11-5. 泰山府③
「苳貴妃……!?」
振り返った浩仁は、雪麗をみとめると、慌てたように咳払いをした。もし 『推し命』 が聞かれていたとすれば、いたたまれない。
「どうしてここに?」
「鳳浩仁さまのお迎えに上がりました」
【おやぁ…… 来ちゃったねえ? 意外と早くて残念だぁ】
「泰山府君、ご恩情に感謝します。皇太弟殿下はまだ、黄鳳国に必要なおかたですので ―― 参りましょう、殿下」
【とか、言うと思った?】
色白の柔らかそうな手がひとふりされた ―― とたんに、雪麗と浩仁の足元に太極の印があらわれる。
嫌な予感に、雪麗は浩仁の手を引いて、逃げようとし ―― 見えない壁に、弾かれた。結界だ。
美雀が叫んだ。
【約束が違うっぺよ!】
【ボクちんは、チャンスを与えるとは言ったけどぉ、邪魔しないとは、ひとことも言ってないもんねえ?】
【100枚も書をあげだのに、仕打ちがこれかぁ!?】
【もう1000枚くらいくれたら、泰山府に楊美雀記念館を作ってあげるよ?】
【乗った……! じゃ、ねえっぺ! 人として最低だっぺ!】
【人じゃないもん。泰山府君だもぉん】
【…… わがっだ。泰山府君がそんなだったら、あだすは、もう2度と筆はとらねえっぺよ…… あだすのぶんの仕事は、あんだが自分でやっで、できた筆ダコ茹でて食うんだな!】
【うっ…… いやぁ、ボクちん、鑑賞専門でね? 美雀っちの変幻自在の奇跡の腕が超必要なんだけどお……?】
【あだすには、あんだなんがの誉め言葉は全然っ、必要ないっぺ! 趣味やる暇がねえのはあんだが無能だからだっぺ!】
【違うっ。ボクちんは、ちゃんと、ひとりひとりに面談して最適な配置を決めて、仕事に納得してない人にもきちんと…… あああもうっ! もともと人と話すの得意じゃないのに、ボクちんが、どんだけ頑張ってると思ってるのぉ!?】
【あだすの知っだことじゃないっぺ。じゃあな、だっぺ】
【ああああああ…… 待ってぉ! 美雀ちゃん!】
【そういう呼び方すんなっぺ。気色悪いがら】
【ぐふぅ……!】
―― 泰山府君、撃沈。
それでもまだ、【タダでは帰せない】 とゴネたため、話し合いの末、泰山府君から出される3つの課題をクリアしたら、ということになった。
ちなみに、これで約束を破ると来世は北の海で克利奥内なる生物になる、という誓いを立ててくれている。
【けっ…… 見でろよこの坊め】
美雀は納得行っていないようだが、このままゴネられて1日過ぎてしまうより、よほどマシである。
【ではぁ、1つめの課題だぉ!】
泰山府君が片手をあげると、どこからか、てってけてー、という音が鳴り響いた。
【課題そのイチぃ! ボクちんの本名を当ててみてね!】
ふふん、とふんぞり返る泰山府君。絶対にわからぬと思っているようである。
【その辺のひとに聞いてもムダだよ? なにしろ、ボクちんが死んだのはもう200年前 「申重陽、ですね」
泰山府君の上半身が、ガックリとこけた。
【どうしてそれを……っ!】
【雪麗さん、すごいっぺ!】
「―― 老翁奇談集。今から150年ほど前、黄鳳国初の古典民話集です。その第 7話 『画中神女』 が、生前のあなたの話ですよ、泰山府君」
掛け軸の中の美しい月の女神に夢中になってほかを省みなくなり、家門を傾けた男の逸話である。最後は画から抜け出た嫦娥と月世界でいつまでも仲良く暮らした、とのオチがついていた―― が。
おそらくは、男の行状にたまりかねた家人により謀殺されたのではないか…… などと想像を巡らせた覚えがあり、幼い頃の雪麗にとっては印象深い物語であったのだ。
【くぅっ……! では、課題その2ぃ……!】
てってけてー。音が鳴り響いた。
【踏んでくらはい……!】
「…………!?」
【いやあ、ほんとは、別の課題と思ってたんだけどぉ、雪麗たんの今の目が、良かったから……!】
「ええ……? 目、ですか?」
【そう! 憐れむような蔑むような…… ああんゾクゾクきちゃう!】
変態であった。
雪麗も、悪い意味でゾクゾクきている。だが、難易度としてはかなりやさしめな、温情課題であることは間違いない。
「そのようなことで、よろしいのでしたら」
「苳貴妃……! あなたがそんなことをしなくてもいいっ!」
血を吐くような叫びで、止めようとする浩仁に、雪麗は 「いいえ、やります」 と首を振ってみせた。
「踏むくらいで済むのでしたら、むしろ、すべきです」
【そうだよねっ! よくわかってるぉ! さすがボクちんの雪麗たんっ】
浩仁が悔しさに唇をふるわせ、拳を握りしめる。
【じゃ、結界を解除してあげるよ! 妙なマネしたらすぐに、おぐぁっ!】
雪麗たちの足元から太極の印が消えた次の瞬間。
泰山府君が、玉座からふっとんだ。
犯人は浩仁である。結界が消えたと同時に、床を蹴って高く跳躍し玉座へ到達。かたい拳を力いっぱい、お見舞いしたのだ。霊体、軽いせいかよく飛ぶ。
天井に頭をしたたかにぶつけ、そのまままっすぐ墜落した泰山府君の上に、美雀が飛びのった。
色白でふにふにな頬に、踵をめりこませてウリウリとやりながら、にしししし、と笑う。なかなか良い表情である。
【あだすでガマンすっぺ、泰山府君!
雪麗さんの足は皇太弟さんのもんだがらなぁ】
「そんな、私のものだなんて……! おこがましいにも程がある……!」
【ええ? そっだなこど言っでで良えのがなぁ?】
泰山府君の頬を踵でなぶりながら美雀が首をかしげると、浩仁は、耳まで赤くなってしまった。
―― そして、ついに最終課題。
泰山府君は、美雀のウリウリでけっこう満足したらしい。無理難題に走るというわけでもなく、実に趣味人らしいリクエストを出してきたのだった。