3-2. 練 武
「贋作、とは……?」
「ここでお話して万一、宮正の耳に入ると気まずいですね」
うっかり聞き返してしまい、しまった、と雪麗が思ったときには、話の流れはすでに、皇太弟を仙泉宮の客人とせざるを得ない方向に向かっていた。
―― これまでの回帰の半分は、不義密通の罪を着せられて終結を迎えたことを考えれば、ぜひとも避けたい事態である……
大丈夫、と雪麗は己に言い聞かせた。
(ふたりきりで会うわけではないですし、まだ時期ではありませんもの)
息を整え、なるべく然り気なさを装う。
「皇太弟殿下。もし、このあとお忙しくなければ…… 仙泉宮のお茶でも飲んでいかれますか?」
「いえ、せっかくですが、禁軍の全体訓練が入っています。蕣徳妃が参加するので、遅れたらお小言がこわい」
「まあ、殿下にも容赦されないだなんて。さすが紅蓮さまですね」
「まったくです。あの方にはかないません」
徳妃の蕣紅蓮は、武を重んじ老若男女問わず剣を振るうのを良しとする蕣家の姫にふさわしく、後宮でも鍛練を欠かない。
その実力と忠誠心は、後宮に関心のない皇帝ですら一目置くほどであり、特別に軍の訓練への参加が許可されていた。
繰り返す回帰の、最初のほうの回では、ちりちりと胸を焦がしていた感情が穏やかなものになったのはいつからだろう…… 雪麗はふと、考えた。
―― 彼のそばに堂々といられるあの人が羨ましい。
羨望と嫉妬の入り交じった気持ちは、もう今は全く無い、といえば嘘になるが…… それでも、かなり小さくなっている。
何回も同じことを繰り返すうちに、紅蓮はあくまで浩仁の友であり、恋愛対象ではないことを理解したからだ。
(諦めたから、といえればいいのに……)
もう後宮で恋などしない、楽しく暮らしてラクに死ねればそれでいい、と決めたはずなのになお、諦め切れない己の心を知るのは、雪麗にとっては惨めなことだった。
【雪麗さん、もうひと押しだっぺ! 蕣徳妃なんがほっどがせで、遺書のごど聞いでぐれねかなぁ】
美雀が袖にまつわりつくようにしてねだってくるが、それはできない相談である。
(そのようなこと、まるで嫉妬して引き留めているかのようです。みっともない)
無理、と答える代わりに軽く袖を払ったとき、雪麗の長い沈黙を勘違いしたのか、浩仁は代案を出した。
「では、暮れ前ごろ、司膳の食堂に使いをやってください。その者に詳細を話しましょう」
「…… わかりました」
「では」
浩仁は拱手すると踵を返した。その後ろを、宦官の少年、九狼が慌てて追っていく。
雪麗も、明明をうながした。
「いきましょう」
「はい…… そういえば、浩仁殿下のご伝達事項ってなんでしょうね?」
「そういえば、うかがうのをつい、忘れてしまっていましたね。けど……」
何か思いついたのか、雪麗はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ねえ明明。夕食は、食堂の炸鶏をいただきたいですね。揚げたてで」
「いいですね!」
【あだすも食いでえ……!】
明明と雪麗は、顔を見合せてにんまりした。
―― 夕食時には、再び女官服をまとうことになりそうだ。
※※※※
「哈ーッ!」 「嘿ッ!」 「呀ーッ!」
練武場に幾筋もの木刀がぬらぬらと鈍い光を放ちながらひらめき、掛け声がどこまでも高い蒼天に吸い込まれていく ――
後宮の北、玄武門の外苑は、道を隔てて3分の1ほどが数々の植物が季節ごとに花開く豊かな庭園。そして残りのだだっぴろい土地には、馬や象が飼われる厩舎と 『武徳殿』 と呼ばれる軍の施設があった。
この一帯では、数年前から、禁軍全体による大規模な武術訓練が、騎馬隊と火器隊の訓練にくわえて行われるようになっていた。
本来、黄鳳国の主流の戦術は、宦官で編成される火器隊が敵の数を減らし、そのあとを騎馬隊が蹴散らす、というものだ。
