6-2. 褒美の書
【これは見事だなぁ!】
仙泉宮の黒屋根の下に、常人には聞こえぬ幽霊の声が響く。
【やっぱ、小ごい嫌がらせよりも、御褒美をとって良がったっぺ!】
「けど、狂草ではありませんよ?」
雪麗は首をかしげた。
雪麗と美雀がのぞきこんでいるのは、先の選妃試験で1位であった褒美 ―― 浩仁皇太弟の書だ。
以前の回帰では雪麗は、苳家の者らしく無欲を演じ、選妃試験の褒美を固辞していた。その結果、与えられたいくばくかの臨時俸給を貧しい者たちへの施しとし、さらに評価を上げていたのだ。
だが今回は、美雀の願いを叶えてやるため、褒美に浩仁皇太弟の書を願い出た ―― 当然、彼の得意とする狂草の書が届けられるものと思っていたのだが。
「楷書ですし、号の無尽公ではなく、浩仁さまの署名ですし…… 美雀には、少し残念でしたね」
【いんや、こっちのほうが良え!】
美雀は、首をぶんぶんと振った。
―― 無尽公、すなわち浩仁の狂草なら、書堂などに飾ってあるものを掃除の際に目にしたことはある。だが美雀には、実はさほど好ましいとは思えなかった。
確かに上手いが、天衣無縫を装うことを目的とした有意の書、という印象でもあった。
まあ狂草というのは、その裏に隠された心情こそを深みとして味わうものであるから、それでいいのかもしれないが……
どうにも、大人の意にそって子どもらしい無邪気さを演じようとしている子どもに対するような、嫌らしさと憐れみとを感じてしまうのだ。
―― ただ、その演技が途方もなく巧みである。御褒美にもらえるなら欲しい、と思える程度には。
つまり、好きではないが、価値がある書なのだ。
―― だが、楷書はその比ではなかった。
無理なく伸びやかでありながら見る者を包み込むような穏やかさと柔らかさを備え、だが内面に一本筋が通っているかのように端正だ。
【あの無尽公の楷書が、こげに実のこもっだ、良え書だなんてなぁ。貴妃さまも隅に置げねぇっぺ。このこの】
美雀がからかうように雪麗をつついた。雪麗が顔をしかめる。
「古の有名な詩ですよ。特別な意味があるわけではありません」
五言絶句、わずか20文字の詩だ。
『 想君属冬夜
散歩詠星天
野空唯雪明
佳人応未眠 』
―― 冬の夜に君を想い、星空を詩に詠じつつ散歩すれば、野には物陰ひとつなくただ雪のみがほのかに明るい。美しき人よ、君も今、眠らず雪を眺めているのだろうか ――
といったほどの意味である。
確かに、プライベートでもらったときには、雪麗も心が騒いだ。回帰経験前の1回目の人生でのことだ。
―― あのときは、こっそり届けられたのだった。
選妃の褒美を断った雪麗に 「すでに用意していたものだから」 という理由で。
単なる褒美として受け取れたなら、良かったのだろう。だが、とてもできなかった。
書に込められた真意が知りたくて、ふたりきりで逢ってしまった。そこからは、ずるずると引きずられるように恋にはまっていった。額の呪符は警告を発し続けていたが、それすらも気にならなかった。
春霞に騒ぎ立てられてことが公になるまで、雪麗は愚かにも、その恋がいかに危険なものであるかを認識していなかったのだ。それほどに夢中だったともいえよう。
―― もっとも、認識していても、結果は同じだったのだが。
1度目と同じ過ちを繰り返すまいとした2度目、3度目の人生のいずれも、雪麗と浩仁は春霞の罠にかかり、同じように不義の罪に問われて処刑されてしまうのだ。
そのときに不義密通の証拠とされたのが、この書であった。
『有名な詩を書いただけ』 との言い訳は、春霞の根回しのために全く通らず、この書は雪麗ばかりか浩仁皇太弟の人生をも閉ざす役割を果たしてしまうのである。
4度目の人生からは、雪麗は方針を変えた。浩仁からの書は、1日だけ手元に置いて翌朝には燃やす。
