9-4. 競書①
「はいぃぃ…… 選妃の破体書は、あだすのだ…… です。
でも雪麗さんは、ズルじゃないっぺ。あだすの名を出せって言っでぐれだっぺ。です」
「ではなぜあの選妃の折、そなたの名を出さず、雪麗さんの名にしたのですか?」
「いろいろ…… 雪麗さんに恩返しどが、無尽公の書が欲しがっだどが、あだすの書で選妃の1位になっでみだがっだどが…… 」
ずっ、と鼻をすすりあげる美雀。
雪麗は、少々驚いていた。美雀の才能は疑うべくもないもので、美雀自身もそれに揺るぎない誇りを持っているのだろう、と思っていたからだ。
この驚くべき天才児が、選妃の1位などという矮小な勝利を望んでいたとは…… 人はつくづく、己ひとりだけで立つのが難しいものである。
「あだすはずっと贋書しか作っでごながっだから…… 死ぬ前に、あだす自身の書を認められだがっだ…… です。
雪麗さんの名さ使えば、それがでぎるど思ったんだっぺ…… です」
「あの破体の書は素晴らしかったですよ、美雀。ですが、こちらのほうがより素晴らしい」
皇太后が示したのは、壁の書だった。古くからの出生の祝い歌 ―― 波打つ《《はらい》》やくっきりとした《《はね》》が大きな喜びをあらわすその書は、神聖な生命というものへの祈りのようにさえ、見える。
「技術を見せつけているのか、素直な心でなされたか。それが通じるのが、書というもの。そなたのなした贋書も、父を思う心が伝わる良き書でしたよ」
「…………! 気づいでたっぺか!?」
「楊美雀。李辛出身の美術商、楊伯の娘ですね…… 楊伯には気の毒なことをしました。あの日は所用で宮廷におらず、救うことができなかったのです」
美雀がまた、ずずずっ、と鼻をすすった。しゃくりあげながら、訴える。
「あの日は、《《本物の書》》が多ぐで…… 差し替えが間に合わながっだっぺ…… 親父には、半分にしどぐように言っだのに…… 」
「本物の書が贋書と判じられてしまったことは、罰せられるべきことです。
ですが、陛下好みであるという理由で宮廷に贋書があふれるのもまた、悪しきことなのですよ、美雀」
「はいぃぃ…… ずびばぜん」
「だが、楊伯の持ち込む書が気に入られていたのは、陛下好みだけが理由ではないでしょう。贋書を装っていても、それをなした者の真実は隠しようがないものですから」
(そのとおりです)
雪麗も、内心大いにうなずいていた。
たとえ贋書をなすときでさえも、美雀の手蹟はいつもどこか自由さを失わず楽しげだ ―― それは、その道を愛し研鑽を積む者にしか表せない境地のものであろう。
ひたすらに磨き、余分なものをそぎおとした末にしかあらわれぬ本来の輝きなのである。
身に付けてきた塵屑を己の芸だと勘違いしているような輩は、周りを一度よく見てみると良いのだ。似たり寄ったりの塵屑を得意気に見せびらかす者の、いかに多いことかを。
美雀の贋書は、それらとは明らかに一線を画していたからこそ、楊伯から袖の下を掴まされていない鑑別士さえも 『本物』 と認めざるを得なかったのだ。
「美雀。そなたの書で惜しいのは、贋書であることだけでしたよ」
「ぐすっ…… もっだいねえお言葉だっぺ……!」
「―― 皇太后さまっ! 騙されないでくださいませぇっ!」
今にも泰山府に飛びそうな勢いで感動している美雀と、そんな彼女が憑依した皇貴妃とを、にこやかに見守る皇太后 ―― しみじみとした周囲の空気を破るように声を荒げたのは、もちろん春霞であった。
「こんなことっ…… ぜんぶ、お姉様の演技に、違いありませんわっ!」
「なにをでだらめなごど言っでるだが。呪うっぺよ、ズル女」
「皇太后さま! こんな女、貴妃にはふさわしくございません! 厳重な処罰を!」
「では、こうしましょう」
心情的には春霞をこらしめたくても、現実は、雪麗が演技をしてわざと賢妃を陥れようとする可能性も、ないわけではない。
果たして、どのような判断が下されるのか ―― 一同は、しんと静まりかえって皇太后に注視した。
「先ほどから申しているように、書には誠があらわれ、誠なき書は見映えがいかによくとも、不快なものです。ここは皆様、いかがでしょう。
競書にて、より優れた書をなした者の主張を真実とみなすというのは」
「そんなのっ…… 不公平ですわ! お姉様が勝つに決まってるじゃない! どうせ皆様、お姉様にひいきなさるんでしょう!?」
春霞が吠えたが、皇太后の冷たい一瞥で沈黙した。
いかに四華ともてはやされる名家の姫であろうと、後宮では皇太后の権力のほうが絶対だということを、やっと思い出したようだ。
こうなると、あとは早い。
院長が呼ばれ、引き続き御堂を借りる交渉がなされた。不正を防ぐため、この場で書を競うことになったのだ。
余談だが、堂の壁の落書きについてもその際に断りを入れたところ、書のできばえと、この世ならぬ霊がなしたという説明でかえって有り難がられた。寺宝にされそうな勢いである。
―― 話を戻そう。
こうして、競書のために急ぎ整えられた御堂にて、美雀と春霞は、それぞれに机に向かった。
題材・書体は自由。
後宮の者たちだけでなく、慈恩院の僧たちまでが総出でことの行く末を注視する中、ふたりは同時に筆を手にとった。
だが、春霞はすぐに下ろしてしまう ―― 書くことが、見つからないのだ。
一方で、美雀はすでにゆるゆると筆を動かしはじめていた。




