6-3. 出陣命令
「もう、発たれたのですか……!?」
「ええ、そのとおりですよ、雪麗さん。
皇子であれば、壮行の宴などもありましょうが、妃が軍を率いるというのは一般的ではありませんからね」
「…… お言葉ですが、だからこそ、公に称賛すべきでしたのでは」
「そう言いましたが、固辞されましたよ。そのような暇と金と労力があるなら、兵士と軍備とに回してほしいと」
「まあ、そのような。蕣徳妃らしいですけれど……」
「ええ、本当に…… そのぶん、凱旋の際に、盛大な宴を開きましょう」
「かしこまりました、皇太后さま」
清林宮は桑寿堂 ――
蚕室と呼ばれる外廷の建物が実は男性を去勢し宦官となすための施設であるのに対し、こちらは正当な蚕の飼育室である。
もりもりと桑の葉を食べる蚕の様子を目を細めて眺めながら皇太后が出した話題は、雪麗の予想どおりのものだった。
まずは選妃の結果。
妃の順位は変わらず、貴妃が雪麗、淑妃は楸玉鈴、徳妃が蕣紅蓮で賢妃は李春霞となった。各宮に知らせはすでに行っており、春霞は不満を隠しもせず、使者を怒鳴りつけたそうだ。
だが、春霞については、試験の後に浩仁皇太弟が 「妃に不相応」 と、位を下げるように皇太后に提言したとの噂も立っている。
妃位に留めただけでも、皇太后としては温情だろう。
さて本題は、次である。
選妃試験の日に土真国の侵攻を知らされた蕣徳妃は、即座に出陣の準備を進めていた。そして皇帝からの内示に、待ってましたとばかりに城を出発したのだ。
それがなんと、内示が出た翌未明のことである。見送ったのは夜番の近衛兵のみであったというから、初めて聞いたときには、雪麗も驚き呆れた。
―― だが蕣徳妃の性格を考えると致し方ないことかもしれない。春霞が気まぐれでワガママな春の嵐なら、蕣徳妃は、苛烈な雷光のようなものだ。
ふたりとも、どうやったって我を通さずにはおれぬのである。両者の違いはといえば、ひたすらハタ迷惑か筋を通すか、だけのことだろう。もちろん好ましいのは、筋を通すほうであるわけだが。
「それでね、こちらは早めに行いたいのですが」
皇太后が蚕から顔を上げ、雪麗を振り返った。柔らかな笑みの中で、目だけが鋭く光っている。テストだ。
「後宮の者みなで、戦勝と蕣徳妃の無事帰還を祈って、なにかしませんか?」
「大変に素晴らしいお心遣いであらせ…… 「そういうのはいいから」
と止められるのも、これまでの回帰恒例ではあるが、だからといってほめないわけにはいかない。
「なにか良き案などありますか、雪麗さん」
通常こうした戦勝祈願は、僧侶を呼んでの祈祷会が黄鳳国では一般的である。だが、この場でそれを提案しては、皇太后の不興を買う。
神仙術へのほのかな興味を別として、基本的に皇太后はリアリストであり、祈祷などという曖昧なものに大金をかける気はないのである。
「蕣徳妃の凱旋の際に、後宮の者たちみなで刺繍をした上衣をお贈りしては」
「それは良いですね」
皇太后はおっとりとうなずいた。合格だ。
「では早速、手配しましょう。模様は、蕣家の象徴である無窮花と火炎鳥ではどうですか?」
「戦勝祈願としてもふさわしく、素晴らしいと存じます。さすがは皇 「そういうのはいいから」
皇太后が機嫌よくクスクス笑い、雪麗がほっと肩の力をぬいたそのとき。
ぞわり。
首筋に、冷たい手が触った。
【ごめんだっぺ! ちょっとだけ身体、貸しで!】
(ちょ、なんなのですか!?)