単純だがなかなか効果的で、隣接する土真国と興貴国、そのまた隣の元鳳国が三国間で泥沼の争いを繰り広げるのを横目に黄鳳国が平和を保っていられるのは、ひとえに火器と騎馬の強さによるものなのだ。
しかし、数年前に間諜から、土真国が斬馬隊なるものを作ったという報せが入った。重く鋭い大刀で、ひたすら騎馬の脚を斬る訓練をさせているらしい。
征服欲旺盛なかの国が、黄鳳国の国境を侵すのは時間の問題と見られる ――
そこで、斬馬隊なるものが効果を発してしまった際にも対応できるよう、武術を用いた接近戦の訓練を組み込んだのであった。
これを進言したのは、蕣徳妃、紅蓮だ。この、武芸を重んじる蕣家出身の妃は、自らも優れた武人であり、この訓練にも当然のように参加していた。
訓練はおもに、南北2軍に別れての乱取りである。南の首領が紅蓮、北が浩仁皇子で、2軍の争いは最終的にはこのふたりの対決となる (かつ兵たちの賭けの対象となる) のが、常であった。
そしてふたりはサシになると、必ず木刀を真剣に持ち替えるため、見物は大変に盛り上がる。
が、当人たちは慣れたもので、お互いの刃をかわしては攻撃、を繰り返しつつ、割と普通に会話していた。
「―― そうそう」
鉄をも断つといわれる大刀の重い斬劇を、紅蓮は前方に低く跳躍してかわし、そのまま両手にもった双刀で相手の胴を薙ごうとする。
「選妃試験の優秀者に、望みのものを賜るそうだな、皇太子殿下」
「ちょうど今、お知らせしようと思っていたところです」
浩仁は苦笑しながらも大きく宙返りし、蝴蝶のように舞う2本の白刃を避けた。そのまま、高く結い上げられた艶やかな赤髪に容赦なく踵を落とす…… が、素早く身を縮めてかわされてしまう。
「妃たちの試験に身が入らぬこと目に余るが、気持ちはわかる、と皇太后さまが仰られまして」
「ふん…… そのようなことしても、喜ぶのは春の小娘くらいのものだろうに」
「これは手厳しい」
春の小娘、とは李賢妃、春霞のことである。
紅蓮がそのまま上に突き上げた剣を大刀ではらう浩仁。着地と同時に向きを替えて切尖を紅蓮の胸元に向けるが、それもまた、双刀ではらわれる。
刃がふれあう固い音が高く響き、紅蓮はちっ、と舌打ちをした。
「そこがかわいくはあるが、あの小娘の場合は褒美は欲しがるが怠け者だからな」
「…… またしても、休憩時に出される茶に用心したほうがよくなりそうですね」
5年前の選妃試験では、後宮に上がったばかりの春霞は13歳の可憐な美少女であったが、試験の合間に出されたお茶に下剤を仕込むという浅はかな悪辣さを見せた。
このときには、華桜宮の女官のひとりが犯人として処罰され、春霞も監督責任を問われて、四妃の中では最下位の賢妃となったのだ。
「さすがに同じことはしないだろうが……」
素早く繰り返される浩仁の斬劇を軽々とかわしつつ、しかし反撃の機のないままに、考え込む紅蓮。
「なにかはしてくるだろうな。特に、雪麗ねえさんに」
「…… やはり、そう思われますか」
「ああ。あの振る舞いのほうが、我々の試験に臨む態度よりよほど、目に余ると思うが」
品行方正で学問を好む、まさに妃の鑑とよぶべき皇貴妃を、春霞は一方的に、そしてあからさまに敵視しているのだ。
「皇太后さまに申し上げておきます」
浩仁が再び苦笑しかけて、しまった、という顔になった。
―― 眉間に突きつけられているのは、鋭い刃先。
紅蓮は、蝴蝶剣の名のとおり、蝶のように軽々と浩仁が構えた大刀の柄に乗っていた。浩仁の敗けである。
南軍から歓声が、北軍からはブーイングが上がった。
「どうした? 今日は妙に浮わついているな?」
「すみません。この後、人と会う約束がありまして…… 少しソワソワしています」
「恋人か?」
「恋人ではなくて 『推し』 です」
「…… 推し?」
「つまり、天女です」
「あー…… そうか」
「もっとも、本人が来てくれるかわかりませんが」
だから余計に気になってしまう、と遠い目をする浩仁。
その様子に蕣紅蓮は、ほぼ全てを了解した。
―― つまりこれはどう言ってもダメなやつである、と。