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9-1. 落書き

 晩秋の吉日 ――

 宮廷ゆかりの寺院にて、皇太后と後宮の妃たちによる、大経の奉納式が行われた。

 宮廷の外苑を見下ろす小高い山中にあるこの寺の名は、慈恩院。亡くなった皇族に仕えていた妃嬪や宦官が出家して余生を送る先である。


 崖の上に建てられて眺めが良いこの寺院は、祈祷などのほかにもしばしば、物見遊山(ものみゆさん)の折の休憩所としても使われている。


 晴れた(うら)らかな天気のなか、奉納式の行われた本堂もまた、ちょっとした紅葉見物の会場のようになっていた。


 遠く外苑に連なる木々は赤や黄の美しい錦を織りなし、一方では広い縁側に枝を差しのべるもみじが、日の光を透かした深い紅の葉をそよ風に震わせている。


 芳名帳に順次記入しに立つ以外は、ひたすらじっと固まって長々しい読経と先代皇帝の貴妃であった院長の謝辞を我慢して聞くだけの式が終わると、やっとひといき、である。


 後宮の者たちはみな、秋の景色を堪能しようと境内に繰り出した。

 土真国の侵略と、蕣徳妃と浩仁皇太弟の出陣 ―― ずっとどこか張りつめた思いでいた人々の目には、だからこそ、去年と変わらぬ静かな山の景色がより貴重で美しいものに見えるのだ。


 あとに残ったのは、仙泉宮の苳貴妃と、ふたりの侍女のみ ――



「明明も境内を見てきていいですよ」


 ちらちらと外を気にしているほうの侍女に、雪麗は微笑みかけた。


「いいんですか? 雪麗さまは……」


「わたしは、院長に少し祈祷の相談をしたいので」


「えっ、なら私も残りますよ!」


「いいのですよ。ずっと楽しみにしていたでしょう?」


「えええ…… そうですかぁ。じゃ、お言葉に甘えて…… 失礼しますね!」


 人目があるため、かろうじて歩いてはいるが、みなを追って境内に向かう足取りは跳ねるように軽い。

 そんな明明の後ろ姿に 「お子さまね」 と小さく毒づくのは、落ち着いた年かさの侍女、香寧だ。


 いま、広い縁側に残っているのは、香寧と雪麗。そして、殺された女官の幽霊である。


「香寧」


 雪麗はなるべく優しく、話しかけた。


「最近は、ご実家のほうはいかがです? 困っておられませんか?」


「はい。大丈夫です。ご心配ありがとうございます」


 香寧のまぶたが一瞬、ぴくりとひきつるように動き、そのあと、顔面から一切の感情が消えた。

 シャットアウトされたのだ。

 このプライドの高い侍女が、実家の困窮について言及されるのを嫌うことを、雪麗はよく知っている。だからこそこれまで、なるべく話題にせずにきたのである。


 ―― だが実はそれこそが、香寧の裏切りの原因ではないだろうか…… と、雪麗は推測していた。


(できれば香寧自身の口から…… と思ったのですが、難しいようですね)


 雪麗としては、いきなり過ちをつきつけるような真似はしたくないのだが、このままでは(らち)が明かない。


「香寧。実は、人をやってあなたのご実家の状況を調べさせました」


「…………」


「余計なことをして、すみません。あなたが嫌がるのは、わかっていたのですが……」


 小さく息をのみ、主を注視する香寧。その顔は無表情のままで、怒っているのかおそれているのか、雪麗には判別するのが難しい。


「香寧のお父様は今、李家とつながりの深い商人から仕事をもらっているようですね」


「そのとおりですが、それが、なにか……?」


「だから受け負ったのですか? 死んだ女官の遺書を贋造することを」


 雪麗が口にしたとたん、香寧がぱっと身を(ひるが)えし、欄干によじ上った。下は崖。

 手を離せば、まっ逆さまである。


 ―― もと名家のお嬢様らしくプライドの高い香寧だが、物心ついたときには家はすでに貧しかったため、ひととおりの家事仕事をこなしながら育っている ―― つまり、身体能力は雪麗よりも上であった。


「いけません、香寧!」


 叫んだものの、雪麗は身動きがとれなかった。

 ヘタに動いて、香寧をかえって刺激してしまわないか…… 恐怖が、身をすくませていた。

 ―― 己の死は (ラクなら) 大歓迎なのに、他人が死ぬのはこんなにも痛く、恐ろしい。


「誰か…… 誰かきてください!」


 人を呼んでも誰もやってこないだろうことは、雪麗がいちばん良く知っていた。話を誰かに聞かれては香寧が嫌がるだろうと、事前に、院長に人払いを頼んでいたのだ。


「香寧、命令ですよ! 戻りなさい!」


 しかし、香寧はいまにも、手すりをまたごうとしている。


「香寧……!」


【雪麗さん、ちょっと失礼するっぺ】


 助けは意外なところからきた。

 美雀の声と同時に、首筋に冷たいものが触れ、雪麗の視界がぐるりと回転する。憑依されたのだ。


 もしかしたら、尚寝女官の体力仕事で鍛え上げた瞬発力で香寧を助けてくれるつもりなのか ―― 一瞬、期待した雪麗だったが、その期待はすぐに疑問に変わった。


 美雀は香寧に背を向けて堂内へと駆け込み、芳名帳のそばに置いたままになっていた筆を掴んだのだ。

 硯もそのままになっている。その横には、誰かの忘れ物であろう手帕(ハンカチ)。まとめて、あとで片付けるつもりだったのだろう。

 残っていた墨をたっぷりと穂に含ませると、堂の壁に、ずん、と押しつけた。

 重い一筆。

 すっと横に引かれた線は、荒々しく若干、右肩上がりである。

 《《はらい》》は次第に太く長く、波打つように。

 《《はね》》は大きく、はっきりと。

 古代の篆隷(てんれい)を思わせる、力強い行書 ―― まさに、雄渾と呼ぶにふさわしい筆であった。


 だがその場所がなにしろ、堂の壁。


(ちょっと美雀…… !?)


「雪麗さま……!?」


 雪麗の内心の悲鳴と、香寧の悲鳴が見事に重なった。

 香寧が、あわてて欄干から縁側に飛び降りる。どさっと痛そうな音がして、無表情な顔が、くいっと歪んだ。足でもくじいたのかもしれない。

 が、かまわない様子で雪麗のもとに駆けてくる。

 

(美雀、やりましたね! でも…… )


「雪麗さま、おやめください!」


(そうですよ、やめてください、美雀!)


「ダメだ。書ぎかけたら最後まで書がないど、ただの落書きになるっぺ?」


 美雀は、雪麗と香寧の叫びをものともせず、壁に字を綴り続ける。


(最後まで書いても、ただの落書きでしょうに!)


 雪麗はツッコんだが、香寧ははたと止まった。


「―― 意味が、おありなんですね。雪麗さま」


「んだ。あんだのために書いてるっぺよ、香寧さん」


「私の…… ために?」


「んだ」


(香寧の……? 美雀は、香寧を憎んでいたのではないのですか? ヘタな遺書を作成されて…… )


「んだがな。死なれだら、呪うごどもでぎねえっぺ…… よし、できた」


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