八月十四日 2
◆◆◆
遅めの朝食をとってから、黒い半袖のパーカーに着替えて外に出た。
足首をベルトで締めるタイプのサンダルは今年の夏に買ったものだ。足首の綺麗に見える装飾品や履物が好きで、よく買ってしまう。
灰色の雲が空に広がっている。これは一降りきそうだと足を速めた。
足音は聞こえないが、死の概念が俺の後ろをついてまわっていた。顔だけ振り返ってみると、彼はそこにいるのが当然とでも言うように背筋を伸ばしていた。
「なあ、お前は俺以外には基本的に見えないんだろ?」
「そうだ」
通常の声量で話してしまい、慌てて声を低くした。
「じゃあここでお前に話しかけたら、かなり痛い人に見られるってわけか……」
車道の脇を歩いて、視線を前に戻した。盆の時期だからか歩いている人影がちらほらと見られる。もう一度顔を後ろに向けると、死の概念越しに子ども連れの女性と目が合った。露骨に視線を逸らされた。
慌てて前を向いて、更に加速して歩く。いたたまれない。ただでさえ引きこもりで人と会っていないのに、こんなのは拷問すぎる。通りすがりの人に頭のおかしいやつと思われるのは恥ずかしい。
「どうした。同胞よ」
「…………」
頼むから話しかけてくれるな。
どんなに話しかけられても無視をする他ない。そうでなければ社会的死が待っている。もう明日にはいなくなるからいいんだけど! なかったことになるからいいんだけど! それとこれとは違う問題だから!
ずんずんと進んでいると、いきなり上から獣の顔が俺の視界を埋める。影の揺蕩う目が爛々と輝いていた。
「うわっ」
反射的に叫び声をあげて飛び跳ねてしまった。いきなり出てこられるのは心臓に悪すぎる。しかも、背後から「ママーあの人ー」「しっ!見ちゃいけません!」なんていうベタな会話が聞こえてくる始末だ。どこかで見たような反応をされるとは思っていなかった。珍しい経験をした。経験なんてしたくなかったけど。思わず遠くを見つめる。
この場所から逃げよう。コンクリートの地面を蹴って、俺は走った。
あの場に留まるのは恥ずかしくて死にそうだ。そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、走っている間も死の概念は俺の顔を覗き込んでくる。
「突然走り出して、どうかしたか」
「おめーのせいだよ!」
空気の読めない半獣に、人目を憚らず怒鳴った。
人気のないところまで一気に駆け抜けた。がむしゃらに走り続けていたら、いつの間にかチヤの家に辿りついていたようだ。
車二台分の車庫の隣に、綺麗に掃除された玄関があるのだった。
息を整えてから扉の前に立った。白い扉は洋風で、比較的新しい建物であった。車が一台あったので、呼び鈴を鳴らせば誰かが出てくれるだろう。
今更訪れて、なんになる?
走っているうちは頭の中は真っ白だった。だが、この白い扉を見た瞬間、不安がじわじわと脳を侵食しはじめる。チヤの家族も、きっと「なんで今更」と思うはずだ。葬式にも出なかった不誠実な人間を、あの厳格な家族が許してくれるとは考えられなかった。
俺はあまり気が強くない。チヤの家族は裕福だがそれゆえ躾も厳しく、俺なんかが彼らに責められればみっともなく泣いてしまうかもしれなかった。チヤのことは好きだったが、チヤの家族に対してはあまり良い印象を持っていなかった。
けれども訪問しなければならない。チヤが俺の後悔だと言うのなら。
なけなしの勇気を奮って、呼び鈴を鳴らした。
湿り気を帯びた風が頬を撫でる。八月の中旬だというのに、肌寒かった。
風も吹いている。鳥も鳴いている。だが、俺のいる世界は静寂に包まれていた。
やがて、白の扉が開いた。
「……どちらさまですか」
顔を扉から覗かせたのは、チヤの兄だった。
神経質そうな眼鏡越しの目は、鋭く俺を射抜いている。兄である時雨はチヤによく似ていたが、人に頓着しないチヤとは対照的に、この男は嫉妬心があり狡猾だった。
「えーと、あんたは……」
「お久しぶりです。咲夜です。チヤに会いに来ました」
チヤには申し訳ないが、既に帰りたかった。この時雨という男は陰険で、どうにも好きになれない。嫌味ったらしく眼鏡をあげるさまに胃がむかむかしてきた。
早く線香をあげて帰ろう。
そう思っていたのだが、時雨から予想だにしない返答がかえってきた。
「チヤ……? うちにはそんなやついないが」
「は?」
この男はなにを言っているんだ?
