十三歳の夜
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十三歳の夜、二人で家を抜け出したことがある。
その年は本家へ行かなかった。これは子どもの推測でしかないが、父と親戚の伯父が喧嘩したのだ。
大人の事情は子どもに伝わらない。二人が喧嘩していなければ、あのとき伯父は自分の家を訪れてはこなかった。
父が留守のときに殴り込んできた伯父は、中学生になりたての俺に説教していた。なんてことのない、大人がよくやるストレス発散法だ。
なぜ大人はすぐに自分の正当性を示そうとするのか。「もっと人前に出るようにしろ」「そんなことじゃ立派な大人になれんぞ」なんてのは、当時の自分にはきつい言葉だった。
小さい頃から友達を多くつくらず、自分の世界に引きこもりがちだった。それが「絶対的に正しい」と自分自身で信じてやれれば良かったのだが、実際のところ明るくない性質を気にしていた。社会というものは明るいものを好む。色にしろ人柄にしろ、前向きなほうがより良いと思っているのだ。
人柄に正解などない。どんな人間が生きていてもいい。
しかし幼い自分は、そんな簡単な事実に気づかなかった。だから大人の余計な説教に振り回された。
説教の詳しい内容はあまり覚えていない。大人の憂さ晴らしに付き合わされた俺は、伯父から逃げるために家を飛び出した。
ポケットに入っているのは、キャラクター物の小さな小銭入れだけ。
とにかく逃げたくて、夕闇の空の下をひたすら走った。やっと足をとめたのは、小さな信号機の前だった。
通学路にもなっている横断歩道には、退勤途中のサラリーマンが多く見られた。自分と同じ年頃の人間は見受けられない。
はやく青になってくれないだろうか。気は急いてばかりだ。母が心配するだろうが、もう家に帰りたくなかった。
もう少しで信号が青になる。そわそわしていると、いつの間にか隣に同じ背格好の人間が立っていた。一応周りを見たのに、その人間が近づくまで気づかなかった。
「おい。どうした」
聞き慣れた声がした。保育園の頃からずっと一緒にいる、腐れ縁の少年の声が。
鞄を肩にかけたチヤが、自分をまっすぐな目で見つめていた。
チヤの澄んだ瞳に、すべてを見透かされた気がした。
劣等感も被害者意識も、傷つけられた自尊心も、全部知られてしまったと思った。
そして、知られたことにどうしようもなく安らいだ。視界が歪んで、涙が頬に流れた。信号は青になっていたけれど、俺は泣くのをやめられなかった。
泣きやまない俺の手を引いて、チヤは歩いていた。俺やチヤの家から逆方向に進んでいるようだった。チヤはどこに行こうとしているのだろう。泣きやむ頃には、日はすっかり暮れていた。
とりあえず二人でコンビニへ行き、おにぎりと飲み物、お菓子を買った。
チヤがやたらとケーキ類を進めるので、気は進まないがショコラケーキを買った。飲み物はいつもの無糖コーヒー。チヤはケーキの他にシュークリームを買っていた。
チヤは甘いものが好きだが、俺はあまり好まなかった。甘いものが苦手だと言ったのだが、チヤは「苦いものには甘いものだろ」といい加減なことを言うのだった。お前だって甘いものに甘い飲み物を合わせているじゃないか。彼の片手に握られた苺ミルクのパッケージを見て、呆れ果てた。
それからチヤに先導され、夜の公園に足を運んだ。あたりはもう真っ暗だ。こんな時間に一人で出歩くのは数回しかない。胸が押しつぶされそうな闇の圧迫感にどきどきする。そんな俺を知ってか知らずか、チヤが公園の街灯の下に立った。彼の真っ青なカーディガンが映えて見えた。
「ここでしばらく籠城だな」
「ろうじょう……?」
「逃げてんだろ、お前」
