8-4. 新たな疑惑
「雪麗さま。お茶とお菓子を持って参りました」
「雪麗さま。硯と筆の洗浄、終わりました!」
「ありがとう、香寧、明明」
仙泉宮の雪麗の部屋に漂う落ち着く墨の匂いに、華やかなお茶の香りがふわっとかぶさった。
「ふーっ。これでようやく、終わりですね。あとは明日、皇太后さまにお任せするのみ!」
「それはいいですけど、こら、明明。雪麗さまより先にお菓子取りませんよ!」
「いいのですよ、香寧もお取りなさい」
「ですが…… 」
「いいですから、はい、あーん」
「んもう! 自分でいただきます!」
「あっ、雪麗さま! 私いただきます! あーん!」
雪麗は明明の口に砂糖菓子を入れてやり、ついでに己の口にも1つ放り込んだ。
くっと甘い菓子は口の中ですぐに、ほろりとほどけて舌をとろかす。
「ほっとしますね」
「ねー?」
明明が美味しい顔をする横では、香寧が心配そうに眉をひそめている。
「雪麗さま、本当に最近、お寂しかったりはしないのでしょうか……?」
「香寧がそう考える理由が、むしろわかりませんけれど」
「…… 華桜宮の李賢妃さまが妊娠されたので……」
「あれは本当に、驚きますよね。あの春霞が……みたいなことをしていたのですから」
「雪麗さま、お気を確かに…… んぐ」
雪麗は笑って、どうやら悲壮な方向で主のメンタルを想像しているらしい香寧の口に、無理やり砂糖菓子を押し込んだ。
「せっかく久々にひといきつけるのですから、難しいことを考えるのはお休みしましょうか?」
雪麗自身が、すでにキャパオーバー気味である。
―― 美雀が見たという、春霞のもとで暁龍のアレからピュッとしていた件とそのときの会話 ( 『私たちの皇子』 云々)、楸淑妃が保証した宦官にアレが生える薬…… 2つの事実を総合すれば、春霞のつわりの犯人は暁龍、という可能性が非常に高くなるのはわかるが。
―― もし、春霞の腹の子が本当に暁龍の胤だとしたら、雪麗の感情的には、非常に割り切れないものが残ってしまう。
なにしろ、これまで8回の回帰のうち3回は不義密通の疑いをかけられ、残りの5回は皇帝の子を手にかけたという罪に問われて、それぞれにヒドい終結を迎えているのだから。
不義密通の疑いと言われても、最も浩仁との仲が深かった最初の人生でさえ、まだ子ができるようなことはしていなかったのに、バッチリとそれをやって子までなした春霞にしてやられた、ということだ。
―― それを考えれば、4回目の人生で存分にしたつもりの復讐だってまだ、生ぬるかったかもしれない。
(モヤモヤしますね……)
雪麗は、砂糖菓子をもうひとつ、口に入れた。口いっぱいに甘みが広がる。かすかな柑橘の香りが鼻に抜け、思わずほう、と息を漏らす。
―― 何度、回帰しても、食べ物をゆっくり味わったこともなかった。美味しい、と思ったこともなかった。
復讐に生きていたときも、春霞にしてやられることなく恋を成就させようと懸命だったときも。処刑されず生き延びようとがむしゃらに頑張っていたときも。
楽しいかどうかで考えれば、人間どうせいつか死ぬと割りきって、したいことをしている今回がいちばんだと、雪麗は思う。
(モヤモヤを晴らすよりは、美味しいもの食べておしゃべりして寝るのがいちばん。復讐で2度も人生潰すことは、ありませんよね)
【なにノンキなこどいっでるだ……!】
明明と香寧の死角で、皇太后の清林宮を除く宮廷全員の写経文を確認していた美雀が、すごい勢いで雪麗のそばまで飛んできた。
【それ、宦官がピュッした子をあのズル女が生んで、皇后になっでも言えるだっぺか……!?】
(言えますよ。どうでもいいですもの)
だって雪麗は、春霞が子を生んだらすぐに死刑になる運命だから。
今回は斬首がいい、と思う。
見た目は酷い刑だが、一瞬で首斬られるなら苦しみも一瞬のはずだ。
【じゃあ、これを聞いでもか?】
(なにをです?)
美雀は、腰に両手をあてて胸をそらし、目をギラギラさせた。
【なんと! あだすの遺書とかいうドヘタなミミズ文字を書いたのは、あの宦官でもズル女でもなかったっぺ!】
(へえ…… そうですか。良かったですね)
【あああ……! どうでも良えどが、思ってるっぺな?】
(そうですが、なにか)
【………… ならば、聞いて驚くが良えっぺ】
雪麗以外の誰からも聞こえないにも関わらず、美雀は声をひそめて雪麗に耳打ちした。
【あのな、犯人は、あのツンケン女だったっぺ…… 字体は違っても、書き癖でわがるもんだ】
美雀が目配せした先には、明明を叱りつけている香寧の姿があった。
「なにかご用ですか、雪麗さま」
「いいえ。なんでもありません」
雪麗の視線に気づいた香寧のようすは、普段と変わりないように見える。
だが美雀のいうことが本当なら ―― 香寧は、美雀が亡くなった頃にはもう、春霞や暁龍たちと通じていた、ということだ。
(いつから…… だったのでしょう?)
最終的に裏切られるとわかっていても、雪麗がこれまで普通に香寧に接してこれたのは、『裏切るのは今ではない』 と思えていたからこそだった。
―― 最初からずっと、裏切られていたのか。
―― それとも、香寧になんらかの事情があったのに、気づかなかった、ということだろうか。
―― だとすれば、己は主として失格だが……。
モヤモヤする雪麗。
悩みとは、いったん出てくるとどうしてこうも、あっという間に大きく膨らんで、心を占めてしまうものなのか。
割りきろう割りきろうとしながら、侍女たちをさがらせて床に入って数刻が過ぎても、なお ――
雪麗は、眠れなかった。
「ああもう! いい加減になさい、わたし!」
ガバリと起き上がる雪麗に、美雀はこともなげに言った。
【そういう時は、直接きいてみるのが、いちばんだっぺ】