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貴方のためなら×××~下町生まれの令嬢は、お口の悪さを隠せない~

 終業のベルより早くテーブルマナーの講義が終わる。

 置いていた鞄に手を伸ばすと、何匹かのカエルさんが『こんにちは』した。

 カエルである。両生類の、緑色をした、あのカエルである。


「あらあら、アーニャさま、どうかされましたの?」


 底意地わるい声に振り返ると、そこには性悪女A、B、Cが立っていた。

 確か、子爵家の娘と、男爵家の娘たちだ。


 伯爵令嬢である私、アーニャ・トリッドリットよりも、本来なら家格の低い家の娘たちだ。

 それなのに、彼女らが小馬鹿にした空気を隠しもしないのは、私のとある出自が原因である。


 私は、はあと溜息を吐くと、左手を伸ばす。カエルの一匹をむんずと掴んだ。

 右手の指を鳴らす。


 ボッと小さな火の玉が浮き上がる。……魔法は苦手だけれど、まあこのくらいはね。


「な、何をしていますの?」


 性悪女たちが戸惑い出す。


「何って……」


 私は言いながら、左手で掴んだカエルを炙る。異臭が立ち込め始めた。性悪女たちは、呆然としている。


「知ってらして? カエルって食べられるのよ。貴女たちも一口いかが?」


 私は、先頭にいた性悪女Aの口元に炙ったカエルを突き付けてやった。


「きゃあ!」


 性悪女Aは後ろ向きにすっ転んだ。


「貴女、おかしいんじゃないの!」


 性悪女B、CはAを助け起こすと、そんな捨て台詞を吐いて逃げ出していく。


「あらあら、カエル料理はお口に合わなかったようですわね」


 私が嘯くと同時に、終業のベルが鳴った。





 性悪女どもの表情ときたら! 思わず頬が緩みそうになるけど……我慢、まだ我慢。


 私は廊下を足早に進む。南校舎三階の隅まで一直線。空き教室に身を滑り込ませる。

 後ろ手でドアを閉めた。


「うーーーしっしっしし!」

 

 私は頬を紅潮させながら、その場で足踏みする。


「あの『××××』の『×××』どもめ! ざまあみろ! 下町出身舐めんな! カエルなんぞにビビるような柔な育ちは…『ガタン』……がたん?」


 音に釣られ視線を向ける。そこには、並べた椅子の上で半身を起こしている、金髪イケメンの姿。


 え、何で、ここ空き教室……ああ、サボり? 昼寝? 寝転んでる時は、机で見えなかったのかあ…って、ゆっくり状況判断してる場合じゃない!

 

 口汚い口調を、しかも『下町言葉スラング』を吐いたのまで聞かれた!


 イケメンは見てはいけないものを見たような、気まずげな表情をしているし! というか、このイケメン、王子様じゃない!? そうだ! 間違いない! 第一王子のエラン殿下!


 体が硬直したままエラン殿下を凝視する。殿下は、頬をかきながら立ち上がった。


「あー、すまないねレディ。君の喜びに水を差したようだ。僕は失礼するよ」

「あ、はい」


 私は頷き……ってダメダメ!

 ただでさえ、庶子の令嬢として肩身の狭い学園生活なのに! 令嬢にあるまじき言葉遣いがバレたら、また一段と面倒になる!


「待って! 待ってください!」


 私は、エラン殿下の袖を掴んで引き留める。不敬? そんなこと言ってる場合じゃない!


「殿下、違うんです! 聞いてください!」


 エラン殿下は困ったように眉を八の字にする。


「レディ、放してくれないか。僕は何も見ていない」

「いいえ、いいえ、見たし、聞いたでしょう!」

「……仮に、仮に何か聞いていたとしても、それを吹聴したりしないとも」

「ほ、本当ですか!? もし私の秘密をバラしたら、殿下が空き教室でサボっていたことをバラしますからね!」


 口走ってから、ハッと正気に戻る。


 王子様を脅してどうする、私!? 破滅に至る運命の歯車を、自ら大回転させているじゃない!


 エラン殿下の袖を掴みながらあわあわしていると、『くっくっ』と笑い声が降って来る。

 見上げると、エラン殿下は堪え切れずに笑い声を漏らしていた。


 ――微笑んでる所は何度か見掛けたけど、こんな風にも笑うんだ。


 私は、エラン殿下の意外な姿に目を奪われる。


「ハハ、あーー、笑った。君は愉快な令嬢だね。分かった、分かった、君の弁明を聞こう。その手を放してもらえるかな?」

「も、申し訳ありません!」


 私は慌てて袖を放す。


「それで? 聞いてほしい話とは?」


 殿下が翡翠色の目を細めながら問い質して来る。


 さて、何と説明したものか……。私はこれまでの半生を振り返る。



 私は、平民の母と二人、王都の下町で暮らしていた。

 貧しくはあったが、まあ何だかんだ逞しく生きていたのだ。


 ところがそんなある日、転機が訪れた。

 そう、我がぼろ屋の前に、上等な仕立ての馬車が停まったあの日だ。


 下町に相応しくない馬車から降り立ったのが、親愛なるクソ親父――トリッドリット伯爵その人だった。

 彼の人が父であることを、私が貴族の血を引いていることを、その時初めて知った。


 トリッドリット伯爵が、十六年捨て置いた娘に会いに来た理由は単純なものである。

 彼の正妻の子供たち――男の子が二人だったらしい――彼らが相次いで病死したのだ。

 後継がいなくなったことで、クソ親父は、昔の女遊びで一人子供を儲けていたことを思い出したらしい。


 かくして、あれよあれよと、下町の貧民娘は伯爵家に迎え入れられ、半年の淑女つめこみ教育の末、王侯貴族の子弟が通う学園に放り込まれたのだった。


 全く、無茶の極みである。クソ親父の『×××××』!



