2-5. 幽霊の怨恨
苳家出身の妃といえば代々、宮正院にとっては鬱陶しい存在である。
法と正義を重んじる苳家と宮正は、外から見れば近しいと思われるかもしれないが、その実は犬猿の仲であった。
代々の苳家出身の妃は、しばしば、冤罪をかけられた者に泣きつかれては、宮正の捜査に横槍を入れたり再捜査を命じたりしてきていた…… いわば宮正にとっては、口うるさい監査役なのだ。
―― そもそも、後宮の裏側でまで正義がまかりとおっているわけがない。
通用するのは正義ではなく、上からの命令と賄賂と周到な根回しで、その結果、嘘の証拠品と証言で犯人が挙げられ、処罰されることも多かった。
そこをいちいち正義感と正論をもって突かれても、宮正としては仕事にならないのだ。
「念のため、といわれましても。もう残っているのは遺書と少しの持ち物ですよ。妃さまの宮にありそうなものは全て、返却しておりますけれど」
宮正副長は雪麗に、つっけんどんな口調を投げた。
「それとも皇貴妃さまともあろうお方が、浅ましくも罪人の遺品を漁られるんでしょうか…… と、申し訳ございません! 失言、なにとぞお許しくださいませ……!」
【ごいづ、むがづぐ奴だっぺ】
美雀の感想は、まんま、雪麗のそれと一致した。
―― 敵意もあらわに当てこすっておきながら、こちらが何か言い返す前に土下座謝罪である。
宮廷の風習では、こうされれば上の者は下の者を許さなければならない。
でなければ、人の上に立つべからざる狭量な者と噂になり、評判を落としてしまうからだ。
これまでの回帰での雪麗ならば、当然のように風習に従って許していただろう。そうしなければ、額の紫水仙にひどく頭をしめつけられるからだ。その痛みは何度経験しても慣れられるものではなく、つまらないことなら従おうと思ってしまうにはじゅうぶんな程度にはつらかった。
だが、今回は、雪麗の額にはもう紫水仙はない。
「いいのですよ。頭をあげなさい」
口にした途端、女官の頬に薄笑いが浮かんだのを、雪麗は見逃さなかった。勝負はここからだ。
「でしたら、こちらにしようかしら。後宮に納入される調度の類いですけれど、調べましたら、いずれも民間価格の5~6倍の金額がかかっているようなのです」
「は…… それは、工廠にていずれも一等級の材料を用いて作っておりますので、当然では」
「そうね。工廠で作った段階で、原材料費の約2倍になって、尚服に入るのですよね。そこで、3倍」
工廠は宦官が働く部署のひとつで、宮廷と後宮の調度品や器物を作成する。それらのうち後宮で使うものを管理する部署が、尚服である。
「そして尚服から尚寝に渡って、妃の宮に入るときには5倍になっているようです」
「は、はあ……」
「どう考えられますか?」
答えは聞かなくてもわかっている。
各部署で金額を上乗せ請求し、ピンハネしているのだ。
もちろん不正であるが、宮正院がそこに首突っ込もうとしないのは、宮正もまた、ピンハネの一部を賄賂として贈られているからである。
ちなみにこの宮廷ぐるみの不正に苳家がこれまで言及してこなかったのは、それがすでに慣習のようになっている上に、たとえ組織全体を入れ替えたとしても、また同様のことが発生するのが目に見えているからだ。
ならば、この件は別のことに使ったほうが良い…… 代々の苳家出身の妃は、そう考えてきた。いわば、伝家の宝刀なのである。
「そうですね、せっかくここまで足を運んだのですから…… 楊美雀の遺品を見せてもらえないのでしたら、これから、そちらの件について詳しく話しあいましょうか?」
「い、いえ。どうぞ、遺品をご覧ください…… 楓さん、案内してあげて」
控えていた案内の女官が、進み出た。
「こちらです、どうぞ」