そのひねくれた性格は相変わらずらしい。時雨を観察しても怪しいところは特にないが、俺に意地悪をしているのははっきりとしていた。時雨は訝しげに眉間の皺を指でほぐしている。微かに困惑している時雨の姿を見て、ふつふつと怒りがわきあがる。
「あ、あんた……昔から嫌なやつだとは思ってたけど、それはねえだろ!」
「なに……?」
「そんなに俺のことが嫌いなのかよ!? チヤに会わせたくないくらい! そりゃ、葬式に出なかったけど……!」
「だから、なんの話かさっぱりだ」
素知らぬふりを続ける時雨の胸ぐらに掴みかかろうとしたとき、黙って傍で見ていた死の概念がこの場ではじめて口を開いた。
「待て。同胞よ」
なんだよ、と声もかけられない俺は、拳を握り締めて横目で睨む。隣にいる死の概念は、不思議そうに首を傾げ、俺の耳元で囁いた。
「この人間は、正しいようだ」
唇を噛んで、話の続きを聞く。
「この家から死人の匂いはしない。先祖の匂いもしない。生きた魂はいくつか存在するようだが」
どういうことだ。疑問の声は結局出せなかった。
「だが、我々と同じ匂いがするのだ。残留した気配が微かに感じ取れる。ここに一人の人間がいたことは確かだが、その存在証明ができぬ」
俺はただ、横目で彼を見上げることしかできない。
「ここにかつて概念化した人間がいたようだ。チヤという人間は、概念となった可能性が高い」
息がつまった。景色が、急に遠く感じられた。
呆然としている俺に、死の概念など見えない時雨が顔を顰める。
「もういいか? あんたと話してる暇はないんだが」
冷たく突き放したチヤの兄に、扉を固く閉じられた。
再び訪れる、静寂。
耳鳴りが鼓膜を震わせた。現実味のない音が脳を圧迫し、体の底から困惑を噴流させるのだった。
その後は呆とした意識を引きずり、なんとか家に帰った。途中でぱらぱらと雨が降ってきた。夏だというのに、やけに冷たい雨だった。
自分の家の扉を開け、閉める。そこでやっと自分の口から音が出た。
「どういうことなんだよ……?」
戸惑いで錯乱しそうになるのを堪えた。声に出せば気が狂ってしまいそうだった。
動揺する俺とは対照的に、死の概念は淡々とした声音で言う。
「概念化すると、存在がなかったこととなる。誰の記憶からも消され、生きていた証拠すら遺されない」
抑えようとした戸惑いは、冷静なその声に刺激されて、一気に押し寄せてきた。
「だったらおかしいだろ! なんで俺だけ覚えてるんだよ!?」
「少数だが、似たような事例はある。必ずしも覚えていないとは限らない。それがたまたま汝だっただけのこと」
「確かに俺は葬式にも呼ばれていない。だけど今まで気付かなかったってことあるかよ!?」
彼は神妙な面持ちで一つ頷いた。
「そもそも、汝の記憶は本当に正しいものなのか?」
死の概念は俺を指して言う。つやつやとした黒いショートグローブが、やけに目についた。
「チヤは俺の幻覚だったって……そう言いたいのか?」
「チヤという人間がいたことは我が保証しよう。彼は確かに存在していた。匂いで分かる」
「じゃあなんだってんだよ」
「自分だけ覚えているのに周囲が覚えていない。そんな状況は、集団行動を主とする人間には耐えられないのではないか?」
こいつは突拍子もないことを言っている。そう思うのに、胸がざわついた。
「……まあ、チヤが死んだ頃のことは、あんまり覚えてないけど」
「無意識に忘れようとしたのだろう。現実に目を背けるのは、人間にはよくあることだ」
そんなばかな。
彼の言い分を否定したいが、思い当たる節はあった。周囲からの冷たい視線は、今でもありありと思い出せる。かぶりを振って、脳内にかかるどす黒い靄を振り払う。
濡れた服に構わず、小中学校や高校の連絡網をある分だけ寄せ集めた。先ほど軽く降っていた雨は勢いを増し、激しく屋根を叩いていた。リビングのテーブルに広げた連絡網の紙が忌々しい。
「とりあえず、確認しないと……」
スマートフォンを取り出してダイヤル画面を指で叩くが、不安は潰れなかった。
まずは母の記憶を確認してみる。コール音が五回ほど鳴ってから、聞き慣れた母の声がした。
『どうしたの咲夜』
「母さん。あのさ、チヤのこと覚えてる?」
『チヤ?』
「ほら、ガキの頃から一緒にいた……眼鏡かけてるやつ。俺んちによく来てたし、母さんなら覚えてるだろって」
『はあ? あんた、友達連れてきたことなんてほとんどないじゃない』
母の容赦ない返答に、喉を鳴らしてしまう。冷や汗がどっと出た。
いや、そんなはずはない。俺だけ覚えてるなんて、そんなことは。