 私は、そんな事情を搔い摘んでエラン殿下に説明した。


「成る程ね。……かのトリッドリットの後継が庶子の娘だと小耳に挟んだことがあったが。君がそうだったか」


 エラン殿下は納得したように頷く。


「はい。それで、人目の無い空き教室で、その、少々お上品ではない言葉を漏らしてしまいまして」

「少々、ね」

「ええ、少々。……殿下も私を軽蔑なされますか?」


 エラン殿下は小首を傾げる。金砂の髪がさらりと流れた。


「さて……庶子が貴族家を継ぐのは珍しいものの、皆無ではない。君が、トリッドリットの血を継いでいるのなら、さして問題ではない。『少々お上品ではない』口調はまあ、褒められたものではないが……」


 エラン殿下が私の目を見る。


「普段、人前では使わぬよう努めているのだろう? 今回は偶々、僕がいたのに気付かなかっただけで。……常に肩ひじ張って行儀正しく、とはいかぬもの。誰だって気を抜きたい時くらいあるさ」

「殿下が、空き教室でお昼寝されていたように?」


 エラン殿下は我が意を得たりとばかりに笑む。


「その通り。君は、そのことで僕を軽蔑するのかい?」

「いいえ。むしろ、親近感が湧きました」


 うん。学園で普段見掛けるエラン殿下は、余りに完璧な貴公子で、人間味が薄いというか……。

 空き教室でサボっているのを知って、親近感が湧いたのは本当だ。ああ、この人にもこういう所があるんだなあ、と。


 エラン殿下は、パンと両手を合わせる。


「なら、一件落着だ。お互いの秘密には目を瞑るとしようじゃないか」

「はい!」


 私が頷くと、エラン殿下は今度こそ教室を出て行こうと扉に手をかける。


 良かったあ、一時はどうなるかと思ったけれど。これで憂いはなくなった。

 ほっと胸を撫で下ろす。


「ああ、そうだ」


 エラン殿下が不意に振り向く。


「最後に、後学の為に教えてもらってもいいかな――」


 エラン殿下はニッコリと微笑んだ。


「――『××××』の『×××』って、どういう意味だい?」


 私は目を逸らした。





 私は伯爵家の屋敷に帰ると、自室のベッドに突っ伏す。


 完璧な貴公子の仮面の裏側には、少々意地悪なエラン殿下がいたらしい。

 ニコニコと笑いながら『それで、どういう意味なんだい?』と追及する殿下は、それはそれは楽しそうだった。


 しどろもどろになりながらも、適当なウソではぐらかしたけれど、きっとバレているんだろうなあ……。

 でも、バレバレなウソだと分かっていても『××××』の『×××』がどういう意味かだなんて……。王子様を前に口が裂けても言えるわけがない。

 下町生まれにも、羞恥心の欠片くらいは残っているのだ。


 ハア、あの数分でどっと精神的疲労が溜まったわ……。


 ため息を吐いていると、コンコンと扉がノックされる。


「お嬢さま、お休みのところ失礼します。旦那さまがお呼びです」

 

 ……クソ親父が? 一体全体何の用だろう?

 近頃は仕事が忙しいとか何とかで、顔を合わすことも無かったのに……。


「分かりました」


 扉越しに返答すると、私はベッドから身を起こす。


 クソ親父はまごうことなきクソ親父だが。生活の面倒を見てもらっているのだ。呼び出しを無視するわけにもいかない。


 手鏡を覗き、母親譲りの赤毛をささっと整える。


 扉を開け、廊下に出た。メイドが一礼してから先導しようとしたが、私は手振りで『いらない』と示す。


 クソ親父の部屋目指して廊下を歩く。


 上位者からの呼び出しだ。トロトロと歩くことなく足早に。されど気品を損なわないように。

 果てしなく面倒くさい。ズカズカと歩きたい。

 でもそんな姿を見られたら、淑女つめこみ教育を担当したロッテンマイヤー夫人の雷が落ちるだろう。その方が面倒くさい事になる。


 クソ親父の部屋に着いた。トントンとノックする。


「入れ」

 

 どこかぶっきらぼうな返答だ。ともあれ、許しを得たので入室する。


 部屋には二人の男性がいた。


 一人は、灰銀色の髪をオールバックにした四十路の男で、神経質そうな顔立ちをしている。こちらを一瞥することなく、執務机で羽ペンを走らせ続けていた。――我が親愛なるクソ親父殿である。

 もう一人は、執事のセバスだ。


「ごきげんよう、お父さま」


 私は、恭しく淑女の礼カテーシーをした。

 フンと、クソ親父は鼻を鳴らす。


「少しは淑女の真似事も様になってきたか。……ロッテンマイヤー夫人には報酬を弾まねばならんな」


 はあ。ロッテンマイヤー夫人を労うのは構わないけど、もう一人労う人物を忘れてはいませんかね?


