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八月十四日

布団の中で目が覚めた。

 随分と懐かしい夢を見た。閉めきったカーテンを開くと、雲に覆われた空があった。このカーテンを開くのは何ヶ月ぶりだろう。

 床には目覚まし時計が転がっていた。毛布を被った拍子に落ちてしまったのだろう。

 床に転がった目覚まし時計を拾い、ベッドサイドに置きなおす。目覚まし時計はあの日と変わらず、十一時を示していた。

 様子のおかしいチヤを窓から見下ろしたあの日、俺はなにかを間違ったのだ。

 せめて彼の気持ちを少しでも汲み取っていれば、察していれば。チヤは自分の前から姿を消さなかったのではないか。何度も無益なことを考え、悲嘆の海に沈んだ。どんなに後悔してももう彼は戻ってこないのに。

 しかし暗欝に沈んだ日々もあと一日で終わる。自分を思い出す人もいなくなり、自分もチヤを思い出さなくてすむ。やっと自分はあの少年から解放されるのだ。

いいことじゃないか。そう、思うのに。

「チヤ、俺……」

 お前のこと、忘れたくない。

 言い出しかけた言葉を飲み込んで、机の引き出しを開けた。

 あの日、俺はチヤから石をもらったはずだ。十八の夏、受験勉強で忙しかったあの時期、チヤは俺の家に寄ったのだ。

 紙袋の中に、紙片が入っていなかったか?

 あいつがいなくなってから、恐ろしくて確認できていなかった袋の中身。見てしまったらもう二度と会えなくなる気がして、確認できなかった。でもどうせもう彼には会えないのだ。人間ではなくなるのだから。ならば、今確認したほうがいいだろう。

 引き出しの奥にしまっていた贈り物に触れようとした。

 やっぱり怖かった。

 紙に書かれている内容がもし自分宛だったら? 恨みつらみが書かれていたら? なんの変哲もない店のカードだったら? チヤの痕跡が何もなかったら?

 どれもこれもが恐ろしくて、引き出しを閉めてしまった。また、見なかったふりをした。

 煮え切らない心を引きずって、自分はどこへ連れていかれるというのか。

 せめてチヤが連れていってくれたら、怖い思いをしなくていいのに。

 あの日、チヤは俺を連れていってはくれなかった。

 夕闇の中、彼は背を向けて一人で立ち去ってしまった。

「……連れていけって、約束したのにな」

 自嘲気味に呟いて、俺は部屋を出た。

 リビングに足を運ぶと、死の概念が本棚の前で立ち呆けていた。声をかけると、死の概念はゆっくりとこちらに視線を移し、黒々とした獣の目でまじまじと見つめるのだった。

「覚悟ができたようだな」

「さあ、どうだかな」

 死の概念は足音を立てずにこちらへ歩み寄ってくる。その佇まいは本物の執事のようで、一般家庭の家には馴染まない。俺はヤギだかヒツジだかライオンだか判別つかないそいつに言った。

「お前、悔いを解消するための助手になってくれるんだろ」

「ああ」

「なら、ついてこいよ」

 この言い方だと高圧的かもしれない。一拍置いたが、やはり適切な言葉が出てこない。

「ついてくるだけでいいから」

「了解した」 

傷ついた顔一つせず、淡々とした死の概念の態度に一つ安堵の息を吐いた。どうやら彼はなんとも思っていないらしい。

「チヤに会いに行こうと思うんだ」

「チヤ……?」

「俺の友達だよ。もう死んじまったけどな」

 死の概念は首を傾げて、考え込むそぶりをした。

「どうした?」

「死者には会えないだろう」

「俺、あいつの葬式に行ってないんだよ。呼ばれもしなかったし、行く気もなかった。だから、あいつの家にさ、ちょちょいと線香あげに行くのさ」

「行ってどうにかなるのか?」

「うーん、特になんもないけど。俺が後悔してるって言ったら、それこそチヤのことくらいだし。チヤが生きていたってのを感じられたら、それで満足すると思うんだ」

「そうか」

 世界が忘れたチヤの断片を拾えたらそれでいい。彼が生きていたという確証が欲しい。

 夕闇の空に溶けた彼の姿と、死の概念の姿が重なった。

「汝が満足するのなら、それでいい」

「優しいな」

「同胞だからな。それに、人間の感情を理解できなくはないのだ」

「へえ」

「我が人間だった名残だろうな」

「お前、人間だったの?」

 彼の口が大きく裂けた。獰猛な肉食獣の牙が見えた。笑っているのだろうか。

「生者の世界で生きていた頃の記憶はないが、人間を見ていると、ひどく懐かしく思えるのだ」

「記憶がないのに?」

「そうだ。人間を見ていて広がるのは、憧憬と、望郷の念、そして嫌悪」

「人間が嫌いなのか?」

「嫌悪と言えども、嫌いではない」

「じゃあ、不快ってことか」

「不快……」

 彼は口を閉じて首を傾げる。

「不思議なものだ」

「なにが?」

「汝には優しくしたいと思える」

「へえ」

「本来、我々の感情は希薄なのだが」

「俺が仲間になるからじゃねーの? 新人優遇ってやつ?」

「ふむ、そうかもしれぬ」

 あまりにも真剣な声音で納得されてしまう。冗談が通じないタイプか。自分も冗談が分からない人間だから、助かるといえば助かるのだが。

 ダイニングテーブルの椅子にかかっている赤いチェックのエプロンを身につけた。行動に移す前にまずは腹ごしらえだ。冷蔵庫を開けて具材を確かめる。作るのはやはり面倒くさい。目玉焼きで済ませよう。

「飯食ったらすぐ出るから。ちょっと待ってて」

「分かった」

 卵を二つ取り戻ろうとすると、すぐ近くに死の概念が立っていた。ぎょっとして、つい後ずさる。彼に敵意がないのは理解しているつもりだが、いきなり距離を詰められるとさすがに恐ろしい。

「お前、その距離感どうにかしろ……」

 声が上ずる俺をよそに、死の概念は口を開いた。

「一つ、頼みがあるのだが」

「なんだ?」

 すると、彼は巨躯を揺らしそわそわとし始めた。彼は口にするのを躊躇っていたが、見つめ返していたままでいると、弱々しく頼みごとをしてきた。

「家を出る前に、一つ「けえき」をいただきたいのだが……」

 もじもじと恥じらう様子は、思春期の少年のようだった。


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