11-1. 凶 弾
「 来春北帰燕…… 」
煙るように柔らかな色合いの空を、幾万羽の黒い鳥が北を目指して羽ばたいていく。
砦の屋上で胸壁にもたれ、浩仁はひとり、くちずさんでいた。即興の詩である。
―― 土真国の侵攻により始まった戦は、もっぱら籠城戦であった。国境の砦にこもり、攻めてくる土真の兵をひたすら追い払う。
こちらから打って出ることがまずないのは、得意とする武器の相性が、予想以上に悪かった結果だ。
土真国には火器がないが、鉄には恵まれており、頑丈な防具と重く鋭い刃とをふんだんに有している。そのため、黄鳳国得意の火器と騎馬が通用しないのである。矢や弾は鉄の大楯でほぼ防がれ、騎馬は斬馬刀に脚を狙われてしまえば、乗るほうがかえって危険だった。
結果、黄鳳国がとる戦法は、ほぼ固定されてしまった。
籠城して土真国側から軍が攻めてくれば、適当な距離から火器隊が大砲を数発うち込み、散り散りになったところを武術による個人戦を得意とする者たちの部隊で討ち取る ―― というものである。
もともと国境警備のために造営されてきた堅牢な砦、背後は味方であり囲まれる心配もなければ補給に困ることもない、という有利な条件にも関わらず、敵の退路を断つ決定打に欠き、暇ではないが地味な戦いがダラダラと続いてしまっている ――
この状況を他方面から打開するために、浩仁は着任早々、手を回してはいた。だが困ったことに、はかばかしい返事は未だに返ってこないのだ。
出立したときは晩秋だったが、ここ温暖な蕣于の地で、冬らしい冬を知らぬまま過ごし、ついに春である。
しとしとと温い雨が降る日が多くなり、燕が乾燥した地を求めて北へ飛び去ってもなお帰れず、苳貴妃からもらった匂い袋の香もとっくに薄れてしまった。
普段は禁軍の将として兵に情けない姿は見せられないが、ときには人知れず《《たそがれ》》たくもなる、というものである。
「 来春北帰燕
請告仙泉好
香包香已消
未帰在蕣于 」
「―― 春が来て北へ帰る燕よ、仙泉によろしく伝えておくれ、だって? ずいぶんと叙情的だな」
屋上の入口から現れたのは、男装の麗人…… というより、顔の良い男にしか見えない。浅黒く日に焼けた肌に、蕣人特有の艶やかな緋髪を高い位置で結って垂らしている。蕣徳妃、紅蓮だ。
きびきびとした足取りで歩いてくると、浩仁の横にどさりと腰をおろした。
「そこでたそがれつつ詠み捨てなくとも、文にして雪麗ねえさんに送ってあげれば良いじゃないか」
「…… やめておきます。また、飾られてしまう」
苦笑いをする浩仁に、紅蘭は光の加減で緑を帯びる不思議な色合いの瞳をじっと注いだ。
「当然だろう。恋は男どもにとっては優雅な遊びかもしれんが、我々、後宮の女にとっては鬼門でしかない。
―― 堂々と飾ってしまうとは、雪麗ねえさんも良い切り抜け方を考えたものだ」
「キツいですね。遊びのつもりでは、ないんですが」
「そうかな? だがたとえば、浩仁どの。賢琮帝と嫻妃の故事をどう思う?」
黄鳳国でもっとも有名な悲恋物語を、紅蘭は例にあげた。
死しても共にいようと誓い合った皇帝と妃の逸話から、『連理比翼』 の言葉が生まれたのである。
「…… 素晴らしい恋物語と思いますが」
「私は、ふざけるなと思う。
見た目だけを愛でられ、妓女の代わりに舞わされて、あげく抱枕代わりに喜ばれても、女がまじで嬉しいものか。あれはただの仕事だ」
「それは…… 人それぞれではないでしょうか」
「そうかな? 転生したら、賢琮帝は比翼の鳥の片割れになるかもしれないが、嫻妃のほうは次の男を見つけてその隣に居座ると思うが。
帝のほうはアテにしてたら片翼片目、転生した瞬間に墜落するしかないな」
口を開けて笑っているところを見ると、紅蓮にとっては冗談であるらしい。
だが、浩仁は落ち込んだ。
