4-1. 嫌がらせ
仙泉宮の前で雪麗を待っていたのは、薄桃色の長衣に華桜宮の青紫色の帯、気分が悪くなるほど濃い麝香の匂い ―― 李賢妃、春霞だ。
(まずいですね)
雪麗は少し焦った。
まだ、女官服のままだ ―― 春霞にバレれば 『皇貴妃が女官の姿で歩き回っている』 と後宮中に噂が立ってしまう。
噂になるのはかまわないが、自由に動きにくくなるのは困る。
「これは李賢妃さま。このような時刻に、どうされたのでしょう?」
明明がとっさに、雪麗を隠す位置に身体をずらした。その間に雪麗は、素早く拱手して頭を垂れる。
辺りはすでに夕闇が濃くなっている。顔さえ見られなければ、雪麗とは気付かれないはずだ。
「流行り病とうかがい心配申し上げておりましたが、もう完治されたのでしょうか?」
「そんなの、ずっと前の話じゃない。頭の悪い女官ね」
春霞はつん、とあごをあげ、明明を見下した。
―― たしかに、春霞が流行り病にかかったのは、半年以上前の話である。その日は雪麗の誕生日の祝いだったが、春霞は急病で華桜宮に閉じこもり、「みなさまに疫神がつくから」 などと言い訳して贈り物ひとつよこさなかったのだ。
明明はそれを当てこすっているのだが、どうやら春霞には通じなかったようである。
「失礼いたしました、李賢妃さま。
そういえば、皇貴妃さまのお誕生日の翌日には、猫を抱いてお散歩される、お元気なお姿を拝見しておりましたのに…… うっかりしておりました」
「それより、お姉さまはまだ戻ってこないのかしら? 一緒ではなかったの、あなたたち?」
「私どもは、尚食局に使いに行っておりましただけです。皇貴妃さまをお待ちでしたら、どうぞ、中にお入りくださいませ」
「そうね。そうさせてもらうわ…… 行きましょ」
「…………」
言うなり、案内も待たず、侍女を引き連れて黒い門にずかずかと入っていく。
なにあの態度、と、明明が声には出さず唇だけ動かして吐き捨てたが、雪麗はすでに慣れていた。
―― 選妃試験前に春霞の訪ねてくるのは、回帰のたびの恒例イベントなのだ。
遊び好きで怠け者の春霞は、自身が試験で他の妃たちにまさるわけのないことは、さすがに知っている。だからこそ、5年前の試験では、休憩時間に妃たちの茶に下剤を入れたのだ…… しかし、今回また同じようなことをすれば、今度は後宮から追放されてしまうはずだった。
そこで春霞は、下剤を使うかわりに雪麗に泣きつくのである。書の試験で、本来なら各自で選ばなければならない題材を教えてもらうために。
普段はなにかと雪麗につっかかっておきながら、こういうときだけは図々しい。
それでも、回帰8回目まで、雪麗は毎回、当たり障りのない寿歌を教えていた。他人に頼られれば自身の感情など無視して応じねばならない。それが、額の呪符が伝えてくる苳家の教えだったからだ。
ちなみにその寿歌は内容的には可もなく不可もなく、しかし、出典が知る人ぞ知る古代詩集からのものであるため、教養の深さを誇示できる、といった類いのものである。
それを春霞は、前もって能筆家に書かせ、試験のときにこっそりすり替えるのだ。試験官にはあらかじめ、袖の下をつかませておくので、見咎められることはない。
この用意周到さ ―― その能力をなぜ学問のほうに向けようとしないのかといえば、そこが李家の血筋なのである。
フットワークが軽く弁舌が立ち、商売や交渉役に向いている反面、享楽的で怠惰で狡猾なのだ。春霞は、李家の悪い面を全て受け継いでいるといっていい人間だった。
そうした面はもちろん、もとはといえば李家の姫であった雪麗にも備わっているはず ―― だが、これまで思考や言動を、額の紫水仙によって縛られていたために、雪麗自身にもよくわからなくなっている。
―― 春霞を応接室で待たせておき、雪麗は悠々と女官服から着替えた。
普段の雪麗は苳家の教えに従い、質素倹約を守って地味な服装であることが多い。
だが今回雪麗が選んだのは、華やかな裳である。
誕生日に尚服局より贈られたもので、ふわりと広がる薄絹が重ねられ、裾には花鳥の模様が孔雀糸で細やかに刺繍されている。作るのには1年半かかったそうだ。
同じ刺繍が入った長衣を重ね、帯をしめると、さらにきらびやかな雰囲気となった。
【うわー、すごいっぺ!】
美雀が興奮した声をあげた。
【お姫様だっぺ! こんなに近ぐがらでも、粗が全ぐ見づがらね!】
「うふふふ。見ててごらんなさい。春霞がきっと、発狂寸前の顔をしますから」
このレベルの衣裳となると、下級女官であった美雀はもとより、財力のある李家でもなかなかお目にかかれない。きっと春霞は、存分に悔しがってくれることだろう。
この度の人生、復讐は割に合わないのでしない。が、労力をさほど費やさないちょっとした嫌がらせならば、どんどんとする ―― だってやっぱり、腹は立つし。
これまでの回帰では額の呪符に邪魔されて、服装でマウントをとるようなバカバカしい嫌がらせなどは一切できなかった。苳家の信条は、罪を憎んで人を憎まず。正当な理由があってさえ人を嫌うことが許されていなかったのだから、低レベルな嫌がらせなどもってのほか、だったのだ。
だが額から紫水仙が消えた今は、そうしたことも、思う存分できる ―― つまらないちょっかいではあるだろうが、春霞の反応を想像するとワクワクして、存外に楽しい。
そのうえ美雀の腹いせにもなれば、一石二鳥というものだろう。
「さ、あまりお待たせしてはいけませんね」
「って、もう小半時ですよ、雪麗さま」
明明のツッコミに、雪麗は含み笑いで応じたのだった。
※※※※
「ちょっと、どれだけ待たせる気なのかしら?」
「申し訳ございません。もうしばらく、お待ちくださいませ」
応接では、春霞がイライラと、香寧に八つ当たりをしていた。
「皇貴妃さまってずいぶんお偉いのねえ。客を放ってふらふら出歩いておられるなんて」
「おそれいりますが、先触れをいただいておりましたら、このようなことにならなかったかと存じます」
「なによ。あなたはどっちの味方なの?」
「…… 出すぎたことを申しました」
香寧が春霞に頭を下げたとき、背後から落ち着いた柔らかい声がした。雪麗だ。
「侍女をあまりいじめないでちょうだい、春霞」
「お姉さま」
雪麗の豪華でありながら上品さを損なわない衣裳をひとめ見て、奥歯をぎりりと噛みしめる春霞。予想どおりである。
【ざまぁみろだっぺ!】
美雀がさっそく快哉を叫んだ。
―― しかし、この程度ではまだ、生ぬるいだろう。
雪麗は、傷に塩を塗り込むかのごとき台詞を口にした。
「春霞。遅くなって、ごめんなさいね。
せっかく来てくれたので着替えて出迎えようと、孔雀糸の刺繍の服を全て並べてもらったのですけれど…… どれにしようか、とても迷ってしまいましたの」
春霞の表情が、さらに歪んだ。
(さあ、なんと言ってくるのでしょう?)
雪麗はワクワクと、春霞の反応を待った。