3-4. 無尽公
「楊女官もどうぞ」
「あの…… おそれおおいです」
「ですから気にしないで。ほら」
ぐいぐいと口の中に茘枝を押し込もうとされるせいで、浩仁の形のいい指先が、今にも唇に当たりそうである。
こんなシチュエーションは、回帰体験前の、初回の人生以来だった。
あのときは額の呪符がしめつけるような痛みを発することさえ気にならず、ただ恋心のおもむくままに幸せ感に身を浸していたものだが、何回も回帰を果たした今となっては、もうさほど純粋ではいられない。
(この状況は、まずいです……!)
焦る雪麗。
ウッカリ恋人ということにでもなってしまえば、浩仁も一緒に処刑される運命が待っている。
それだけは避けなければ…… 己が処刑されるのはともかく、彼が死ぬのはつらかった。
しかし、美雀にも明明にも、そんな雪麗の思いはわからない。
【ほれ! さっさどいげ! 千載一遇のチャンスだっぺ!】
「麗、じゃなくて、楊さん、がんば!」
なぜかめちゃくちゃ応援されて雪麗はしかたなく、口を開けた。
せっかくの茘枝なのに、胸が苦しくて味がわからない。
「もうひとつ、いかがですか?」
「いえ、もうじゅうぶんです…… 御馳走さまでした」
ラクな最期を迎えるのに恋など不要。
改めてそう己に言い聞かせる、雪麗。心の中で唱えているのは、大極楽経とよばれる、この世で一番長いお経である。
「あの、殿下。そろそろ、楊美雀の遺書について、おうかがいしたいのですが…… なぜ、贋作だと?」
「簡単な話です。そもそも、遺書を狂草のような字で書く人なんて滅多にいない、ということですよ」
【あっだりまえだぁ!】
美雀が、満足げに何度も首を縦に振った。
『狂草』 とは、自由奔放に描かれた草書である。
流れる雲のごとく態定まらず、ゆるゆる漂う煙のごとく融通無碍、とされていた。
酒を飲みしたたかに酔ったうえで、さらに片手に盃を持ち片手に筆を持つ。
そういうノリで書くものなので、狂草のような字体の遺書など、知識階級が酔った勢いで自殺するとき以外では、考えられぬのだ。
「…… つまり、あの遺書は、見識の低い者が 『奴婢らしい下手くそな字』 として狂草を模して書いた、と考えると辻褄が合うのです」
【よぐわがっでるっぺ!】
「形は狂草に近いが心伴わず、音律がずれた琴でデタラメに弾かれた曲のように不快です」
【満点だぁ! さすがは、無尽公だっぺ】
なるほど、と雪麗はうなずいた。 『無尽』 は、浩仁の雅号である。
「さすがは、狂草の名手でいらっしゃいますね、殿下」
「おや、ご存知でしたか」
「有名ですもの。お酒を3杯飲めば書聖になられるとか?」
「友人が過度にほめているだけですよ」
整った男性らしい顔が照れたような笑みを浮かべると、年よりも幼くなる。
現帝がクーデターを起こして父と兄たちを排斥したとき、まだ子どもだったこの皇太弟は、今年でやっと20歳なのだ。
近衛隊長としての活躍の一方では、『風流公子』 としても有名である。
友人を集め夜毎に酔いしれては風月を詩に詠み、狂草の書をなす ―― それが全くのスタイルであることも、雪麗は知っていた。
本来の浩仁の性格は、真面目で誠実 ―― 人柄を隠して政治に興味のないふうを装うのは、ひとえに、浩仁自身がクーデターの旗印となるのを避け、天下の混乱を防ぐためなのだ。
初回の人生で雪麗とともに処刑されたときでさえ、彼は皇族として非常に生真面目だった。
脱獄とクーデターを勧める者たちを断固拒否したのだ。
『宮廷内の権力争いなど、その実、民には全く関係のないことです。なのに理不尽に巻き込まれ、被害を受けるのはいつも民衆だ』
彼らのために命を捨てるのは決して無駄ではないのだと言い切って死んでいくようなひとを、決して巻き込んではならない ――
人生を繰り返すたび、雪麗はそう心に刻んできた。
それだけは、楽しく生きてラクに死にたいだけの今回だって変わらない。
(やはり、会うのはこれきりにしなければ)
もう1度、己に言い聞かせて、雪麗は立ち上がり拱手して目を伏せた。
「では、そろそろ失礼いたします。情報をくださった上にお土産まで、ありがとうございます。苳貴妃さまもお喜びになることでしょう」
すらすらと感謝を述べ、さりげなく浩仁に手帕を差し出す。
「どうぞお使いくださいませ。御手に茘枝の汁がついたままです」
「ああ…… ありがとう」
やや戸惑った様子の浩仁にもう一度礼を取ると、さっと踵を返す雪麗。茘枝の籠を持った明明が、慌てて追いかける。
真っ直ぐに伸びた背。キビキビとした歩きぶりには、背後に対する未練は一切感じられない……
残された浩仁は、渡された手帕を握りしめ、深々とため息をついていた。
―― 黄鳳国では手帕の贈り物には、ほぼ相反する2通りの意味があるのだ。
「九狼よ…… 花街出身のそなたとしては、これはどういうことだと思う?」
「さあ? 両方じゃないですか?」
悩める皇太子に、年若い宦官は、すっとぼけて首をかしげてみせたのだった。
一方、仙泉宮へと戻っていた雪麗たちは ――
【あだす、選妃試験やるっぺ! 浩仁さま、いい男だっぺ!】
「それは否定しませんが…… 試験と、どうつながりが?」
【わがっでねえなぁ。いい男の頼みは、聞いでおぐもんだ。後で百倍になっで返っでぐるっぺ!】
「そうでしょうか」
【もちろん、御褒美もほしいっぺ! 無尽公の書なら、もしものときは高ぐ売れるし、持っでで損はないっぺ】
「売る…… ですか」
【困っだどぎの話だっぺ】
美雀の主張にはかなり謎が残るものの、取りあえずはやる気になってくれて良かった…… ほっとする、雪麗である。
選妃では美雀の正体を明かす予定だから、1位の御褒美は残念ながら無理だろう。
だが、宮正に残されていた遺書が美雀の手蹟でないことが公になるのは、いいことだ。
名誉回復と春霞へのちょっとした嫌がらせ、一石二鳥である。
美雀としては、その程度では、気が済まないかもしれない。当然だ。
なにしろ、殺されているのだから……
(けれど、せっかくこの世に留まっているのでしたら、復讐ではなく、好きなことをして楽しく過ごしてほしいものです……)
そう、雪麗は願わずにはいられなかった。
美雀には、類い稀な書の才がある。
それは、額の呪符に縛られて、きちんと家の教えと法を守って暮らすよりほか、なにひとつ知らず何の才も発揮することのなかった雪麗には、何よりも羨ましいことだった。
そして、すでにその才に夢中にもなっていた ―― 多少のことなら協力しよう、と思える程度には。
「では美雀さん。選妃試験よろしくお願いします。
書の試験の時間は、わたしに乗り移ってくださいね…… そして、くれぐれも、名乗るのを忘れませんように」
【わがっだっぺ】
美雀は意味ありげに笑った。
だが、雪麗がそれを気にかける間もなく……
「お姉さま!」
仙泉宮の黒い門から、薄桃色の人影が駆け寄ってきた。