「ありがとうございます」


 副音声を笑顔の裏に隠しながら軽く頭を上げた。

 クソ親父は、こちらに視線を呉れると目を細める。


「だが、急ごしらえのメッキは剝がれやすいもの。……学園でボロを出してはいないだろうな?」


 ドキリとする。まさに今日、あの空き教室で盛大にボロを出したばかりだ。


「勿論ですわ、お父さま。淑女としての礼節を欠くことなく学園生活を送っております」


 クソ親父は、神経質そうな顔を露骨に顰める。


「下らんウソを吐くな。――これからはもっと気を引き締めよ」


 ――??? 何故ウソだと? 当てずっぽう? それにしては、クソ親父の声音は余りに確信染みた、否、確信した者のそれだった。


 解せない。まるでイカサマ賭博に嵌ったかのような心地だ。


「セバス」


 クソ親父は、封筒をセバスに手渡す。セバスはクソ親父の傍を離れ、私に封筒を手渡して来る。


 受け取り、ちらりと伯爵家の封蝋がされた封筒を見遣る。


「これは?」

「付き合いの長い服飾店の店主に宛てたものだ。それを持っていき、ドレスを新調してきなさい」

「ドレスの新調?」

「再来月に、学園で社交を兼ねた大規模な茶会があるだろう」

 

 ああ、と心中頷く。


「承知しました、お父さま」


 クソ親父はもうこちらに目を向けることも無く『下がれ』と一言口にする。


 長居したい部屋でもない。

 言われるがままに部屋を出ると、どうしたわけかセバスも後を付いてくる。

 どうかしたのか? と視線で問うと、セバスが耳打ちしてくる。


「お嬢さま、『法と裁き』を司るトリッドリットの当主である旦那さまに、ウソは通じませんぞ」

「どういうこと?」

「代々トリッドリット家には、ウソを見破る魔法具が受け継がれているのです」


 何ですって? ウソを見破る? となると、この屋敷に来てからの、あれもこれもそれも、全部クソ親父にはバレていたというの?


 私は顔を手で覆う。なんてイカサマ……。


「ウソを見破る、というのは具体的には?」

「ウソを感知する魔法具と聞いています」

「感知するだけ? 心の内を読んだり、そういうことは出来ない?」

「左様です」


 成る程、成る程……これは、クソ親父の前では下手なことは言えないわね。

 厄介だ。けれども、心の内を見透かすのでなければ、やり様もある。だって、ウソを吐かなくても人を騙すことはできるのだから。


 セバスは肩を竦める。


「お嬢さま、これに懲りましたら、下手なウソを吐き親子仲を悪化させるような真似はお控えください」

「ええ、そうするわ。ああ、セバス――」


 まだ確認すべきことがあった。クソ親父は、他にも手札を隠しているかもしれない。

 そう。相手の手の内が分からぬまま、カード博打なんて出来っこないのだから。


「――ねえ、我が家には、他にも特別な魔法具があったりするの?」





「はあ、詩集の講義とか本当にいるの?」


 私は、講義が終わると溜息を吐いた。全く、『パンにならない芸に時間を費やすな』が、下町のことわざなのに。

 高貴な人たちは、無駄なことばかりしていけない。


「アーニャさん」


 心中でグチグチ言っていると、背後から声を掛けられた。

 ああ、振り向きたくない。が、そうもいかない。


 渋々振り返り『ごきげんよう、オリヴィアさま』と挨拶する。


 鷹揚に頷き『ごきげんよう』と挨拶を返したのは、ラザフォード公爵家の令嬢オリヴィアだった。

 さもありなん。

 辛うじてとはいえ、上位貴族の端くれである伯爵家の令嬢を、『さん』付けで呼べるのは、同学年の女生徒の中では彼女くらいのものだ。


 オリヴィアは、今日も今日とて、取り巻きの令嬢たちを引き連れている。


 ――猿山の女主人め。


 悪態とは真反対の笑みを浮かべる。


「私に、なにか御用ですか?」

「いえね、アーニャさんは『ウェルギス』や『ホーロス』などの古典詩集が苦手なようですから、少し心配になって」


 まだ生徒が多く残ってる場での、『貴女、無教養なのね』口撃である。

 取り巻きたちに至っては、聞こえよがしにクスクスと忍び笑いだ。


 腹立たしいが、我慢だ、我慢。


 先日の性悪女たちの時とは、事情が異なる。連中は家格の下の娘たち。多少の意趣返し、仕返しくらいは許されたが。


 貴族で最も家格の高い公爵家の令嬢――しかも、第一王子の婚約者でもあるオリヴィアに下手なことはできない。

 

 私はぐっと手を握る。


 オリヴィアは、クスクス笑う取り巻き見回した。


「貴女たち、お止めになって。誰にだって、苦手な事の一つや二つあるものだわ」


 オリヴィアは、私に向き直る。


「本当に心配なのよ。貴女の出自を思えば、ねえ? 色々不都合があるでしょうし。それに、一部の不心得者が思い違いをして、貴女を敵視するかもしれないわ」


 オリヴィアは、真っ直ぐに私へと手を差し出す。


「私のことを頼ってほしいのよ」


 私は白々しくその手を見る。


 この学園に編入して以来、陰に陽に続く嫌がらせ、その首謀者の癖によくもまあ。

 私は気付いていた。全ては、オリヴィアの指示であったことを。

 オリヴィアとて、隠す気はなかったろう。


 取り巻きを使って嫌がらせをしつつ、自身はこうして私に手を差し伸べる。

 この相反する行動は、一体どういうことか?