あっという間に雪麗は、取りついている幽霊と主客逆転してしまった。
「あ、あの皇太后さん、ま…… あの、それがら!」
「まだあるのですか、雪麗さん?」
急に口調が変わった雪麗に、皇太后が怪訝そうな顔をした。
「後宮だけじゃなぐ、宮廷の主だった者みんなで、写経も良えんでねえっぺ…… でしょうか! 大経をみんなで書いで奉納すっど、お金さかけずに霊験あらたか、ってもんだべ…… です!」
大経とは、正式名を 『大説荘厳無量寿大清浄大極楽経』 という。
タイトルの寿限無っぷりと 『大』 の重ねっぷりからもわかるように、黄鳳国で最も長い経典であり、その文字数は実に20万字。
内容は 『天国超絶いいとこ1度はおいで』 といったことが延々と連なる大したことないものであるが、そのあまりの長さに写経奉納すること自体が、効力のある願掛けとされている。
宮廷で行うときは、上は皇帝から下は宦官まで、文字の書ける者全員で数句ずつをなすのが慣例だ。
「なるほど…… それも良き案ですね。では、清林宮で刺繍を持ちますので、雪麗さんのほうは大経奉納の采配をお願いしますよ」
「まかせてくださいっぺ! …… です!」
「頼もしいこと…… ところで雪麗さん、その口調は」
(やっぱり、言われますよね……)
雪麗が内心で頭を抱えた、そのとき。
「李辛地方の言葉ですね。失礼します」
涼やかな低い声が、入口から聞こえた。浩仁である。
「お入りなさい」 と皇太后にうながされ、そばまでやってくると、面白そうに雪麗を見つめた。
「勉強しているんですか? こうして聴いてみると、なかなか可愛らしいものですね」
「は、はあ……」
美雀の慌てたような気配が伝わってきたかと思うと、あっという間に再び立場が逆転した。雪麗に身体が戻ってきたのだ。
【良え男を間近で見だら、泰山府へ行っでしまいそうになるっぺ!】
(勝手に逝ってくださいな)
【ごめんなさい! 悪がっだ! 写経で後宮全員の字を集めれば、あだすの遺書つくった犯人がわがるがど……】
(復讐はダメと言ったでしょう? 勝手なことをするなら、ヘタな書を美雀の手蹟だと……)
【ぎゃあああ! それだげはやめでえ! 】
とにかく話題を変えなければ、と、焦った雪麗。
「皇太弟殿下。先日はけっこうな書をありがとうございます」
取りあえず、ニッコリしてみせた。
―― 3度も憑依されたせいだろうか。いつの間にか声に出してしゃべらずとも美雀と意志疎通ができるようになっている、というなかなかスペシャルな出来事が起こっているのだが、焦りすぎてそこには気づいていない。
雪麗がそれに気づくのは、清林宮を退出したあとになる ――
「頂戴した書は、いちばん良い場所に大切に飾らせていただきますね」
「…………」
驚いたようなガッカリしたような複雑な表情をすぐに消し、浩仁は、良かったです、と微笑んだ。
「気に入ってもらえるか、心配だったんですよ…… なにしろ、あの名蹟をなしたかたへのものだから」
【書には好悪はあっでも、優劣はないもんだ。あだすはあの書、気に入ったっぺ。ついでに回りくどいこどせずに、さっさと雪麗さんに打ち明げるどいいっぺ!】
雪麗以外に聞こえていないのを良いことに美雀、言いたい放題である。
だがなるほど良い言いかただ、と雪麗は内心ひそかにうなずいた。
「書には好悪はあっても、優劣はないとも申します」
「それは好き、ということですか」
浩仁の顔がぱっと明るくなる。雪麗は視線をそらし、ええまぁ、と口の中で答えた。
「それより、皇太后さまにご用がおありなのでしょう? わたしはこれにて、失礼いたしますね」
「ああ、皇貴妃さまもそのままで、けっこうです。すぐにわかることなんで」
「…… まさか」
「あなたは近衛隊長でしょう!? 征くいわれがありません」
雪麗が息をのみ、皇太后が声をやや荒げる。浩仁は軽く肩をすくめ 「さすが。おふたりとも察しがいいですね」 と冗談めかした。
「蕣于への出陣命令が下りました。大げさな見送りなどは不要ですので、明後日、未明には発ちます」
聞く者の心を気遣ってだろうか。それはまるで、その辺りに散歩にでも行くような口振りであった。