「なに言ってんだよ! 俺、ほとんどあいつと一緒にいたし、登下校だって……! 母さんが知らないわけないだろ!」
『えー、なに怒ってんの? そんなに怒ること?』
「……もういい。切るわ」
のんきな母との会話を途中で終わらせ、クラスメイトの番号へ次々にかけていく。チヤほど仲の良い友人はいないが、問題なく話せる程度の知り合いなら何人か知っている。誰かチヤを覚えていてほしい。だが、俺の願いは虚しく砕け散る。
高校の知り合いも、小中のクラスメイトも、誰もチヤを覚えていなかった。
「なんでだよ……!」
怒りが抑えきれず、ついテーブルを殴ってしまう。力をこめた拳がずきずきと痛んだ。なんでみんな忘れているんだ。なんで俺だけ覚えているんだ。
「見たまえ、同胞よ」
腹を立てる俺に死の概念は平然と話しかけてくる。思わず毒気が抜きかけたが、彼が持っているアルバムの中身を見て背筋が震えた。そこにはチヤとの写真が入っていたのだが、どの写真も俺一人しか写っていなかった。
入学式も卒業式も、いつでもチヤと二人で撮っていた。
このページにはキャンプの写真が貼ってあったはず。だが、俺が一人写っているだけで、チヤの姿はどこにもなかった。
「そんな……なんで」
「概念に変化すると、生者たちの記憶も書き換えられ、すべてなかったことになる」
死の概念は少し間を空けて、言い放った。
「汝もそうなるのだ」
息が詰まった。俺もこの世界から消える。チヤと同じように。
誰の記憶からも消されるのは、恐ろしいことのように思えた。自分の存在が消されるのも恐ろしいが、何よりも、誰もチヤを覚えていないことが怖かった。
俺のことはこの際どうでもいい。彼との思い出が夢のように霞んで消えていくのは、耐えられない。
「なんとかして……なんとかして、あいつが生きていた証拠を見つけださないと」
そうじゃないと狂いそうだ。頭蓋骨の内側が熱くてぼんやりとする。服の裾を握り締めていたら、死の概念の口が大きく裂けた。
「なぜそのモノに依存する?」
「……は?」
「どうやら、汝はチヤという人間にひどく執着しているようだ。人間が汝のように執着しているのは、あまり見たことがない。なぜだ?」
なぜだ?
問いを投げかけられ頭が真っ白になった。
俺はいつチヤと仲良くなった? もうずっとだ。物心ついた頃からずっと一緒にいた。昔過ぎて分からないくらい、幼い頃からチヤと一緒だった。いるのが当たり前だった。頼るのが当たり前だった。確かに、チヤ以外の他人に入れ込んだ経験はない。外から見れば、俺の感情はおかしいのかもしれなかった。
「……あいつが、」
苦し紛れの理由を絞り出す。
「俺だけに優しくするのが、可笑しかったから」
無理矢理発した言葉は、思いのほか自分の胸にすとんと落ちた。死の概念は不思議そうに首を傾げ、やがて「ふむ」と頷いた。
「感情というのは、奇妙だな」
彼の目は不自然に揺らいだ。迷子のような目だった。
「くるしい」
突然体の不調を訴えられ、つい困惑する。
「調子が悪いのか?」
「概念に体調の善し悪しなどない。……そうではないのだ」
死の概念は怪物じみた長い指を広げ、胸のあたりをさすった。
「このあたりが、やけに不快だ」
「ふーん……」
「汝には分かるか?」
「うーん、分かるような、分からないような……」
「人間はこういう感覚に襲われるのか。汝も難儀だな」
この死の概念というのは、誰もがこいつのように鈍感なのだろうか。「死」は冷たく恐ろしい印象だったのだが、意外と慣れてしまえば愛嬌のあるやつだ。人間に寄り添う姿勢すら見せる彼に笑うしかなかった。
「お前も優しいやつだよな」
「優しい……?」
「こうやって俺のくだらないことに付き合ってくれるしさ」
「くだらなくはないだろう。悔いを遺さないのは重要なことだ。我々にとっても、人間にとってもな」
「あー……そのことなんだけどさ」
彼が開きっぱなしにしていたアルバムを受け取って、静かに閉じる。
「俺の悔いは、あんたがどんなに手伝ってくれても遺る……と思う」
「なに?」
露骨に眼光がきつくなった死の概念に苦笑する。最初はえたいのしれない不気味さを恐れたものだが、次第に死の概念の表情が少しずつ分かるようになってきた。
「そんなもんだよ、人間って」
そう言うと、死の概念はふてくされた様子で「そうか」と返した。いまいち納得ができていないみたいだ。笑いかけてみると、死の概念はあからさまにそっぽをむく。
「これからどうする」
そっぽをむいた死の概念は、口の隙間から息を吐き、いきなり問いかけてきた。
「どうするって?」
