9-2. 祝い歌
美雀が堂の壁に書いたのは四言古詩 ―― 韻律などの規則がない、はるか遠い時代の素朴な歌であった。
『 慶雲昌光
鳳鳴朝陽
萬福無極
長寿如山 』
―― めでたい雲が日の光にたなびき、鳳凰が朝日が昇るかのように鳴いている。幸の限りなく多い人生となり、山のように長生きするように ――
(これは…… 子どもが生まれたときの祝い歌ですね)
「んだ」
黄鳳国では、珍しい歌ではない。子どもの誕生を言祝ぎその多幸長寿を願う歌として、産着や出産の贈り物に書かれるのが、習慣化しているからだ。
「あだすも、雪麗さんも、香寧さんも。みんな、誰かにこう言ってもらって、生まれてきたんだっぺ?」
「…… 雪麗さま……」
(美雀…… )
主の変わった口調をおかしい、と感じる余裕は、今の香寧にはないらしい。
雪麗にしても、今の美雀の言には、ほろりと感じ入るものがあった。
雪麗自身、もともと李家に生まれながら、生まれ月が望ましくないという理由で苳家に養女に出された身だ。
だから、己の誕生が誰かに喜ばれたという意識はなかった。だが……
黄鳳国の赤子が最初に袖をとおす産着に必ずあるその文言は、誰かが手を掛けて染めつけ、あるいは刺繍したものだ。
その赤子に対する愛情などなかったかもしれない。単なる、仕事だったかもしれない。
それでも、何も思わなかったわけではないだろう。
ひとが言葉を発するとき、そこには必ず、意味が宿り、願いがこもる。
「もんすげえ大事にしだんじゃなぐでもな、半分以上が自分のためでもな。いろんな人が手をかけでぐれでるんだ。そんで、もしかすだら、ちょっとは心を込めて何がしでぐれでるんだ」
黙って壁の書を見つめる香寧の背を、美雀がよしよしと撫でた。
「それが集まって、あだすだちが生ぎてるんだっぺ。無駄にしちゃあなんね。な? 香寧さん」
「はい…… ですが、恥ずかしいのです…… 雪麗さまに知られたくなかったです」
香寧の目から、涙が次々とあふれては、流れ出していった。
「なに言ってるだ。知られたから恥ずかしいんでねえっぺ? 恥ずかしいごどすんのが、恥ずかしいんだっぺ?」
「はい。…… やはり、死んでお詫びするしか……!」
「なんでそうなるっぺ……!」
やれやれー、とタメイキをつく美雀。
「香寧さんはただ、宮正にこう、証言すればいいっぺ。
『あのヘタクソな遺書は贋物で、私が華桜宮の李賢妃にいわれで作りました。楊女官を殺しだのは、李賢妃ど宦官・暁龍です』 っでな」
「え…… そうだったのですか?」
「知らなかったっぺ?」
「私は、詳しい事情はうかがっておりません。ただ、李賢妃が書けと言われたことをそのまま書いただけですから」
「じゃあなんで、父親が李家から仕事もらっでるのがバレたぐれえで、自殺しようどしだ?」
「だって…… 私の実家はご存知のように、苳家の系列なのですから。それが、雪麗さまの仇敵から恩を受けて言いなりになっていたなんて…… 恥ずかしすぎますでしょう」
「いやだから、それなら先に苳家に相談すればいいんじゃねえが?」
「いいえ。それはできません。困窮を主家に知られるほど恥ずかしいことはございませんから」
プライドがねじれこじれて、がんじがらめだ。これでは、いつまでたっても平行線である。美雀は天をあおいでタメイキをついた。
「ともがぐ…… 遺書の贋作の件は、証言しでもらえるんだな?」
「はい…… 雪麗さまがおっしゃるなら…… けれど、私が申し上げるべきではないですが、仙泉宮の女官に不手際があったとあっては、雪麗さまのお立場が」
(そのようなことは、どうでもいいのですよ。わたしは、みんなで楽しく暮らしたいだけですから)
ラクに死ねればそれでいい、とは、雪麗にはもう、言えなかった。まだちょっと、思ってはいるけれど。
「んだっぺな」
美雀が、ひとつうなずく。
「雪麗さんは、別にかまわねえと言ってるだ」
「あの、雪麗さま……? 失礼ですが、どうしてご自身のことを、そのように……? 」
香寧はようやく、主の異変に気づいたようだ。遅すぎである。
「それに、その言葉遣いは……? やはり、閨がお寂しい…… 」
(違います!)
全ての原因を空閨のせいにしないでほしい、と切に思う雪麗。
美雀が、首をかしげた。
「雪麗さん、言っでもええが? それども、戻るが?」
(美雀さんから、お願いします)
「よしきた」
自殺せぬよう助けたとはいえ、やはり香寧には含むところがあるのだろう。
美雀は、雪麗の顔で、なるべく気持ち悪く、にたぁり、と笑ってみせたのだった。
「実はなぁ、香寧さん。あだすは、雪麗さんに取り憑いている幽霊…… 本当の名は、こういうんだっぺ…… 」
壁の祝い歌の横に、再び置かれた筆が書きつけた名は、『楊 美雀』 ――
香寧の目が大きく見開かれたまま、凍りついた。
数瞬の後、その口からは、これまでに聞いたこともないような鋭い悲鳴が漏れたのだった。