「…………」
無言のまま、手の中の匂い袋を眺める。そこに刺繍されているのは、連理の枝にとまる比翼の鳥であった。
「…… ああ、すまない」
さすがに、紅蓮も気づいたようだ。
「もちろん雪麗ねえさんは、私のような解釈はしないと思うぞ? 真面目だから」
「…… けど、この刺繍、紅蓮さんあての匂い袋にもついていましたからね…… 」
「当然だ。急ぎ作ったので、入宮の儀で着た衣裳をほどいたと聞いている」
「…… どういう意味だと思います?」
戦の合間、思い出したように浩仁を悩ませたのがこれである。
―― 入宮の儀の衣裳、すなわち婚礼衣裳。ほどこされてる刺繍は、夫婦仲睦まじいことのたとえである、連理の枝に比翼の鳥。
そして匂い袋の中には 『早く帰ってきてね』 との詩。ものすごく意味深である。
紅蓮あてのものが全く同じでなかったら、すっかり勘違いして喜んでいるところだ。だが、全く同じだからといって、勘違いだと決めつけることもないような ――
「悩むより、文のひとつも送ったほうがいいだろう」
紅蓮の返事は、そっけなくも的確だった。
「飾られることなど、気にするな。ああいうタイプには押しが効くんだ」
「…… そういうことをすると、迷惑なんですよね?」
「ツバつけとくのは悪くないと思うぞ? なにしろ浩仁どのは次の天子だし、雪麗ねえさんは現帝の妃だ」
「迷惑なんですね」
「…… まあ、そのとおりだな。
だが、先にそれとなく俺のもの宣言しておくのは一手だぞ。
帝の代替わりのときに、後追い貞節的な意味で尼寺に引きこもられた挙げ句に2度と出してもらえなかったりして」
「………………!」
「雪麗ねえさん、地味で控えめなんだけどなぁ…… どうも、院長やら尼僧長あたりに《《ある意味》》気に入られそうな予感が」
「………… で。本来の用件はなんですか、紅蓮さん」
「思いっきり無視したな、今」
「付き合いきれませんよ」
浩仁はタメイキをついた。
せっかく殺伐とした戦場を一時忘れて、浸っていたのに台無しである。
ツバつけるとかではない。
彼にとって苳貴妃は、ぼんやり想いを馳せるだけで癒される、そういう存在なのだ。
もったいなくて、妄想の中でさえ、オカズにもできない。それどころか、名前も呼べない。
―― 言うとまた、忠告半分からかい半分でいじられそうだから、言わないが。
「まあ、いいか」
少々物足りなさそうだった紅蓮だが、頭をひとふりして、仕事の顔になった。
「おまちかねの、九狼どのから文だ。おそらく、良い知らせだろう」
「では、いよいよ」
浩仁は渡された巻き紙を急いで広げた。
―― 侍従の宦官、九狼には、蕣于の地についてすぐに、語学のできる者や地縁のある者数名と組ませ、興貴国に旅立たせている。
現在、土真軍の主力が黄鳳国側に集結していることを伝え、その隣の元鳳国との同盟を結ばせるためだ。
興貴、元鳳両国に揃って侵攻されれば、土真は黄鳳攻略どころではなくなる ――
文には、目論見どおりに事が運んだ旨が、やや荒いが読みやすい九狼の楷書でつづられていた。
「―― とすれば、昨日から襲撃が一度もないのは、引き上げ準備のためのようですね」
「ああ。使者たちの帰還までは、あと5日ほどだそうだ。燕に想い託さずとも、春が過ぎる前に帰れるぞ」
不意に、どこからか銃声が響き、紅蓮と笑み交わしていた浩仁が、胸に手を当てた。
「浩仁どの! どうした!?」
そのままゆっくり膝をつくと、うつぶせに倒れる。
「―― 背後、からです」
「 ……! 衛兵! 軍医を呼べ!」
銃弾は貫通していない。血の量からは、太い血管は外れていると思われる ―― だが、助かるかは運の問題だ。
手で傷口を塞ぎながら、蕣徳妃は、首筋にチリチリしたものを感じていた。
浩仁の背後 ―― それは、味方の黄鳳国側のはずである。