「『チヤに会いに行く』願いは達成されないと分かった今、汝にできることはもうないのではないか?」
死の概念はゆっくりと顔をこちらに向ける。
「少し早いが、概念化するか?」
「それは……もう少し待ってくれないか? せめて、一つくらいはあいつの生きていた証拠を見つけたい」
たとえあいつの存在がもう世界から消えているとしても、どうしても譲れないものがある。自分の記憶を証明したい。チヤと過ごした十八年間を、簡単になくしたくはなかった。
じっとこちらを見つめる彼に頼み込むと、彼は静かに息を吐いた。それは諦念でも呆れでもない、不思議な息遣いだった。
彼が緩やかな足取りで近づいてくる。その巨躯に改めて唖然とした。自分もそこまで身長は低くないとは思うのだが、俺の頭は彼の胸あたりだった。
彼の腕が広がり、死の概念に体を抱きとめられた。狭い押入れで毛布にくるまっているような安心感があった。
「これが寂しいという感情なのだろうな」
死の概念は静謐な声で呟いた。彼の声色は、言葉のとおり寂しげだった。
「汝を見ていると、寂しい。汝はずっと一人で立っている。だからこそ、死に近しい人間となったのだろうが」
「俺が生きているのは、チヤがいたからだよ」
今までチヤが俺を現世に繋ぎとめていたのだ。チヤがいなくなってからも、ずっと、チヤが生を繋げていた。今更気づくなんて。死がやってきてから気づくなんて、あまりにもばかげているけれど。
俺は腕を彼の背にまわして、抱き返した。
「ありがとう。俺に寄り添ってくれて」
死の概念に温もりなどないのに、ひどく温かく感じた。最初は寒いとさえ思っていたのに、今はこんなに心地がいい。
「お前が寄り添ってくれなかったら、気づかなかったよ」
大きく息を吸い込む。彼から凝縮した水の匂いがした。この匂いに覚えがあった。
チヤの匂いだ。
あの頃にはもう、チヤは死に魅入られていたのだろうか。その冷然とした匂いには、死の実感があった。
彼の胸に手を置いて、体を離した。彼を見上げると、相変わらず夜の海のような目をこちらに向けていた。
「生きていた証だが、あてはあるのか」
「ひとつだけある。ついてきてくれ」
踵を返し、リビングから出た。階段をのぼって自分の部屋へ向かう。部屋へ入ると、カーテンの開かれた窓が目についた。生憎の雨天で太陽光は入ってこないが、カーテンを閉め切っていた頃よりはマシだった。 夏場の間中つけっぱなしのエアコンは、今は作動させていない。
机の引き出しを開け、奥に放り投げたものをまさぐる。今朝、確認しようとして結局確認できなかった贈り物に、今度は躊躇いもなく触れた。
「これだ」
後ろについてきていた死の概念に紙袋を見せる。
「あいつから渡されたものだ」
「興味深いな。物が残っているとは」
死の概念は指先で顎を撫でた。
「汝よ、これは『生きていた証』なのではないか? 少なくとも存在の証明にはなる」
「まあ、そうなんだけどさ……なんか忘れてる気がするんだよな」
頭の中で薄く靄がかかっている記憶がある。なにか他に大切なものを忘れている気がするのだ。その違和感は胸にじわじわと広がるが、その正体は判明できていない。
はは、と乾いた笑いがこぼれた。
うん、と一つ頷いて紙袋を慎重に開封した。躊躇いもなく触ることはできたが、指先の震えは止まらなかった。
紙袋を逆さまにして、小さい原石と紙を手のひらで受け止める。とりあえず石を服のポケットにしまい、今まで怖くて読めなかった紙に目を通した。
『八月十五日 AM五時 公園』
恨みつらみが書かれていると思っていた紙には、それしか書いていなかった。
「なんだ? これ……」
さすがにこれだけの情報からすべてを読み取るのは難しかった。
「なにか思い出すことはないか?」
「八月十五日か。あいつがいなくなったあたりは、そのくらいの時期だったけど」
「八月十五日は明日だな」
「この日に公園に行けってことか? ……公園? 公園って……あ」
一度しまった石を取り出して確認する。オーロラに惹かれる黒い石だ。どこかで見たことのある石だと思っていたが、まさかあのときの石なのか。あいつと石を埋めたのはもう五年も前だ。
「あいつ、覚えてたのか」
俺なんて夢に現れるまですっかり忘れていたというのに、チヤは覚えていたのだ。忘れていたのは周囲の人間だけじゃない。俺もチヤのことを忘れていた。覚えていたのは、最初からチヤだけだったのか。チヤだけが、俺との思い出を覚えていてくれた。石を握る手に力がこもった。
チヤ。お前、本当にばかだな。人のこと言えないじゃないか。