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最期まで共にいて

あの後、何事もなく家に帰った。

 そして、なにをするでもなく自分の家を見て回った。

 父が刻んだ壁の線は、俺の成長を示す印だった。本棚の隅にあるアルバムは、母が撮影した俺の写真でいっぱいだった。

 俺が育った形跡も、ここにいた証も、すべてなくなる。

 悲しいはずだった。怖いはずだった。なのに、なぜ心はこんなに穏やかなのだろう。

 嵐がやんだあとの海のように、心は凪いでいた。

 窓から遠慮なく入り込んでくる日差しをカーテンで遮断した。

 空調の効いた狭い部屋の中は快適だ。自室だから気兼ねなくのんびりできるのもいい。人と話すよりずっと気が楽だ。

 広い世界を見るのもいい。いろんな人に出会うのもいい。けれど結局、自分は薄暗い室内でこもっているほうが性にあうのだ。広い世界にずっと居続けたら壊れてしまう。世界での俺の支柱はチヤだった。だが、あいつはもういない。だから俺は外に出ない。

墓はここでいい。


 自室の寝台の上で、膝立ちのまま彼を見上げた。

「いいのか」

 彼の影は揺らめいていた。その姿は水に広がる波紋のようでもあり、煙草の煙のようでもあった。

「ああ。もう、満足だ」

 本当は、もう少しあいつと生きていたかった。つまらない世界で、ずっとばかをやっていたかった。それが、俺の後悔だった。電池を入れ替えた目覚まし時計は、止まったままだった。

 でも、もういい。

 二つの原石を、両手に抱いた。

 これが見つかれば大丈夫だ。

  閉じられたカーテンの隙間から太陽の光が差し込む。外は今日も晴天で、噎せ返る暑さに包まれているのだ。肌寒い夜の公園が夢だったかのように、別の世界が広がっているのだ。

 化物じみた大きな手が、頬を撫でる。ごつごつとした節くれだった手だが、長い指の動きは気品があった。概念世界への案内役としてふさわしいと思えた。

 彼と目が合った。黒目がちな目は、深い水底の闇を湛えていた。その目がどんどん自分に近づいてきていた。

 口づけは、概念化するために必要な儀式なのだという。

 俺のファーストキスはこんな得体の知れない相手に奪われるのかと、半ば自嘲気味に笑った。

 愉快だった。

 はじめてのキスの相手が死なんて、面白いこともあるものだ。でも、それでいいと思えた。死は冷たく恐ろしく、こっちが傷つくくらい優しかった。

 覚悟を決めて、目を閉じた。ぬるいミルクのような優しい声が耳に滲む。

「サキ」

 自分を呼ぶ声に胸がざわめいた。

死の概念は、俺の名前を一度として呼んだことがあっただろうか。そもそも、自分を愛称で呼ぶのは同級生か、それこそチヤくらいだ。

 なぜその名で呼ぶのか、分からなかった。どことなく懐かしい声音に、ひどく胸が痛んだ。

『お前、本当にばかだな』

 ――なぜ、お前がそれを言う?

彼の口から零れ出たのは、嫌と言うほどチヤから聞かされた言葉だった。

 瞼の裏で、チヤが穏やかに笑っていた。俺にはそう見えた。

「お前、まさか――」

 もう一度彼に会いたかった。

もう一度話をしたかった。

 もう一度でいい。この目で見たい。


 そんな俺の願望は、まさしく生への渇望であったのかもしれない。


「チヤ」

 彼の名前を呼んだ。目をつむっていても、俺の世界に影が広がっていくのが分かった。もう二度と彼を見失わないように、彼の体に縋った。

 目を開けると、映るのはどこまでも広がる深い闇だった。




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