 その答えは明白だ。


『私が面倒を見て上げる。だから、私の下につきなさい』


 オリヴィアの真意はそいうことだった。


 気に入らない元庶子の娘を屈服させる。きっと、その一事だけでも胸がすくような心地なのだろう。


 加えて、平民を母に持つとはいえ、今や私は正式な伯爵家の令嬢、しかも一人娘だ。

 今、私を屈服させられれば、次代のトリッドリット伯爵家を、ラザフォード公爵家の傘下に出来るかもしれない。


 成る程、成る程、オリヴィアの意図は分かりやすいし、利益を得る為の行動として間違えでもない。だけど。


 ――ああ、腸が煮えくり返るようだ。


 冗談じゃない! 下町の人間は、己の腕っぷしで上に立つ親方に敬意は示しても、親の七光りにだけは、ぜーーーーったいに敬意を払わないのである!


 私は、オリヴィアの差し出された手を無視し、胸の前で手を組む。


「ありがとうございます、オリヴィアさま。ですが、オリヴィアさまのお手は、私などではなく、大切な婚約者であるエラン殿下のお手を取るために伸ばされるべきでしょう」


 エラン殿下とオリヴィア、婚約関係にあるこの二人の仲が、どうも上手くいっていないらしいのは、学園全体の暗黙の了解だ。


 つまり、私なんかにかまけてる暇があれば、王子様の気を引きに行け、と痛烈に皮肉ってやったわけである。


 オリヴィアの顔から、サーーッと笑みが引く。冷たい無表情になった。


「そう。よーく分かったわ」


 オリヴィアは『行きましょう』と一言告げると、取り巻きたちを伴い去って行った。





 オリヴィアの下につくことを拒否した。

 嫌がらせは、今までのようなぬるいものではなく、苛烈を極めるだろう。


 どう対処すべきか? 私は一人静かに考えようと、例の空き教室に向かう。



「いらっしゃい、アーニャ嬢」


 空き教室に入った私を、エラン殿下が出迎えた。


「……今日もサボりですか?」


 エラン殿下はネクタイを雑に緩めた姿で、机の上に座っている、手には一冊の本。表紙を見るに、格調の高い文学書ではなく、市井に出回っている娯楽小説のようだ。


「まあ、そんな所かな。ここでの事は、互いに目を瞑る。そういう協定だ。君も、楽にするといい」


 エラン殿下はウインクする。


 よし来た! 私は空いてる椅子にどっかりと座ると、靴と靴下をぽいっぽいっと投げて素足になった。ぐーーーーっと伸びをする。


「あ~~! 面倒くさいなあ!」


 私は遠慮なく心の内を吐露する。


「何か面倒事でも?」

「ええまあ。元庶子の伯爵令嬢、学園で面倒に事欠かないのは、推測できるでしょう?」


 流石に、あなたの婚約者のせいで困っています、とは言えない。

 私は、じっとエラン殿下を見る。


 そういえば、殿下はあの婚約者のことを、どう思っているのかしら?

 少し探りを入れてみようか。


「ああ殿下、ここに来る前、オリヴィアさまにお会いしましたよ」


 一瞬、ほんの一瞬だが、エラン殿下の顔が曇ったのを、私は見逃さなかった。


「……そうか。彼女と何か?」

「いいえ。特別な事は、何も」


 エラン殿下は本を閉じる。真剣な面持ちになって、私の目を真っ直ぐ見詰める。


「君は、大抵の面倒事なら自分で対処できそうだが……。本当に困ったことがあれば、僕に言うといい」

「……ありがとうございます」


 エラン殿下は一つ頷くと、読書を再開する。


 ふーむ。どうやら、エラン殿下が一方的にオリヴィアに不満を持ってそうだなあ。

 まあそうか。あんな嫌な女が相手なら、それも仕方のないことだ。


 国に婚約者を決められて、しかも相手は底意地の悪い女。王子様っていうのも、大変なものなのねえ。





 学園内を一人歩く。

 まだ、連中の動きはないが、常に警戒しておくべきだろう。


 注意深く視線を走らせながら歩く。


 廊下から階段へ。

 すると、丁度階段の下から上がってくる人物がいる。その金砂の髪に思わず視線が留まった。


「あっ、エラン殿……」


 ドン! 階段の上で背中を押された。

 足がくうを踏む。


 や……ば!


 思わず目をつぶり、襲いかかる衝撃を覚悟する。


「危ない!!」


 叫び声、そして覚悟していたよりも、ずっと弱い衝撃を覚えた。


「大丈夫か、アーニャ嬢!」

「あっ……」


 目を開け見上げると、すぐ近くにあるエラン殿下の顔。

 どうやら、エラン殿下に抱き止められたらしい。


 ドク、ドクと、心臓が早鐘を打つ。冷や汗が背筋を流れた。


 冗談じゃない! 余りに直接的すぎるやり口じゃない! 階段で背中を……って!


 私はガバッと振り返る。しかし既に下手人の姿はない。

 じっと誰もいない階段上を見る私に、殿下が囁くように言う。


「女生徒だった。が、落ちてくる君に意識がいって、誰かまでは……」

「そう、ですか」


 まあ間違いなく、オリヴィアに指示された誰かだろう。


 殿下の叫び声を聞きつけたのか、何人もの学生たちが階段の上に現れる。

 一体何があったのかと騒めく学生たちの中に、オリヴィアたちの姿もあった。


 さて、どうしたものか?