そう指摘され、ただでさえ騒がしい心臓が激しく音を立てた。
街灯には蛾が群がっている。ばちばちと体当たりしているのが気に食わないのか、チヤは場所を変えてベンチに座った。俺もチヤに倣って隣に座ると、彼は冷静な声で話題をふってきた。
「なんだ? おばさんと喧嘩したのか?」
「うん……。母さんじゃないけど、そんなとこ」
「そっか。じゃあ尚更籠城しないとな」
「さっきからろうじょうって言ってるけど、なんなんだよ、それ」
「攻められたら守らないといけないだろ」
「お前の言ってる意味が分からない」
ちんぷんかんぷんなことばかり言うチヤに唇を尖らせると、珍しく笑みを向けられた。彼の笑顔がなんだかくすぐったくて、見てはいけないもののような気がして視線をそらす。次に視線を向けたときは、彼はいつもどおりの無表情に戻っていた。
淡々としたリズムでおにぎりを頬張りはじめた彼の真似をして、俺もおにぎりに食らいついた。二つのおにぎりの具は、たらこと筋子だ。
食べ終わると、俺とチヤは滑り台の上までのぼって、二人で座り込んだ。夏といえどもさすがに夜は冷える。つい身震いすると、チヤが青いカーディガンを広げて俺の肩にもかけてくれた。人と寄り添えば、幾分か寒さが紛れる。
街灯に照らされた時計の針が九に差しかかる頃、やっとチヤはケーキとシュークリームを取り出して食べ始めた。どう考えてもその菓子類と苺ミルクは甘すぎるだろう。心の中で思いつつも、自分も買ってきたショコラケーキを取り出して口に運ぶ。むせかえるチョコレートの匂いに、胸がいっぱいになった。やっぱり甘いものは苦手だ。まだ一度も口をつけていなかったコーヒーを飲みながら、なんとかケーキを消化していった。
お腹が膨れると、途端に不安になってきた。今頃母は心配して自分を探しているだろう。なにも家を出ることはなかったかもしれない。また、成り行きとはいえチヤを道連れにしているのも気が引けた。
夜の闇が怖くて、チヤの肩に頭を傾けた。
「サキ」
「なんだよ」
「怖いのか?」
「……なんでそんなこと聞くんだよ」
「震えてるから」
指摘されて、自分の体が震えていたのをはじめて自覚した。寒さのせいか、それとも怖いからか。見下ろした手のひらは微かに震えていた。俺の震える手を、チヤは抑え込むように握った。チヤは元々体温が低いけれど、そんな彼の手のひらがとても温かく感じた。
「こわくない」
「嘘だな」
「こわくねえよ! ……でもやっぱ、こわいかも」
「変なところで意地っ張りだよな、お前はさ」
「こんな時間に外に出たことあんまないし。……母さん、心配してるかも」
「心配してるだろ。そりゃあ」
「チヤのとこだって、おばさん心配してるんじゃねえの?」
「俺はどうでもいいんだよ。塾で遅くなる日もあるし」
時計の長い針が十を指す頃、急激に眠気が襲ってくる。
ずっと気を張っていたせいだろうか、チヤのぬくもりが心地よかった。チヤは無愛想だが、頼りになるやつなのだ。
俺はチヤにもたれかかりながら、思わず本音を呟いてしまった。
「……お前って本当にしっかりものだよな」
「は? いきなり何言ってんだよ」
「いっつもお前に迷惑かけてる気がする」
口にしてしまうと、一気に感情が押し寄せてくる。
チヤはいつでもどこでも頼りになった。
無愛想だがしっかり者で、周りになんと言われようと常に胸を張って堂々としている少年だった。かくいう俺は、チヤほど社交性がないわけではなかったが、内向的で気が弱かった。意地っ張りであるため虚勢は張れるが、先生の叱責に一晩中泣いてしまうこともあった。誰かに責められたとき、攻撃されたとき。睨みかえしはするが言い返せはしなかった。自分の不甲斐なさにやりきれず、悲しくなって泣くばかりであった。