証拠を残さないために、仕方のないことだった。
現物が失われても、忘れようがないほどに一字一句の形から墨の濃淡にいたるまで脳裏に刻み込まれている ―― だから燃やしてもかまわない、と、どの人生でも雪麗は、己に言い聞かせてきた。
雪麗は改めて、浩仁からの詩篇を眺めた。
(変わらない手蹟ですこと)
見てしまえば、心が波立つ。懐かしく愛しく、そして痛い。
しかし胸の底がどのようにざわめこうと、払う代償の大きさを知ってしまっている以上、雪麗がこれから取る行動は決まっていた。
燃やすのだ。
(…… いえ。今回は燃やすのもまた、まずいでしょうね)
詩篇の内容も文字も、回帰で得た記憶と寸分変わらない。
だが、前回の回帰までと同じ書ではあっても、9度目の今回は、公式な褒美として届けられたものなのだ。
手元に大切に保管しておかなければ、せっかくの皇太弟からの褒美を蔑ろにした、と揚げ足をとられかねない。
保管していたら保管していたで、また以前の回帰と同じように、浩仁までをも処刑に巻き込んでしまうかもしれないが……
雪麗は小さくタメイキをついた。
―― 褒美を願い出たとき、なぜ同じものが届くと思わなかったのか。
―― そもそも、美雀の願いを叶えることばかりを考えていて、その可能性を考慮していなかったこと自体、どうかと思う。あまりにも浮かれすぎでなかったか ……
ついあれこれ考えてしまう雪麗であるが、もちろん後悔しても、もう遅い。
「…… 困りましたね」
【だっぺ? 皇太子さんは絶対に、雪麗さんのこど好ぎだねえ。このこの】
「…… ないですって。ですが、このような題材だと、周囲にも美雀さんと同じように思われかねませんから…… どうしようかしら」
【堂々と飾ればいいっぺ】
「…… え」
【隠すど変に勘繰られで、痛くもねえ腹を探られるこどになるんだっぺ。一番目立つどごに飾ってしまえ】
「なるほど…… それもそうですね」
確かに、単なる褒美で特別な意味などないと主張するにはそれがいいだろう。
【どうした? なに迷ってんだ?】
「いえ…… なんでも」
一瞬、誰の目にも触れさせたくない、と思ったことは伏せて、雪麗は香寧を呼んだ。
「これを飾っておいて。貴重な無尽公の楷書ですよ」
「選妃の御褒美ですね。かしこまりました…… それより雪麗さま、そろそろ、清林宮へ参るお時間です。明明がすでに支度をしてお待ちしております」
「わかっています」
雪麗は立ち上がった。
ほぼ毎日の皇太后へのご機嫌伺いも、皇貴妃の仕事である。皇太后が後宮の実権者であるとすれば、皇貴妃は中間管理職のようなものだ。
しかも、もし妃の中から誰かが世継ぎを生んで皇后に立てば、自動的にその下につかざるを得ない立場 ―― 不正をせず真面目に職務をこなす限り、苦労ばかり多く実入りは少ないのである。
(春霞のように一足飛びに皇后位を狙うのは、ある意味、確かに賢いのでしょうね)
思わず苦笑が漏れてしまうが、その辺に関しては仕方ないこと、と、今の雪麗は割りきっている。
好きでもない男に座学で学んだ閨房術を試すとか、その子どもを腹に宿すなど、気色悪くてできそうにない。
である以上、そういった苦役はやりたい者に任せるしかないのだ。
後宮に全く興味のない陛下を、引っ張り込んで奉仕して腹ふくらませて産みの痛みを味わう ―― よく考えれば、ずいぶんとご苦労様、である。
(そういえばこれまでの回帰、春霞はどうやって陛下を引き込んだのかしら)
ちらり、と気になった雪麗。
だがそれは、彼女にとってさほど重要でない疑問であり、明明が催促しにきた頃には、すっかり次の予定で頭がいっぱいになっていた。
―― 選妃試験が終了した直後に、皇太后から出てくる話題といえば、これまでの経験上は、1つしかない。
蕣徳妃の出征について、である ――