 私が思案していると、エラン殿下が進み出て階段を上っていく。オリヴィアの前に立った。


「ごきげんよう、エラン殿下」


 淑女の礼カテーシーをとるオリヴィアに対し、エラン殿下は挨拶もせずに話し出す。


「オリヴィア・ラザフォード、我が婚約者よ。忠告は一度だけだ。未来の王妃たらんと欲するならば、今からでも王妃に相応しい振る舞いをすることだ」


 低く這うような声だった。

 エラン殿下は、オリヴィアの返事を聞くことなく歩き去る。


 怒りを露わにしたエラン殿下に、集まっていた学生たちが一層騒めく。


「エラン殿下ったら、虫の居所が悪かったのかしら?」


 人の目があるからだろう。オリヴィアはそんな言葉で取り繕いながら虚勢を張る。


 取り巻きたちが、不安そうな面持ちでオリヴィアを見る。

 オリヴィアはそれらの視線を受けながら口を開く。


「大丈夫、大丈夫よ。ええ、きっと『サミュエルの茶会』の席で仲直り出来ることでしょう」


 その一瞬、オリヴィアの顔に虚勢の笑みとは異なる笑みが浮かぶ。


 私の頭の中で警鐘が鳴り響く。私はあの笑みを知っている。

 あれは、売春宿のやり手婆があくどい企みをしている時と同じ笑みだ。





 オリヴィアは、取り巻きの中でも最も近しい者たちとだけで度々茶会をしている。

 場所は決まって、学園の一画にある小さな庭園だ。

 連中が悪だくみを話し合うとしたら、恐らくこの場所だろう。

 

 そう当たりを付けた私は、庭園の生垣の中に全身を潜り込ませている。


 ふふふ、下町出身とはいえ、いやしくも伯爵令嬢がこんな所に隠れているなんて、神様だって見抜けまい。


 なんて自画自賛している間にも、枝が頬を引っ掻き、髪に絡まる。あ、痛い、痛い……。



 私が痛みに耐えていると、オリヴィアたちが現れた。

 彼女らは席につき、暫く他愛ない雑談を交わす。……こんな茶飲み話を聞くために、痛みを我慢しているわけではないのだが。


 しかし、神は私に微笑んだ。


 オリヴィアが給仕を終えた使用人たちを下がらせると、がらりと場の空気が変わった。


「エマ、例のものは?」

「こちらです、オリヴィアさま」


 エマ、と呼ばれた取り巻きの一人が、机の上に小瓶を置く。

 ガラス製の、親指と人差し指で摘まめる程度の大きさの小瓶だ。

 

 オリヴィアは、小瓶を手に取ると目の高さまで持ち上げる。


「これが……」

「はい」


 エマは緊張に満ちた声で答える。


「ティースプーン二杯分、エラン殿下がお飲みになる紅茶に混ぜれば、それで」


 別の取り巻きが口を開く。


「給仕するメイドの一人は買収済みです」


 オリヴィアは頷く。


「薬の出所も、買収したメイドも、足が付かないようにしなさい」

「はい」


 オリヴィアは、邪な笑みを浮かべる。


「これで、殿下は私の思うがまま……」


 これが、オリヴィアの企み。成る程、惚れ薬か、媚薬か……。

 茶会の席で混ぜるなら、媚薬はないか。なら、惚れ薬だろう。


 下町の中でも、最も奥深く、最も薄暗い場所では、そういうご禁制の魔法薬も売買されていると聞くが……。

 法に触れる代物だ。当然、リスキーな品である。


 馬鹿な女。婚約者なのだから、何もしないでもエラン殿下と結婚できるのに。

 ちっぽけなプライドの為に、危ない橋を渡るのか……。あるいは、冷えいく婚約関係に危機を募らせたか?


 どちらにせよ一緒か。彼女が、過ちを犯そうとしている事に、変わりはない。



 それから、オリヴィアたちが密談を終え庭園を立ち去るまで待った。

 私は生垣から脱出する。人目を避けるように、いつもの空き教室を目指した。



「アーニャ嬢、どうしたんだい? その姿は?」


 空き教室に入ると、先客のエラン殿下が目を丸くする。


 当然の疑問だろう。

 頬に引っ掻き傷、髪はぼさぼさ、制服は葉っぱと土汚れで見れたものじゃない。


「……年甲斐もなく、かくれんぼを少々」

「まあ、無理に問い質しはしないが」


 ……良かった。当然、ウソだと理解してもらえてるらしい。

 もし本当に、年甲斐もなくかくれんぼをするような女だと納得されたら、さしもの下町生まれも立ち直れない。


 エラン殿下は眉を顰めながら言う。


「そんな格好になるような無茶は慎むべきだ」

「泥臭く、が下町の信条です」


 エラン殿下はゆるりと首を振る。


「確かに、貴族生まれにはない強みなのだろうが……。君も女の子なのだから、自分の体を大切にすべきだよ」


 そう言って、殿下は私の乱れた髪に触れる。指を手櫛に、赤毛を梳く。


 突然の行動に体が固まる。


 で、殿下、分かっているんですか? イケメン以外がそれをやったら、引っ叩かれても文句を言えない所業ですよ!


 ドキドキと心臓が高鳴る。頬はきっと赤く染まっている。


 絵に描いたような金髪碧眼のイケメン王子様と、こんな夢のようなシチュエーションを体験するだなんて!


 下町の娘でも、いやさ、下町の娘だからこそ、いつか白馬の王子様が自分を迎えに来てくれることを夢見るのだ。

 小さい時分に夢見た王子様、そのまんまの貴公子に優しくされたら、勘違いしてしまうではないか!


 いやいやいやいや! エラン殿下は誰にでもお優しいだけ。勘違いしてはいけない。

 そうよ、アーニャ! 勘違いしてはダメ! 思い出して! 下町に迎えに来たのは、白馬の王子様ではなく、神経質なクソ親父だったでしょ!


