1-3. 後宮の盗人
「阿姨、温麺ひとつ」
「わたしも」
「はいよ!」
後宮のはずれに位置する司膳局の食堂は、良い匂いにあふれ、活気に満ちていた。
粗末な長机と椅子が並び、飾りひとつない殺風景な空間だが、そこここで下級女官たちが食事をほおばりつつ、おしゃべりに興じている。
そのさまを、雪麗は温麺の盆を手に持ったまま興味深く眺めた。
回帰前の1度めの人生から、来てみたかった場所 ―― 9度目にしてやっと来られたと思えば、感慨深い。
(これからは何度でも来られますね。香寧も引っ張って行ってみたいものです)
『奴婢たちと混じって食事など…… 遠慮させていただきます』 と言い放ったプライド高い侍女が、この光景にどんな顔をするのか…… 想像すると、おかしくなってしまう。
「雪麗……じゃなくて、麗麗さん! こっちです!」
いつの間にか人をかきわけ、空いている横並びの席を確保した明明が、手を上げて合図してくれた。麗麗は、この食堂に向かう道々で決めた呼び名である。
うなずき返しつつ、戸惑ってしまう雪麗。
―― 普段の皇貴妃としての生活で、目の前に人や障害物があることなどない。どこを通っても、障害物はあらかじめ片付けられ、周囲の人々は必ず左右によけて頭を下げてくれるからだ。
しかしここでは誰も、そんなことはしてくれない。
(この混沌を、どうやって横切れと……?)
助けを求めて明明の顔を見れば、『頑張ってください!』 といわんばかりに拱手された ―― 確かに、それしかない。
一般庶民に近い立場の女官しかいないこの場で、明明に手など引いてもらっては悪目立ちもいいところ、というのは雪麗にももちろんわかる。
(大丈夫)
雪麗は己に言い聞かせた。
(何度も処刑されてるんですもの。この程度の試練、生温いと言っても良いはずです……!)
温麺の盆を捧げ持ち、人と人との隙間を狙って身を滑り込ませ、そろそろと歩く。
なんとか明明のもとについたときには、雪麗はすでに若干ぐったりしていた。けれども達成感はかなりある。
「お疲れ様です」
「いいえ。大したことありませんでしたよ (蟲刑と比べれば)」
見栄を張る雪麗のお腹が、くぅっと音を立て、ふたりは顔を見合わせて小さく笑った。
「では、いただきましょうか」
「はい!」
ふたりで並んで腰かけ、少々伸びてしまった麺を口に入れる。
麺のグレードは、宮に支給されるものよりもかなり下なのだろう。何か物足りない気もするが、状況の新鮮さが、それを補っていた。
隣どうしに並んでおしゃべりしながらの食事は、雪麗にとっては初めてである。
「味つけは、なかなかのものですね。食べたことのない種類ですけれど……」
「安い肉をしっかり煮込んでるんでしょうね、雪麗…… おっと、麗麗さん。庶民の知恵ですね、きっと」
「ほかの料理も気になってきました。また、来てみてもいいですね」
「あまり頻繁だと、宮の料理女官が泣きますよ」
「では、今度は彼女たちも誘いましょうよ」
小声で話す雪麗たちの耳に、『死体』 という物騒な言葉が飛びこんできたのは、そのときだった。
背後の席に陣取っていた女官たちが、数日前に、城を囲む堀に浮いていた下級女官の身元について、噂しているのだ。
「ほら、小虹河のアレ! 尚寝の楊美雀だったそうだよ。遺書が見つかったんだって」
「へえ、字が書ける子が掃除係だなんてね」
「ワケありじゃない?」
尚寝局とは後宮の掃除や灯の管理などを行う部署で、洗濯と病人の収容を担当している浄衣院についでキツく、かつ実入りが少ないとされている。
遺書を残せるほどの学がある人材ならば、まず配属されないはずだった。
だから女官たちは 『ワケあり』 と言ったのだ。
「で、なんだって自殺なんか」
「なんでも、後宮のものを盗んで売りさばいていたんだけど、罪の意識に耐えられなくなったとか……
持ち物の中に大金と、奴婢じゃ持ってるはずのない貴重な書があったんだって」
「ふうん…… よくわかんない話だね。うまくやったんなら、そのままバックレときゃ良かったのに」
「ほんとそれ」
「あたしなら、自殺するにしても、その金で饅頭を腹いっぱい食べてからにするねえ」
「食べ過ぎで死ぬんじゃない」
女官たちはきゃらきゃらと華やかな笑い声を上げた。
そちらにちらっと目をやり、明明は雪麗にひそひそと問いかけた。
「盗みっていうと…… 菊芳宮か華桜宮ですかねえ、やっぱり」
「そうですね…… 何か盗まれたとは耳にしたことがありませんが」
「きっと気づいてないんですよ。贅沢な品が多すぎて」
菊芳宮にすまう淑妃・楸玉鈴は、神仙術に凝っており、怪しげな研究のために貴石や薬草を大量購入しているという。
一方、華桜宮の春霞は、李家の姫らしく贅沢好きだった。身の回りにそろえているのは名家出身の妃たちにとってさえ高価な品ばかりだ。
おそらく春霞がしつこく皇貴妃の座を狙ってくるのは、そのせいもあるに違いない、と雪麗は読んでいる。
貴妃の年棒は、賢妃の年俸のおよそ倍なのだ。
「あら、けど、書なら仙泉宮かもしれませんよ?」
「雪麗さまの写本が、そんなに価値があるとは思えませんけど」
「まあ、それはひどいですよ、明明」
苳家の教えに従い、雪麗は後宮に上がってからも、よく法律書や学問書を写して勉強していた。
しかし内容と効率重視であり、書字自体にはことさら重きを置いていない。ことさら芸術的価値がある字ではないことは、雪麗自身も知っているため、『ひどい』 という口ぶりは冗談じみていた。
「確かに読みやすいよりほか、取り柄のない手蹟ですけれど……」
ふと、まるでこれまでの己のようだ、と感じた。
深く考えることもなく、与えられたものを受け取り、教えられたことを忠実に守って生きてきた。それ以外は、空っぽだ。
そのような者に、価値があるだろうか…… 雪麗が出せる答えは、限りなく薄暗い。
「ごめんなさい、嘘ですよ、麗麗さん」
急にどんよりとした雪麗の表情に気づいたように、明明が首をすくめて舌を出してみせた。
「お詫びに、饅頭をご馳走しますね」
侍女が指さす一角に、湯気の立つできたての饅頭が並んでいる。
「さすが明明さん。わかっていますね!」
「もちろんですとも!」
ふたりとも、さっきの女官のおしゃべりで急に饅頭が食べたくなっていたのだ。
「少しお待ちくださいね」
人をかきわけ、饅頭へと突進していく明明の背を見送り、大丈夫、と雪麗は自分に言い聞かせた。
今回は 『これまでで一番ラクに死ぬ』 というなかなか大きな目標が、すでに決まっているではないか。
(ほら。じゅうぶん、充実していますとも……!)
それに今、女官たちにまざって食事しているのだって、ほかの誰でもなく、雪麗自身がやりたかったことだ。
小さなことでかまわない。
ひとつずつ、己の心に聞いていけばいいのだ。
遠くから、明明が饅頭を持った手を高く上げてみせてくれているのに、雪麗は大きくうなずいてみせたのだった。