「ありがとう」
【ぷぷぷぷ! ざまみろだっぺ!】
悔しげな表情の宮正副長に見送られて、雪麗と明明、美雀はしんとした廊下を渡った。証拠品や遺品は、奥の倉庫だ。
角をいくつか曲がり、副長に声が聞こえなくなったところで、あの、と楓女官が雪麗を振り返った。好奇心に満ちた表情だ。
「あの、失礼ですが、楊美雀さんの件にはなにかあるんでしょうか? 」
「あのですね、実は幽れ 「おやめなさい、明明」
「当たり触りのない部分だけですよ、雪麗さま」
「いけません」
話したくて仕方ない、といった様子の侍女をさえぎって、雪麗はゆっくりと問い返した。
「なにか、とは? 楓さんには、心当たりが?」
「つい半刻ほど前に、浩仁殿下が来られたばかりですよ。楊美雀の記録を確かめに」
【それ、バレでんだっぺ。女官に化けでだのが】
「…… そう」
美雀がにしししし、と笑うまでもなく、心当たりがありすぎる事態に、内心冷や汗をかく雪麗。
(もし聞かれても、絶対に知らぬ存ぜぬで押し通しましょう)
そう決めたとき、楓女官が立ち止まった。倉庫についたのだ。
「これが、楊美雀の遺品です。持ち出しは禁止されていますので、こちらの机でご覧ください。私は、失礼ですが見張らせていただきますので」
「ねえねえ楓さん、さっきのことなんだけど……」
「なんでしょう」
「誰にも言わないって約束してくれたら、ちょっとだけ教えてあげましょうか? 」
棚から美雀の遺品を出して机に置き、少し離れて立った楓女官に、明明が早速話しかけた。美雀の幽霊について、しゃべらずにはいられないのだろう。
明日にはもしかしたら、後宮中の噂になっているかもしれない。
(まあ、明明なら私が美雀さんに取りつかれていることは、言わないでしょうから…… )
とりあえず放っておくことにして、雪麗は、美雀の遺書をひろげ―― 数瞬後には、眉をひそめていた。
内容ではない。その真偽など、雪麗にはわかりようもない。
ただひとつ、この事実だけは一目瞭然であった。
楓女官には聞こえないよう、ひそひそと囁く。
「これは…… 美雀さんの手蹟ではありませんね」
【な、下手ぐそすぎるっぺ!】
憤懣やるかたない、といった調子で、美雀が叫んだ。
【こっだな下手ぐそな字を、賢妃とあの宦官のやづ、あだすの遺書だっで嘘言っだのっぺ!】
「どうして、誰にもわからなかったんでしょうか……」
【んなの、尚寝の奴婢の字なんでごんなもんだど、皆が思っだがらに違えねだ!】
雪麗は、しげしげと遺書を眺めた。
子どもの落書きのほうがましなほど乱雑にのたくらせた、読むのがやっとな文字だが…… わざとらしい気もする。
「ま、まあ、見ようによっては狂草と、いえないこともありませんし…… 」
【こっだな、『下手ぐそに書いでやろう』 っでのしが感じれねえ手蹟が、狂草に見えるだ? 目がおがしいんでねえの】
「ですよねえ……」
【これがあだすの手蹟だって言われで残っちまうなんて…… もう死んだほうがマシだっぺ!】
「もう死んでますよ」
【わぁぁん! もう1回、小虹河に飛び込んでぐるっ……!】
どうやら美雀は、殺されたことそのものよりも、遺書を偽造されたことのほうを恨んでいるようだ。
書には、よほどの自信と誇りがあったのだろう…… それを踏みにじられるのがどれほど屈辱か、それは雪麗にはわからない。
常に苳家の教えと額の呪符に縛られて生きてきた彼女は、いわば、空っぽの人形。自信や誇り、といったものを抱いたことがないのだ。
(けど、このままでは、気の毒ですね…… 復讐以外でなにか、いい方法があればいいのですけど)
美雀の気持ちが晴れる方法を雪麗はしばらくあれこれと考え、やがて、ぽん、と手を打った。
「そういえば、選妃試験がありましたね」