そんな時に俺を庇ってくれるのが、チヤという少年だった。
いつだってチヤと一緒にいた。学校でも休日でも、二人でいろんなところを冒険し、二人で困難に挑んだ。しかしふとした瞬間思い出すのだ。彼は自分の力になってくれるが、自分は彼のことを何ひとつ支えてやれていないことを。
俺の心をすべて見ているかのように、チヤは断言する。
「お前、ばかだな」
「ひどいな。俺は真面目に……」
「俺は迷惑だなんて思ってない」
あまりにはっきりと言うものだから、言葉を失ってしまう。チヤは公園の街灯を見据えながら、いつもの調子で淡々と口を開く。
「お前のことだからどうせ、いつも自分ばっかり助けてもらってるとか思ってんだろ」
言い当てられ、ギクリとした。
唇を噛む俺に構わず、チヤは続ける。
「実際そうだけど、事実は違う。俺がお前といたいから、お前を助けてるんだ」
「なに言ってるんだよ……」
「お前と一緒にいられる口実がほしいんだよ。俺は」
「……はあ!?」
恥ずかしげもなく平然とのたまう少年に、目を見張って声を荒らげた。よくそんな恥ずかしいことを淡々と言えるものだ。急激に熱がたまる。本音を言い合うのは恥ずかしいのだと改めて学んだ。つんとすましたチヤの態度に、諦めの境地でため息をついた。
「ばっかじゃねえの? よくそんな恥ずかしいこと言えんな」
「お前ばかだから、そこまで言わないと分からないだろ」
「ばかばか言うな。おに。あくま。れいけつかん」
罵倒の言葉は、眠気のせいで棘がなかった。それでも動揺を隠しきれない俺とは対照的に、チヤは静かにため息をついた。
「……それに、助けてるのは俺じゃない」
「は?」
「お前が俺を助けてくれたから、助けるんだ。ずっと一人だった俺に、サキだけが一緒にいてくれた」
「あー、保育園の頃か? あんま覚えてないけど……よく覚えてるなあ、チヤは」
俺は覚えていないが、チヤの話によると、最初に話しかけたのは俺らしい。保育園の頃のことなんて大体忘れるものだが、当時を覚えているチヤは地頭がいいのだろう。
「お前は忘れてていいんだよ。俺だけ覚えてたらいい」
「結構うわさは周りから聞くけど、浮いてたんだっけか、お前」
「そうだ。ずっと俺にまとわりついていたからな、あれが」
「あの、『奴ら』ってのか」
「ああ」
チヤは朴訥とした口調で答えた。
「奴らは普段俺なんかに興味を持たないが、ふと後ろを見るとすぐ傍で立っている。奴らに見られると、なんだか寒気がするんだ。きっといつか、奴らに連れていかれる」
「ふーん……それについていくのか?」
「そうなるだろうな」
チヤは幼い頃から、「奴ら」が見えるのだと怯えた様子で喋るのだった。その奇妙な言動から、チヤは人に避けられていた。近頃はなりを潜めていたが、俺にだけ時折話すことがあった。チヤの話は半信半疑で聞いていたが、彼は本気で口にしていた。奴らは真っ黒な姿で、まるで死神なのだという。
俺にも見えたら良かったのにな。
そしたらチヤは一人にならないですんだのかもしれない。
頭がぼうっとしてくる。霞む視界、微睡みの中、力の入らない手でチヤの手を握り返す。
「じゃあさ、そのときは俺も一緒に連れてけよ」
「サキ、それは……」
「約束」
そこで一旦意識が絶えた。身震いしてしまうほど寒い暗黒空間で、チヤが一人で立っているのが見えた。黒い靄のかかるチヤに手を伸ばすが、彼は背を向けてどこかへ消えてしまうのだった。
あてもない暗闇に押しつぶされそうになりながら、チヤを探す。
どこにいるんだ。見えない。全然見えないよ。チヤ。一人にさせたくないのに。また一人を選ぶのか、お前は。
鼻の奥がつんとして、声も出せなかった。闇は不安を増長させる。自分一人じゃ耐えられない。
