 『書』 だぉ!】
てってけてー。音がみたび鳴り響く。
【ふたりがボクちんの納得する書をなせたら…… 帰るのを認めてあげてもいいよぉ? ただ、ボクちん、趣味にはかなりうるさいほうだからね?】
「題材は?」
【自由…… 【意地悪だっぺな?】
美雀ににらまれて、咳払いをする泰山府君。
【じゃあ、どうして泰山府から戻りたいのか、その理由にしよっかな。
ちな、ボクちんはウソは嫌いだから、気をつけてねぇ】
【雪麗さん、いつもどおりに書いたらいいっぺ! 書は心だっぺ】
早速、書き物の用意がされる。
浩仁と雪麗は、それぞれの机の前に座り、筆を取った。
浩仁の身をまとう空気が、すぅっと変わる。書家としても著名な彼は、筆を手に紙を前にすると、いつでも本物になれるのだろうか ―― ゆっくりとした筆の運びだが、その動きに迷いはなく、穂先まで研ぎ澄まされた神経が行き届いているのが感じられる。
結界などなくても、誰も入れない空間。そのくせ万人が思う。ここを知っている、と。
その雰囲気は美雀にも共通しているが、雪麗には得られそうもないものだった。
雪麗にできるのは、ただ、丁寧に、なるべく読みやすく、普通に文字を綴ることだけだ。
―― 浩仁皇太弟に五絶有り。一に英邁、二に勇猛果敢、三に温和にして徳高きこと。四に忠直、五に書優れたること。
黄鳳国の次期皇帝として彼に並ぶ者無し。彼を失うは全ての民の損失也 ――
あえて詩などにせず、古くの名句に託すこともなく、訥々と訴えるように書く。
(ウソが嫌い、というのは、こういうことですよね……?)
出来上がった書は、会心の作、といっても良いものだった。
書いてあるのは全て本当のことだと、浩仁を知っている誰もがそう言うだろう。
それに、雪麗の手蹟は芸術的ではないが、美雀がときどき 【誠実な良え書だっぺ!】 とほめてくれる、そのとおりには書けた、と雪麗は思った。
―― だが。
【はい、嘘! やりなおしだぉ、雪麗たぁん♪ 】
【はい、嘘!】
【はい、嘘! 全然ダメぇ】
【はい、嘘! これって狂草のつもりぃ? ぷぷぷっ…… 雪麗たんったら、かわいいぉ】
―― ダメ出し、続出である。
楷書ではダメだったのかと、行書・草書、あげくには篆隷や狂草まで試してみたが、全て 【嘘!】 をくらってしまった。
いったいどういうことだろう。
一方で浩仁のほうは、簡単なやりとりで受理されているから、よけい納得がいかない。そのやりとりは、次のようなものであった。
【あのさ、ボクちん、ハッキリ言って、チミの狂草って好きじゃないんだぉ】
「そうですか」
【うん、ウソくさくてさぁ。チミの本領は楷書でしょ、ねえ?】
「残念ですが、楷書を差し上げる人はひとりだけと決めておりますので」
【うーん…… なら、まあいっかあ。はい受理】
浩仁が何を書いたのかは雪麗からは見えなかったが、ともかくも、あっさりしすぎである。
【はい、嘘!】
美雀の破体書を思い出しつつ真似て書いてみたが、それでもないようだ。
【だんだん悪くなってるぉ、雪麗たぁん♪】
(これは、もしや…… 意地悪をされているのでは…… )
【ぷぷぷっ、意地悪されてるとか思ってるぅ! 心せまっ! でも、そんなところも、かわいいぉ?】
うっかり思ってしまったことが、完全に読まれてしまっている。変態でもさすがは泰山府君。
【あっ、そうだぉ! 雪麗たんも、そこの霊と一緒に死んどくぅ? 一緒に暮らそ?】
課題も3つめだというのにこの冥界の王は、どうやらまだ引退を諦めていないらしい。
【みんなで暮らせば、泰山府でも別に良いよねえ?】
「いえ、それがですね…… わたしは死んでもおそらく、こちらには来れないのです。事情がありますから」
【えーっ。そんなぁ……!】
雪麗の事情。それはもちろん、回帰体質である。
死んだと思ったら、体感時間で数分後には過去のある時点に回帰している。泰山府など当然、かすりもしない。
もし一緒に死んだとしても、行く場所は別々であり ―― そのうえ、時間を違えているから、本当に 『死んだらそれきり』 なのである。
次の回帰でも雪麗は浩仁に会えるが、そのときの彼は、今回の回帰で雪麗と共有した時間―― 雪麗に茘枝を食べさせてくれ、匂い袋をねだり、泰山府君の前で推し愛を叫んだ時間を、知らない。
そしてまた、どちらかが死ねばそれきり ――
(わたしはそれが、イヤなのですね)
不意に雪麗は、気づいた。
回帰体質による一番の呪い。それは、苦しい処刑を繰り返されることではなく ―― 周囲と築いてきた関係を、壊されることなのではないだろうか。
【でもさ…… これじゃ、何度書いても同じだぉ? いいかげん、諦めたらぁ】
「いいえ。もういちど、いたします」
雪麗は筆を取り、息を整えた。
白い紙の上に、慎重に筆を置き、均一な力で右に引く。とめは穂先を線の中に返すようにして、シャープでまっすぐなラインをつくる。角は刃のように鋭く。はねやはらいはくっきりと尖らせる。次第に細く、あるべき姿になるように。
一字一字を、方形におさまるように意識する。
『 臨別殷勤重寄詞
君誓来世未有期 』
―― 別れにおいて何度も丁寧にことばを重ねて、来世また逢いましょうとあなたは誓ってくれたけれど、そのようなときはまだ来ていません ――
回帰を繰り返すほどにより深く、心にわだかまり続けていたことだった。
誰に言ってもわかってもらえるわけもなく、また、言うべきことでもないと思ってきたが……
おそらく泰山府君を納得させるためには、それが必要なのだろう、と雪麗は考えた。
―― 書は心。
それも、得た知識や、自らの理想で上塗りした表層ではない。この冥界の王が欲しがっているのは、そのもっと奥底の、当人でさえも目をそらして見ないふりをしたくなるようなものなのだ。
だからこそ、意を決して書き始めたわけだが……
(こ、これは…… 恥ずかしいです!)
書きながら、雪麗は耳に血が上っていくのを感じていた。
客観視するならば、これは愚の類である。そのような役にも立たぬことをチャラチャラ言うのは、雪麗のキャラではないのだ。
(春霞なら、わかりませんけど……)
『 縦七月七日再逢
其別人也回帰時
未知在天比翼鳥
未知在地連理枝 』
―― たとえ、引き裂かれた恋人たちが再び出会うという七夕の夜に、同じように再び逢ったとしても、わたしは時を回帰しているので、同じ人ではありません。
ですからわたしは、天にいるという比翼の鳥も、地にあるという連理の枝も、未だに知らないのです。 ――
言っちまった、という感じである。
さらに言うなら、連理比翼など全くの幻想だと雪麗は思っている。
人生も9回目だと、その辺がすっかり醒めてしまうのだ。
人間の関係など、ほんのちょっとした条件で変わってしまうもの。未来永劫変わらず睦まじい関係など、あるわけがない。
連理比翼などとはただ、いっときの強い酩酊を美しく彩る言葉であるに過ぎない、と雪麗は思う。
だが、そのいっときの酩酊が、泣きたくなるほどに愛しかったことも、永遠であれと願わずにはいられないほどに大切であったこともまた、雪麗は覚えている。
だから、何度回帰しても、望んでしまうのだ。
―― 生きていてほしい、と。