10-1. 謹 慎
雪麗が皇太后に呼ばれる、数刻前のこと ――
うっとうしいことだ、と暁龍は口の中だけで小さく舌打ちを繰り返していた。
―― 大経奉納の翌日から、影が、つかず離れずつきまとうようになったのだ。宮正の女官である。
皇太后は、以前から暁龍に目をつけていたのだろう。苳貴妃に幽霊が宿り春霞と暁龍を糾弾したのをこれ幸いとばかりに、暁龍を陰から監視し、不義密通の証拠をつかもうとしているのだ。
―― おそらくあの影は、暁龍が華桜宮に使いをやっただけでも皇太后に報告し、特権をもって使いの内容を暴こうとするはず。
おかげで暁龍は、皇帝に寝所で皇太后の横暴をさりげなく訴えるよりほか、打つ手がない。
宦官ならば、暁龍の意のままになろうが、女官はそうはいかないからだ。
―― 宮正は宮廷全体の不正を暴き規律を正すという役目から、例外的に宦官と女官の両方が属する組織であるが、本来、宦官と女官は役割が違う。
女官は皇太后をトップとする後宮の世話係であり、宦官は皇帝をトップとする宮廷の世話係なのだ。
従って、たとえ宮正の女官といえど、彼女らの長はあくまで皇太后であり、宦官の暁龍でも、暁龍子飼いの部下である宮正院長でもないのである。
(焦ってはならない。慎重に…… )
彼は己に言い聞かせ、日々の業務を粛々とこなしていた。
ここでボロを出してしまっては、これまでの努力が水の泡である。
なんのために、自ら宝を断ち、黄鳳の皇族全員を騙しきるまでに忠誠あるふりをしてきたのか。
いかほどの地位にのぼり、どれほどの権力を手に入れようと、それを忘れてしまっては、無意味なのだ。
(むしろ影には、私の潔白を報告してもらうことにしよう……)
―― この国を乗っ取るまで、暁龍の復讐は、終わらない。
焦りはあっても、今はひたすら我慢するしか、ないのだ。
だが、ふと暁龍は、己を見張る女官が代わっていることに気づいた。宮正でそれなりに仕込まれてはいるのだろう。うまく空気に溶け込んでいるが…… 若い。
前まで彼をつけていた、ベテランの風格漂う女官とは違い、その目には敵意がない。そこにあるのは、むしろ、称賛のほうだ。
宮廷随一とも評される容姿の利を、彼はよく知っていた。
(これは使える……)
暁龍は身を翻し、彼女に近づいた。女官はすぐに気づいて距離をとろうとしたが、彼のほうが速い。
「私になにかご用ですか?」
壁に手をついて逃げ道をふさぎ、わざと息がかかるほどに顔を近づけ、のぞき込む。年の頃は16-7か。
まだ幼いといってもいい女官の頬が、わかりやすく赤らんだ。
「い、いいえ、別に…… その、書庫へ使いを頼まれたのですが、慣れていないので迷ってしまって……」
いかにもな言い訳である。
「ああ、書庫ならば、あちらの角を曲がって突き当たり右奥ですよ」
「あ、ありがとうございます…… その、失礼させていただいても」
「今晩は実家の母を訪ねる予定なのですが」
腕の下から抜け出ようとする女官を足で止めて、暁龍は唐突に本題に入った。駆け引きなど時間の無駄。なすべきは、取り引きである。
女官が、すっとぼけて首をかしげた。
「…… はあ?」
「その間はつきまとわないでいただけますか? なにしろプライベートですので」
「…… あの。なんのことだか、私にはよく…… 」
とぼけ続ける女官の耳に顔を寄せ、柔らかくささやく。
「お願いをきいていただけたら、それ相応の御礼をしましょう」
懐から銀を取り出し、小さな手にぎゅっと握らせてやる。
「御礼はなにがよろしいですか? 考えておいてくださいね」
朱に染まった顔でこくこくとうなずく女官を残し、暁龍はその場を去った。
※※※※
「李賢妃は、いつまでおとなしくしているでしょうね」
『蔟』 と呼ばれる藁で編まれた網に、丸々と太った蚕を移しながら、皇太后は世間話のように言った。
蔟に上った蚕は、気に入った場所におさまると糸を吐き出して、ほんのり白い繭を作りはじめる ―― 皇太后は作業に夢中なためか、雪麗の女官服姿にはツッコミがない。
