7-1. 香消ゆる迄に
【そうそう。ゆっぐり書ぐと、良えだ】
「 ………… 」
【雪麗さんは、自分の書がつまらねえって言っでだけんど、悪がねえだよ】
「 ………… 」
おしゃべりな幽霊に背後から覗きこまれながら、雪麗は少しだけ眉をひそめた。邪魔なのだ。
皇太弟からリクエストされた匂い袋を作るため、仙泉宮はにわかに忙しくなっていた ――
雪麗が今なしている書も、匂い袋のためのものだ。お守り代わりに、巾着に折り畳んで入れる予定の詩篇である。一文字の油断もならないのだ。
なのに、美雀はかまわず話しかけてくる。書のこととなると、なにか言わずにはおれない性分なのだろう。
【とってもきれいに澄んでる、雪麗さんらしい書だっぺ】
「集中できないので、すみませんが少し黙っててくださいな?」
ようように筆を休め、雪麗は美雀を振り返った。
「そもそも、わたしが澄んでいましたのは、7歳の頃までと思いますよ?」
【にしししし…… 悪女ぶっても無駄だっぺ。人間、底のほうの性格っつうもんは、なかなか…… ひゃっ】
偉ぶって講釈を垂れようとした美雀の悲鳴は、香寧に通り抜けられたせいだ。
この優秀な侍女は、幽霊の存在に全く気づくことなく、しずしずと盆を雪麗に差し出した。
「雪麗さま。巾着2つ、仕上がりました」
雪麗の手持ちの中で最も華やかな裳の裾を裁って作ったものである。
古着といえばそうだが、後宮に入った日に数時間身につけただけの、いわば婚礼衣裳のようなものなのでまあ良しとしよう。
貴重な衣裳を裁つことに香寧は最初は反対した。だが、雪麗が頑として譲らないのを見ると、 「袖でなくて、裾のほうにしましょうね!」 とハサミを取り上げてしまったのである。
そこからは香寧の独壇場といってもよかった。
もともと引きずるほどあった裾から、刺繍を邪魔することなく2枚の布を切り取った。
そして、ほかの女官に手伝わせることもなく、全てひとりで縫い上げてしまったのである。
「粗忽な者に手を出されても面倒なだけですから」
キツい物言いをするだけあって、出来上がった巾着は完璧だった。かなり急いだだろうに、縫い目は細かく揃っていて真っ直ぐだ。
「ありがとう、香寧。早いですね。さすがです」
「良家の子女としては、当然の修養です」
香寧は今は没落しているが、かつては、李・蕣・楸・苳の四華に準ずるほどの名家の血筋で、それが誇りの拠り所なのだ。そのぶん、身分の低いものを見下すところがあるのが玉に傷だが、ほかは優秀な完璧主義者だった。
「いえ、良家とはいえ、香寧ほどできる人は、そういませんよ」
「そんなことは……」
話していると、パタパタと軽やかな足音が聞こえてきて、香寧の平静な表情が、ほんの少し歪んだ。もうひとりの侍女、明明だ。
「雪麗さま! 司薬から戻って参りました」
「ありがとう、明明」
「苳貴妃さまはお風邪でも召したのかと聞かれましたよ?」
「ふふふ。両方とも、風邪や頭痛の薬ですものね」
足の早い明明には、後宮のはずれにある司薬部まで香料になる薬を貰いに行ってもらっていたのだ。
「ですが、雪麗さま」
香寧が首をかしげた。
「いくらすぐに調達できないとはいえ、薬用の葉や草では、香りが長持ちませんが? 沈丁などを加えては、いかがでしょうか」
「そうね…… ですがこのたびは、これで良いのですよ」
雪麗はふたりの侍女に、先ほどなしたばかりの書をしめした。
『 如君問帰期
當答迄香消
當再共翦燭
話仙泉雨宵 』
―― 如しいつ帰ろうかと君に問われたら
この香が消えるまでには帰ってきて、と答えましょう。
そのときにはまた一緒に燭台に灯をともし
仙泉宮の雨の宵のことをお話しましょう ――
「古の名詩の、地名だけを差し替えられたのですね」
「そうですよ、香寧。これを畳んで匂い袋に入れておけば、ほら」
「一緒に入れる中身は香草だけのほうが良くなりますね!」
「そのとおりです、明明」
つまり、匂い袋に香りの長持ちしないものだけを入れるのは 『早く帰ってきてね』 という意味となるのだ。
「でもそれって、誤解されちゃいません?」
今度は明明が首をかしげた。
「ほら、浩仁殿下ってどう見ても、雪麗さまがお気に入りじゃないですか?」
「そんなはずがないでしょう? 滅多なことをいうものではありませんよ」
2つの巾着のそれぞれに、綿と折り畳んだ詩篇、香りのもととなる二種類の葉を入れ、上にまた綿を入れて口を閉じれば、匂い袋の完成だ。
「皇太弟殿下に、蕣徳妃にも渡してくださるようお願いしましょう」
「なんですか、やっぱり、雪麗さまだって意識されてるんじゃないですか」
「…… なんの話でしょう?」
「わざわざ2つ同じのを用意されたのってつまり、 『あなたが特別じゃないですよ』 ってガードなんでしょう?」
「これ、明明。下世話ですよ」
「はぁい」
香寧は明明をとがめたが、ガード、というのもあながち嘘ではない。
蕣徳妃へも贈り物をしたいという気持ちが7割なら、残りの3割程度はそっちである。
(ともかくも、ガードしていることは伝わるようですね)
ほっとした雪麗の耳に、美雀の冷やかすような声が飛び込んできた。
【雪麗さんも、やるっぺなぁ。婚礼衣裳の匂い袋に 『早ぐ帰ってきでね』 で、なのに 『特別な意味なんでねえがら!』 かぁ…… 】
(えっ……)
【もらっだほうは、何考えでるのが気になっで、夜も眠れねえがもなあ?】
(それはないでしょう……!)
婚礼衣裳は単に、いちから模様を刺繍する時間がなかったからだ。
『早く帰って』 も、深読みされないように、わざわざ、名詩を転用したのだ。
―― だが、言われてみれば、まだまだ詰めが甘かったのかもしれない。
そう気づいてしまった雪麗だが、時すでに遅し。もう、黄昏の鐘が聞こえてきてからかなり経つ。夜半も近いだろう。
明日は浩仁皇太弟の出陣を祝う儀式で1日つぶれることを考えれば、贈り物を作りなおす余裕はなかった。
このまま、素知らぬ顔で乗り切るしかない。
「さ、香寧も明明も、もうお休みなさい。遅くまで」
ありがとう、と言いかけたとき。
「失礼します。皇太弟殿下がご挨拶にこられていますが…… 」
あわてた様子で部屋に入ってきた女官の言葉に、雪麗は息をのんだ。
夜半近くの浩仁の来訪 ―― まさか、あのイベントこんなに早く来てしまうとは。