1-2. 9度目の正直②
「なりません、皇貴妃さま。選妃試験ももうすぐですのに、身分をお考えください。司膳の食堂は奴婢たちの出入りする場所ですよ」
顔色を変えて雪麗をいさめるのは、香寧。
苳家の系列で、没落してしまったがなかなかの名家の出だ。そのせいか、前回の回帰までの雪麗と同じく、法や戒律をきっちり守る厳しい性格である。
そんな香寧にとって、雪麗の言い出したことは到底、理解しづらかったに違いない。
(ぷぷぷぷ、この顔…… 晴天の霹靂、といったところでしょうか?)
ひそかに前回8回分までの回帰の溜飲を下げる雪麗。
―― 7回目の回帰では、難癖をつけて香寧を無理やり仙泉宮から追い出して恨まれたがために、最悪にキツい蟲刑終結だったことさえあるのだ。
それを考えれば、この程度の意趣返しはかわいいものだろう。
そんな雪麗の心情はいざしらず、香寧は真剣な表情でひざまずき 「お考え直しください」 と訴えた。
「妃と侍女が食席を同じくすべからざる旨は、後宮典範にも定められております。奴婢であればなおさらです」
「それは公の席の話でしょう?」
「ですが……」
「これまでは、わたしもそう思っていましたが、考えなおせば、この宮の主はわたしなのですよね。つまり」
雪麗は子どものような無邪気さで、胸を張った。
「仙泉宮の法律は、わたしです!」
香寧はあっけにとられた顔をし、ふたりのやりとりを黙って聞いていた明明は、ぷっと吹き出した。
「では、女官服をお持ちしますね」
「明明!」
「だって香寧ねえさん、雪麗さまのおっしゃることに従わないわけには、いかないでしょ。
雪麗さま、私もご一緒していいでしょうか?」
「ええ、もちろんですよ。わたしひとりでは、迷ってしまいますもの」
「はい。では、すぐにご用意いたします。少々お待ちくださいませ、雪麗さま」
クスクスと笑って明明が退出したあと、香寧は重いためいきをついた。
「雪麗さま…… 最近、お身体のお具合がよろしくない、あるいは、気鬱がひどいといったことは、ありますでしょうか?」
「いいえ、全く? ご心配ありがとうね、香寧。でも大丈夫ですよ」
「少しは後宮にもご配慮いただくよう、暁龍にそれとなく申しましょうか」
雪麗は顔をしかめた。
香寧が指しているのは、雪麗が後宮に入って以来5年間、1度も、夫たる皇帝の寝所に召されたことはない、という事実。
雪麗は地位的には妃の最高位である皇貴妃であるが、それは名ばかりなのである。
もっとも、雪麗だけではない。
淑妃の楸玉鈴、徳妃の蕣紅蓮、賢妃の李春霞 ―― 四名家から皇帝への恭順の印として送られる妃の誰ひとりとして、未だに皇帝と褥を共にした者はいなかった。
現皇帝、鳳光が後宮に関心を持たないのは、その母が身分の低い女官だったせいだと言われている。血統コンプレックスなのだ。
彼はクーデターにより、父とふたりの兄を廃して帝位を手に入れた。
しかし帝国を実際に支えている四名家を廃することは到底できず、四名家も一応、新たな皇帝を認めはしたが、その目は厳しいものだった。
少しでも皇帝に間違いがあればすぐにでも廃して、彼の異母弟である血筋正しい皇太弟 ―― 現皇太后の末子を帝に立てようと狙っているのである。
すなわち、四名家から後宮に送られてくる妃は皇帝にとって、妻である前に監視役であり、忙しい政務の後に寝所に召したい相手ではありえない。
―― というのが、表向きの理由。
後宮内で公然と噂されている理由は、皇帝はひとりの恋人に夢中、というものである。
その恋人が、乾暁龍。宦官である。
鳳光が皇子のときから側近くに仕え、クーデターを起こしたときには後宮の宦官たちをまとめて指揮し、内部から支援をした。
能力・忠誠心ともに優れた彼の、皇帝の信頼は絶大なるもので、常に傍らにおいて片時も離さない。
しかし、皇帝の心を掴んで離さないのは能力というよりもむしろその、天女もかくやといわんばかりの異国的な美貌のほうであろう、と言われていた。
長く艶やかな銀の髪、紫水晶の瞳は陶器のようになめらかな白い肌によく映え、声も物腰も堂々としていながら柔らかい。
誰が言い出したのか 『褥での能力も異国仕込みだそうですのよ』 との噂が広まるにつれ、その真偽のほどはさておき、皇帝の寵愛は一宦官が独占している、ということに落ち着いたのであった。
―― 噂はいつしか閣僚の間ばかりか世間でも囁かれるようになり、今や辺境の村人までが、空閨を守る妃たちの憂鬱を心配半分、面白半分に取り沙汰している有り様だという。
だが。
実情は、さほど惨めでもなかった。
妃たちは皆、箱入りで育てられて恋のひとつも知らぬまま、政略で皇家に嫁いできたような娘たちである。
もちろん閨房での振る舞いについては、座学での講習も受けてはいるが…… 別に実践してみたいとは思っていない。
つまりは陛下からのお召しがない限り後宮はおおむね平和であり、妃たちは三食昼寝つきでそれぞれの趣味に勤しんでいたのである ――
こういう事情なので、香寧のような心配は妃の侍女としてはまっとうではあるが、妃本人としてはいい迷惑だった。
(ちょっと考えてみれば、わかるでしょうに……)
好きでもない男のアレをソレしたりアレにソレされたり、誰がしたいだろうか。しかも噂が事実であるなら、陛下のアレは宦官のアレにソレしたものなのに。おえっ。
しかし雪麗は笑顔を作り、香寧をたしなめた。
「陛下もお忙しいのでしょう。無理を申し上げては、婦徳に反しますよ」
「ですが」
香寧がなおも不満げに言いつのろうとしたとき、女官服を持った明明がパタパタと足取り軽く戻ってきた。
「雪麗さま! 早速着替えましょう」
「そうね。楽しみです」
明明につられるように、雪麗の声もはずんだ。