6-5. その意味
―― 皇太后にとって現皇帝・鳳光は、実の子の浩仁とは全く違うはず、というのが、周囲の見解だった。
光は皇太后にとって、夫が浮気の末に作った子であるに、すぎないのだ。もっとも皇帝に、『浮気』 などという一般庶民的な概念をあてはめることはできないが…… 女性の心情としては、同じようなものであろう。
しかも光は、恩を仇で返すかのごとくにクーデターを起こし、皇太后のふたりの息子と夫を殺した張本人でもある。
にも関わらず皇太后が皇帝側についたのは、現皇帝がそれを条件に浩仁を跡継ぎの皇太弟と認め、皇太后と浩仁の命と身分を保証したからだった。
『父親・兄弟殺しの皇帝』 との悪評が立つのを恐れたがための、政治的取引であったと、一般には取り沙汰されている。
しかし、クーデター当時は幼かった浩仁も、とうの昔に成人の儀を終えた今となっては ―― 皇太后がいつ、現皇帝を廃する方向で動いてもおかしくはない。
つまり皇太后は、現皇帝と表向き穏やかな関係を結んではいるが、今やいつ皇帝の地位を脅かすかわからぬ、獅子身中の虫なのである。 ――
浩仁と雪麗は顔を見合せ、ほとんど同時にこう言っていた。
「「いいえ、遠慮させていただきます」」
【仲が良っぺなあ……!】
そういうことでは、ない。
※※※※
「なぁ、九狼よ」
「なんでしょう浩仁さま」
「ある女性にだ、使い古しの匂い袋をねだったら、新品をやると言われた―― その心は?」
皇太后への挨拶を済ませ、清林宮より外廷の軍機処へと向かう道 ――
浩仁は、少々以上に気落ちしていた。
欲しかったのは勝利云々の香りではなく、雪麗が普段、身に纏っているほうである。
戦場でもその香りがあれば、心安らげるだろうと…… そうすれば、ほかのなによりも勝てる気になれると考えたのだ。
なるべく負担をかけぬよう、そして気味悪がられぬよう、さりげなく頼んだつもりだったのだが……
どうやら、とりつく島もなくガードされてしまったようだった。
「私は…… 嫌われているのだろうか?」
「嫌いじゃないけど寝たくない、って感じですね、それ」
「どうしてそうなるんだ……」
いきなり九狼の口から出たあからさまな言葉に、ぎょっとする浩仁。
まさかご存知ないんですか、と哀れむような視線を主に向けつつ、九狼が説明しようとした矢先 ――
「女性が男性に普段身につけている匂い袋を贈る意味ですか? 失礼、よく聞こえていましたので」
やや高めだが朗々と耳に心地よい声が、背後から追いかけてきた。皇帝づきの宦官、暁龍だ。
「これは、総監。皇帝はご一緒ではないのか?」
「ええ。菊芳宮への使いの帰りですから」
「…… また楸淑妃の仙薬か」
「まあ、そのようなものです」
浩仁は苦々しい顔をした。
「神仙術を否定するわけではないが、ハマるのも大概にしてくださらないとな」
「効果がないわけではないのですよ?」
薄い笑みが、暁龍の頬に浮かんだ。見ようによってはバカにしていると思われかねないような表情だ。だがそれも、この宦官の秀麗な面貌の上では天女のごとき何かに変わる。
「ところで、匂い袋の意味についてですが……」
「なんだ」
「女性が普段身につけているものを男性に贈るのは、いわば、連理の枝にとまる比翼の鳥を刺繍した下着を贈るようなものでして」
「ぶっちゃけ、『あなたとしたいわ』 って意思表示と解釈されますよね、普通は」
暁龍の説明途中から、浩仁は両手で顔を覆ってしまっていたのだが ―― 九狼のダメ押しで、みるみるうちに、耳まで真っ赤に染まっていく。
「あれ、知らなかったんすか? 風流公子ともあろうお方が?」
「…… 私の風流は、友人たちと飲み語らうほうで、手いっぱいなんだ……!」
「とりあえず、謝ったほうがいいと思いますぜ、貴妃さまに」
「それはわかっている……! けど、そのようなつもりで言ったのではなくて……!」
「けどそれ、絶対に誤解されて悩ませてますって」
「彼女が私のことで心悩ますというのか…… 」
―― なにそれ超美味しい。なんか嬉しい。もっと悩んでほしいし、なんならそれで頭いっぱいになって、ほかのこと全て忘れてくれたりしないだろうか。
「…… まあ、ともかく。教えてくれてありがとう、総監」
「暁龍さまなら、もういませんぜ」
一瞬、胸中をよぎった病んだ思考を咳払いで浩仁が追い払ったときには、美貌の宦官は、すでに姿を消していた。