「謹慎など早々に破るのではないかと思っていましたが…… 意外と長く続いているので、驚いていますよ」
「あの子は後宮に収まりきれぬのでございます。きっと賢妃の地位は、窮屈で仕方ないのでしょう」
そんなことより至急と呼び立てるほどの話題を先にしてほしい、と正直なところ思う雪麗であるが、もちろん口には出さない。
皇太后は微笑んだ。
「…… だからといって、地位が上がれば自由というものではないのですがね」
「なってみなければ、わからぬものなのでございましょうね」
雪麗からしてみれば、貴妃などというものは中途半端な権力と引き換えに、割に合わない苦労を強いられているようなものである。おそらくは、皇太后も同じようなものなのだろう。
全ての蚕を蔟に移し終えると、皇太后は改めて雪麗を見た。
「皇帝に急ぎ、文を出してほしいのです。後宮にすぐにも足を向けたくなるような文言を考えてくれませんか」
「では、ついに……」
急な呼び出しに良くないほうを想像していた雪麗だが、それは外れていたようだ。
―― これから始まるのは、むしろ待っていたはずのこと…… それでも胸がざわめくのは、おそらく雪麗にまだ、迷いが残っているせいなのだろう。
皇太后は、大きくうなずいた。
「そなたに、このようなことに手を貸してもらっては、すまぬとは思うのですが」
「いいえ。大したことでは、ございませんから」
シチュエーションはやや異なるが、同じ目的で文を出したことなら、これまでの回帰でも何度かあった。
近々、必要になるだろうことは予想して、すでに準備もしてあったのだ。
―― 予想外にも、春霞の妊娠前に浩仁の夜間の来訪があったため、使いそこねたが。
それがここで役に立ちそうだというのだから、人生、いくら回帰していても予想のつかぬものである。
仙泉宮に帰った雪麗は、すぐに着替えると明明を連れて華桜宮を訪れた。
華桜宮は、あちこちに落ち葉の吹きだまりができて、荒れた雰囲気だった。主が謹慎中であるため、尚寝局から掃除係が派遣されず、庭園にまで手が回っていないのだろう。
閑散とした空気の中で、ただ、春霞の怒鳴り声だけがにぎやかだ。
「それじゃない、って言ってるでしょ! わからない子ね!」
謹慎を破ったことがバレたら、さすがに妃位をおろされる可能性が高いことは、春霞もわかっているのだろう。珍しくおとなしく宮にこもっているのは良いが、そのストレスは全部、侍女や女官に向かっているらしい。
雪麗を迎えた侍女のほおも、小さく腫れていた。持っていた軟膏を与えてやると、涙ぐんでお礼を言われた。気の毒なことである。
春霞は、長椅子に横たわって酒をのんでいるところだった。謹慎がきいて呆れるが、せっせと刺繍などをするタマではないこともまた、周知の事実だ。
「こんにちは、春霞。退屈しているのではないかと、お見舞いにきましたよ」
「ああそう、謹慎中のみじめなわたくしを嘲笑いにきたのね。お姉さまも人がお悪いこと」
「あなたに鍛えられましたからね」
「なんですって」
「いいえ、なんでもありませんよ」
しかし確かに、春霞の敵意に満ちた眼差しは心地よいかもしれない。何を言われてもしょせんは負け犬の遠吠え。優越感をおぼえずにはいられないし、その程度のことは許されるだろう、と雪麗は思っている。
なにしろ、春霞のせいで8回も処刑されているのだから。
「それより、退屈だろうと思って、あなた向きの読み物をいくつか持ってきましたよ。それからお菓子も」
「わたくしが読書なんてすると思っているの? それに太らせる気ね!?」
「お入り用にならなければ、侍女や女官に与えればいいでしょう?」
「そんなもったいないこと、誰がするのよ!」
「そう? ではお好きにどうぞ。少しお庭をまわってもいいですか?」
「勝手になさって」
なによこれつまんない、と、持参した巻物を投げつけられたところで、雪麗は席を立った。
(そろそろ明明も、《《彼女》》を見つけていることでしょう)
―― 残念ながら、何の心づもりもなく春霞を見舞うほどには、雪麗は人が良いわけではない。
本来の目的は、これからである。