 私は、二歩、三歩下がり、エラン殿下の手から逃れると、頭を振るう。


 意識を切り替えろー、私。ここには、ラブロマンスをしに来たわけじゃないでしょ。


 そうだ。ここには、ある確認をしに来たのだ。

 そう、確認。先程盗み聞いたオリヴィアの企みを密告しに来たわけではない。


 密告したとして、エラン殿下がそれを信じるかどうか……殿下のオリヴィアへの不信を見るに、信じてもらえる可能性は高そうだが、それでも密告する気はない。


 だって、これは私の喧嘩だ。

 殿下に告げ口して、はい終わり! だなんて、他でもない私が納得いかない!


 自分の手で決着をつけねば、女が廃るというものである。


 だから、ここに来たのは、エラン殿下の気持ちを確認するためだった。


「殿下」


 私は、キッと殿下の顔を見る。


「この空き教室だからこそ出来る、失礼な質問をしてもよろしいでしょうか?」


 エラン殿下は思案するように目を細める。ややあって口を開く。


「質問をどうぞ、アーニャ嬢」

「ありがとうございます。……はっきり申し上げて、オリヴィアさまは殿下の婚約者に相応しくないと思いますが。殿下は、どのようにお考えですか?」


 私の直截すぎる言葉に、エラン殿下は苦笑する。


「そうだね。僕個人に相応しいかどうかは、どうでもいい。問題は、未来の王妃に相応しいかどうかだ」


 エラン殿下は憂い顔になる。


「王妃とは、国民を慈しむ者でなければならない。子を愛する母親の様に。だが、オリヴィア嬢は……」


 殿下の表情に苦いものが混じる。


「彼女は、下の者を見下し虐げる。自らに過剰に奉仕させようとする。……傲慢で我儘な貴族子女の典型だ。その性質は、早い段階から分かってはいた。分かってはいたが」

「お分かりになっていたが、何でしょうか?」

「……僕たちの婚約は国が決めたものだ。オリヴィア嬢が自ら望んだものではない。勝手に婚約を決められ、勝手に不適格の烙印を押されるのは、流石に哀れだろう。彼女がまだ成年貴族でないこともある。……機会を与えようと思った。心を入れ替えるための機会を」