一人に耐えられないのはチヤではなく自分なのだと悟った。
やがて低い声がどこからか聞こえてくる。俺を呼ぶ優しい声だ。声の持ち主を探すため、がむしゃらに走る。そうしていると、やがて光が視界に広がった。
チヤがいたずら小僧のような表情を浮かべて俺の肩を揺すっていた。どうやら夢を見ていたようだ。いつの間にか眠っていたらしい。
「サキ、起きたか」
「ああ……? どうしたんだよ」
「いいこと思いついたんだよ」
チヤは不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。俺が寝ている間に手を離したらしい。左手にはぬくもりがまだ残っていた。内心寂しく思ってしまう自分とは反対に、チヤは意気揚々と滑り台から降りる。早く来いよと急かされるが、寝起きの体はすぐには動かせなかった。
時間を確認すると、時刻は四時十五分を過ぎていた。そろそろ夜明けがくる。結局丸々、夜の公園で過ごしてしまった。母への申し訳なさが胸に広がる。だが、チヤがいたから寂しくなかった。
ゆったりとした足取りで滑り台から降りると、鞄からチヤは二つの石を取り出した。
「なんだそれ……?」
「……マーと……ドライトだ。母さんのコレクションからくすねてきた」
真面目の模範生みたいなチヤからくすねるという言葉が出てきたのは意外だった。
「どっちが……マーで、どっちがらぶとら……?」
「……ドライト、な。黒っぽいのが……ドライトで、水色のほうが……マーだ」
「へえーきれいだな。特にこの……ドライトなんて、オーロラっぽいし」
「じゃ、こっちにするか」
チヤは黒めの石を巾着の中にしまう。鞄の中身を盗み見ると教科書類が入っていた。やっぱり塾にでも行っていたのか。そうして自分に差し出してきたのは、しまったほうの石ではなく、澄んだ水色をした原石だった。
「それをどうするんだ?」
「埋めるんだよ」
「は?」
「だから、埋めるんだよ。サキが反抗期をおこした記念にな」
「なんだそれ」
あまりにも自信満々に言われてしまい、思わず笑いが漏れた。
やると決めてからの行動は早かった。チヤはカーディガンと同じ青のハンカチを取り出し、その石を包んだ。
埋めるところはツツジの花が咲く街灯下の地面にした。俺たちは土を大きな石などを使い、穴を掘る作業をはじめた。
「なんかさ、その石」
「なんだ」
「水みたいだよな。テレビでよく見る、海外かどっかのきれいな水」
「ああ……」
チヤは手を動かしながら淡々と答える。
「確かに、海を連想させる色ではあるな」
わらわらと出てくる虫に躊躇いながらなんとか小さい穴を作った。ハンカチに包んだ原石を、空になったコンビニのビニール袋に入れた。ビニール袋に包まれた原石をチヤはそっと穴の中に置いた。特に悪いことをしているわけではないのに、なぜかどきどきした。二人だけの秘密に高揚した。
石を土に埋める作業が始まる。ビニール袋の上に土が降りかかる。夜のサスペンスドラマで死体を埋めるシーンがあったが、その行為と少しだけ似ていた。
作業は滞りなく終わった。疲れたのか、チヤは立ち上がって足を伸ばす。俺は地面を呆然と眺め、動かずにいた。
「おい、サキ」
チヤに呼ばれてやっと顔をあげる。見上げると、チヤは黄金に輝きはじめた太陽に顔を向けていた。
「見ろ、夜明けだ」
チヤに導かれ、俺は立ち上がった。空は紫色に明るくなっていた。夜明けと夕暮れは似ているのだと知った。
自分に背を向けて夜明けの空を眺めているチヤに、手が届かないと感じた。
いつまで俺たちは共に歩んでいけるだろうか。それすらも分からないまま。胸に残る不安も拭えず、泣くのを懸命にこらえた。
願わくば、もう一人になりませんように。
そう、願わずにはいられなかった。