6-1. 膝 枕
桂花が夜の帳の下で鮮やかに匂い立つ ――
あまりに甘すぎる芳香は、どこか人を落ち着かなくさせるものだが、この数日、皇帝の寝所のある瑞黄殿の灯がいつまでも消えないのは、もちろん、花のせいではないだろう。
「暁龍よ」
宦官の膝に頭を載せたまま、皇帝はごろりと寝返りをうち仰向けになった。
もう一時ほどもこうして膝枕をしているのだが、皇帝が眠りにつく気配はいっこうにない。
「禁軍はいつ出陣できる」
「急いでも5日後でございます。ただし楸家の術師団が、すでに援軍に出ており、3日後には到着予定です」
「蕣軍はもつだろうか」
「もたないはずが、ございません。蕣家の精鋭ぞろいですから」
「そうだな」
この会話をするのは、皇帝が寝所に入ってからもう、3度目だった。
10年前にクーデターを起して父であった先帝とふたりの兄を廃した当時の覇気は、彼にはもう見られない。
―― もし土真国の侵攻が10年前だったならば、皇帝は怒り狂い自ら禁軍を率いて城を飛び出そうとしたことだろう。軍がもたもたと準備に手間取ることなど、決して許さなかったはずだ。
だが、悪徳非道の皇帝と後世に残るのを恐れ 『名君』 の評に縛られるあまり、そしておそらくは日夜飲んでいる仙薬の効果もあり、彼は戦いを忘れてしまった。
やれ節約が大切だの皇帝の威厳がどうのといった、つまらない周囲の意見に流されるばかりで、正常な判断ができなくなっているのである。
今や、実際に政治を動かしているのは皇帝と公私ともに関わりが深い宦官であり、その中でもトップに立つのが暁龍 ―― もともと、今は亡き北の小国、白黎の王子だった者である。
先帝が17年前にかの国を滅ぼしたとき、逆らう者も従う者も、王族が全て弑虐されるなか、若干10歳のこの王子は自ら宝を断って恭順を誓ったのだ。
ずば抜けて美しい容姿であったこと、まだ年端のいかぬ少年であったことから先帝はこれを許した。そればかりか、彼が要らぬ侮辱を受けぬようにと配慮までした。同じ年齢だった第三皇子、つまり現帝・鳳光の侍従とし、机を並べて学問を受けさせたのだ。
利発であり、忠誠心にも厚かった彼はすぐに皇帝・皇后はじめ宮中の信頼を得た。しかし、他からどのようにスカウトされても第三皇子の侍従をやめることなく、やがて第三皇子がクーデターを起こした際には、宮中の宦官をまとめあげて彼を内から支えたのである。
もとから暁龍のことを 『我が唯一の兄弟』 と呼んではばからなかった現帝は、これを機に、暁龍への信頼をますます強めたのだった ――
「ご主人様、安心してお休みください」
天女もかくやと評される美貌の、薄い唇が形よく笑みを刻んだ。
「果報は寝て待て、と申します。天子たるものの仕事は、天下の英才を従わせ、彼らの成果を待つことかと存じます」
「わかっておる…… だが」
皇帝はまた寝返りをうち、今度は暁龍の膝にうつぶせになった。
大きく息をし、匂いをかぐ。宦官は 『臭い』 と揶揄されることが多いが、皇帝の側近くに仕える彼にそれは当たらない。
するのは匂い袋の伽羅香と、少年の頃から知っている男とも女ともつかぬ不思議な体臭だけだ。
「信頼できるのは、そなただけだ」
「もったいないお言葉でございます」
皇帝の背を暁龍はゆっくりと撫でた。緊張が、少しずつほぐれていく。
―― ここまでの信頼を得るために、どれほどの時間をかけたことだろう。
「お急ぎになるのでしたら、蕣徳妃に1団を率いさせ、明後日にでも発たせればよろしいでしょう」
「父親の蕣亮君が、もう発っておるはずだが……」
「あの大叔は、あてになりませぬ。最近は茘枝の栽培に凝って、屋敷にこもりきりでしたから」
「だが、妃に軍を任せるとは前代未聞だ」
「徳妃は喜び勇んで故郷を救いに行くでしょう。鍛練を欠かさないぶん、兵士たちの信頼も厚く、適任です」
「そうか…… 」
ごろりと再び仰向けになった皇帝のまぶたは、ようよう閉ざされかかっていた。
「そこまで言うなら…… そなたに任せよう…… 暁龍…… 」
「―― お休みなさいませ、ご主人様」
寝息が安定するのを待ち、暁龍はそっと皇帝の頭に枕をあてがうと、立ち上がった。
「…… ご存知であれば、良うございましたのに」
口の中で小さくつぶやき、暁龍は皇帝の寝所をあとにした。
彼が次に向かうのは、もうひとり、少し優しくしただけで彼を信じきるような愚かな女のもと。彼女には、蕣徳妃の出陣の知らせが、良い手土産になるだろう。
「桂花か……」
後宮を覆う闇と静寂をいっそう濃く彩るその香はまことに甘くかぐわしいが、彼の故郷にはない樹木であった。