 エラン殿下がオリヴィアに告げた忠告の真意は、そういうことだったか。


「もしも、もしもオリヴィアさまが、その機会を無下にし、変わられなかったら?」

「……将来の王妃に相応しからざる者が、第一王子の婚約者の立場にある、そういうことになるだろうね」


 エラン殿下の想いはよく分かった。


 オリヴィアがそう望んだわけではなく、元々は国が決めた婚約関係。

 だからこそ、エラン殿下はオリヴィアに機会を与えている。

 しかし、彼女がその機会を無下にするのならば、切り捨てることも止む無し。そんな想いが見て取れた。


 殿下が、そういうお積りなら、私も遠慮なく行動に移せるわ。


「ありがとうございました」


 私は一礼してから空き教室を出る。

 廊下を足早に進み、学園の敷地を出ると駆け出した。


 道行く人々が、目を丸くしてこちらを見るが知ったことか。

 息を切らせながら、伯爵家の屋敷に戻る。


 私は淑女らしさをかなぐり捨て、廊下をずかずかと進む。そうして、クソ親父の部屋の前に立つ。バン! とノックもなしに扉を開けた。


「何事だ!」


 クソ親父が叱責する。眼光鋭く睨んできた。

 だけど怯まない、交渉の前に怯んでいては、舐められて終わる。私は、不敵な笑みを浮かべた。


「お父さま、折り入って相談が御座います」





 サミュエルの茶会当日になった。

 この茶会の名は、その昔遥か東方から茶葉を持ち帰ったとされる旅人の名前から来ているらしい。


 よっぽどの事情がない限り、全生徒の参加が推奨されている大規模な茶会で、新年の大舞踏会と共に、学園の二大社交とされている。

 会場はアズミュールの庭園。学園の敷地内で最大の庭園だ。


 淡いクリーム色の外壁と赤銅色の瓦が特徴的な校舎をバックに、青々とした芝生が広がっている。


 まだ開始時間前だが、既に多くの貴公子や淑女たちが集まり、歓談をしている。


 私は新調したドレスを身に纏い、執事のセバスを従えて庭園に足を踏み入れた。

 上座のテーブルを見る。


 エラン殿下は、まだ来ていないか……。


 私は歓談に混じることなく、静かにその時を待つ。



 茶会の開始五分前に、エラン殿下は婚約者のオリヴィアをエスコートしながら現れた。

 着飾った学生たちが、順々に殿下たちに挨拶をする。


 殿下は一々挨拶を丁寧に返し、軽く雑談をしてと、これがまた中々長い。


 ようやく席に着くと、給仕役のメイドたちが殿下のカップに紅茶を注ぐ。

 私は、踏み出した。


「殿下」

「ああ、アーニャ嬢……アーニャ嬢?」


 一向に挨拶をしようとしない私に、エラン殿下は訝し気な表情を浮かべた。

 私は一つ深呼吸する。


 震えだしそうな体を抑えつけながら口を開く。


「告発します。オリヴィアさまは、殿下の御心を惑わせる薬を、殿下の紅茶に盛っています」


 会場がどよめく。エラン殿下は眉を顰めた。


「貴女、何を言ってるの!?」


 オリヴィアは立ち上がると、金切り声を上げる。

 私は、彼女に向き直る。


「貴女が、殿下に薬を盛ったと言いました」

「冗談を言わないで! 貴女、どういう積り!?」

「冗談かどうかは……」


 私はカップを見る。


「その紅茶を調べればお分かりいただけるかと。ご禁制の魔法薬が検出されるでしょうし」

「ふざけないで!」


 オリヴィアは怒りに任せて手を振り、テーブルの上からカップをなぎ払った。

 ガシャン、と音を立て砕けるカップ。中にあった紅茶は、芝生を濡らし地面にしみ込んでいく。


 こちらを見るオリヴィアは、怒り心頭といった表情だけど、これはポーズね。

 カップを破壊してもおかしくないよう振舞ったか。

 その目の内には、余裕の色がある。


 私は砕けたカップを見遣る。


 魔法薬入りの紅茶がしみ込んだ土から、成分を検出できるだろうか?

 うーん、分からないけれど、もし検出できたとしても、実は薬が盛られた事実が判明するだけだったりする。

 誰が入れたかの証拠がなければ、オリヴィアを追い詰めることはできない。


 オリヴィアに余裕が見られるのは、彼女もそのことに気付いているからだろう。


「貴女、こんな言いがかりをして、タダで済むと思っているの?」


 オリヴィアは酷薄な笑みを浮かべる。


「ええ、言いがかりなら、タダでは済まないでしょうね。ですが、無用の心配です。私の告発の正しさを証明する手が、私にはあるのだから」

「貴女、何を言って?」


 私は、おかしいとばかりにクスリと笑う。


「オリヴィアさまは古典にお詳しいのに、この国の建国以来、我がトリッドリット伯爵家が、如何なる役目を担ってきたかをご存じないのですか?」


 オリヴィアは、ハッと何かに気付いたかのような表情になる。

 まあ、気付いたってどうしようもないのだけど。

 だって、私はクソ親父を説得し、とびっきりの切り札エースを持ち出すことに成功していたのだから。


「セバス」

「はい。お嬢さま」


 セバスはマホガニー製の木箱を恭しく捧げ持つ。


 私は木箱を受け取って、テーブルの上に置く。木箱を開き、中から黄金色の天秤を取り出した。


「これは、『正義の天秤』か!」


 エラン殿下が声を上げる。オリヴィアの顔は真っ蒼になった。


 この国の『法と裁き』を司るトリッドリット家。この家の当主が、高等法院の裁判長を歴任してきたのには、訳がある。


 そう、この国の建国時に活躍した大魔法使いマリンが造った魔法具の一つ『正義の天秤』を継承しているからに他ならない。


 この天秤は、罪を量る魔法具。

 曰く、『罪は重い。目に見えずとも、銀の羽根よりも重い』。この文句は、知らない者がいない有名な文句だ。


 正義の天秤、その片方の皿には銀の羽根が載っていて、もう片方の皿には何も載っていない。

 当然、羽根が載った皿の方に秤は傾いている。


 しかし、トリッドリットの血を継ぐものがこの魔法具を発動させると、有罪の時には空の皿が傾くこととなる仕組みだ。


 つまり、この天秤を持ち出せた時点で、オリヴィアの罪の証明は終えたも同然なのだ。

 問題だったのは、この天秤を持ち出せるかどうかだった。


 クソ親父との交渉――オリヴィアの企みを話し、この天秤を使用させて欲しいという交渉だ。

 

 突拍子もなく、公爵令嬢オリヴィアが惚れ薬を王子に盛ろうとしています! と伝えたところで、普通なら即信じてもらえない。


 が、ここは勝算があった。

 何せクソ親父は、ウソを見破る魔法具も持っている。私の言がウソではないことが、彼には分かったことだろう。


 なので問題は、オリヴィアの企みを知ったクソ親父が、王子と公爵家、どちらに恩を売った方が利益になると判断するかだった。


 まあ、クソ親父がどちらを選んだかは、ここに天秤があることが答えだ。


「貴女、ねえ、アーニャさん」


 オリヴィアが猫撫で声を出す。……気持ち悪いなあ。


「ウチの公爵家なら、ねえ、分かるでしょう? だから……」

 

 オリヴィアが思わせぶりな懇願をしてくる。

 これは、アレだろう。


 正義の天秤に伝わる文句、『罪は重い。目に見えずとも、銀の羽根よりも重い』には、実は高位貴族だけが知る続きがある。


 曰く、『罪は重い。だが、金貨200枚はそれより尚重い』


 これは、この魔法具が造られる際に、高位貴族たちが設けた抜け穴である。


 何とこの魔法具、使用者の意思で有罪であっても無罪判定が出せる。高位貴族たちは、自分たちが裁きの場に立った時のことを想定し、斯様な抜け穴を作ったのだ。

 そう、金貨200枚の賄賂で、無罪を勝ち取れるのである。


 全く、こんな魔法具に『正義の天秤』だなんて名付けた奴は、ぼったくり酒場の主人より面の皮が厚いに違いない。


 尚、高位貴族たちも冤罪はかけられたくなかったので、無罪を有罪にすることはできない仕様だ。


「お願いよ、アーニャさん」


 気持ち悪い猫撫で声を続けるオリヴィアに、私はニッコリと微笑んでやる。


「オリヴィアさま、当家は『後払い』を受け付けていませんの。ごめんあそばせ」


 オリヴィアはカッと目を見開く。


「庶子の生まれの! 平民の母を持つ卑しい女が! この私を裁くか!」


 オリヴィアは私に掴みかかろうとするが、エラン殿下が彼女を後ろから羽交い絞めにする。

 ナイス! 殿下! 

 いくら殿下が細身とはいえ、男に羽交い絞めにされては、いいとこのお嬢さまに成す術はない。

 オリヴィアは、鬼のような形相で私を睨んでいる。ああ、高貴なお嬢さまだって、一皮剝けば何と醜いことか!


「猫の皮が剥がれてるぞ、この『××××』! 黙って見てろ!」

 

 私は上着のポケットから折り畳みナイフを取り出す。その刃を人差し指の腹に当てた。ぷくっと血の玉が浮かび、ツーーッと滴る。

 落ちた雫は、正義の天秤に吸い込まれた。ぽぉっと淡く光を放つ。


「公爵令嬢オリヴィア、汝がエラン殿下に薬を盛った罪人か否か! 法と裁きを司るトリッドリットの後継アーニャが、その罪を量る! 審判ジャッジ!」


 誰もが固唾を飲んで、正義の天秤を注視する。

 秤は、独りでに傾いた。――有罪を示す方へと。


「あああああああああああああ!!!!!!」


 オリヴィアは絶叫を上げながらくずおれる。


「オリヴィアの罪は、ここに確定しました」


 私は、エラン殿下に視線を遣る。殿下は頷いた。


 頽れるオリヴィアを見下ろしながら、エラン殿下は告げる。


「僕は君に忠告し、機会を与えた。しかし君はそれを無碍にした。残念だ。……罪人が未来の王妃になることはあり得ない。君との婚約は破棄させてもらう」


 オリヴィアは、びくりと肩を揺らした。


「オリヴィア嬢を連れて行け」


 殿下の命を受けた衛兵たちが、オリヴィアを庭園から連れ出していった。


 余りの事態に場が騒めく。


「そんなオリヴィアさまが……」「公爵家の令嬢、それも第一王子の婚約者だぞ!」「これは、とんでもない事が起きたな」


 エラン殿下は、不安、驚愕、好奇、様々な表情をした面々を見回す。一つ頷くと、口を開いた。


「王族の婚姻は国の大事。此度の婚約破棄に、皆が心配になるのも無理からぬこと。しかし、狼狽するに及ばない。何故なら、私の婚約者に相応しい令嬢がこの場にいるからだ」


 エラン殿下が毅然とした態度で宣言する。

 だけど、相応しい婚約者? 待て、どうしてこちらを向く?


 殿下の翡翠の双眸が、真っ直ぐ私を捉える。


「公爵家の権威に屈せず、この私を救いに来た令嬢――道義と勇気を兼ね備えたアーニャ嬢こそが、私の婚約者に相応しい!」

「はあ!? で、殿下、何を仰って……!」


 ぐいっと腕を引っ張られたことで、私は反論の言葉を吞み込んでしまう。


「ッ~~~~!!!?」


 エラン殿下の腕の中!? ほ、抱擁! 抱擁だぁぁああ! クソ親父にだって抱きしめられたことないのに!


 きゃあ! と令嬢たちから黄色い声が上がる。


 エラン殿下は私を抱きしめたまま、私の耳元に唇を寄せる。


「落ち着いて。仮初の婚約だよ」


 エラン殿下の囁きに、私は小首を傾げる。


「仮初?」

「そう仮初。また変な婚約者を押し付けられないように、ね。頼まれてくれないか、アーニャ嬢」


 仮初かあ。耳朶を打つエラン殿下の声。その心地よさに絆されたわけではないけれど、私はこくりと頷く。


「分かりました」





 ……仮初の婚約、その筈だったのになあ。


 ベビーベッドで眠る赤子の顔を覗く。先日、お腹を痛めて産んだばかりの我が子だ。


「ヴィクトリカは眠っているのかい?」


 金砂の髪に翡翠の目をした美青年が、潜めた声で尋ねる。――私の夫であり、先日晴れて立太子されたこの国の第一王子、エラン殿下だ。


 殿下もヴィクトリカの顔を覗くと、柔らかな笑みを浮かべる。


「寝る子は育つ、か。このまま、すくすくと元気に育ってもらいたいものだ」

「ええ、本当に」


 私が相槌を打つと、殿下は『そうだ』と口にする。


「この子の養育を任せる、しっかりした乳母も探さないとね」


 乳母? ああ、高貴な方々の常識だとそうなるのか。


「殿下、乳母に頼らずとも、私がしっかりと育てますよ」


 エラン殿下はぱちぱちと目を瞬く。ハアと溜息を零した。

 え? 何? 何? 私、何か変なことを言った?


 エラン殿下は首を振る。


「ダメだよ。僕のお姫さまが、汚いスラングを覚えてしまっては困るからね」

「あっ……いいえ、いいえ! 大丈夫です! 娘の前では、汚い言葉遣いは……!」


 エラン殿下は半目になる。


「信用できないなあ」

「そんなああああ……」


 私は、失意の声を漏らしたのだった。

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[良い点] すでに言われてますが父親が中々に裁判長なだけはある人物として書かれてること。 アーニャがちゃんと利益とか提示して交渉しに来た時はむしろようやくそれくらいできるようになったかと悪くない印象持…
[良い点] 本人の努力あってのハッピーエンドってやはり良いですね。 [気になる点] 後継ぎを王家に持っていかれたクソオヤジ様。 娘が子供を複数産んだらその中の誰かに継がせるのか、いっそ今から後妻を娶っ…
[気になる点] 伯爵家の後継にするために引き取られたのに、王妃になるのはどうかと…
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