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八月十三日 2

◆◆◆


 母が家を出てから、理解の範疇を超えるそれと二人きりになった。

 人と呼んでいいのかも分からないが、一応人型ではあるから、人にカウントしてもいいだろう。……多分。

 二人だけになるのが怖かったので、しばらくの間、母のいるリビングでテレビを見ていた。恋愛要素のあるドラマを母と観賞するのはいたたまれなかったが、背に腹はかえられない。しかし頼みの綱である母も出て行ってしまい、それと二人きりになった。なんといっても両親は今日から三日ほど帰ってこないのだ。避け続けるわけにもいかなくなった。自分一人で向き合っていくしかない。

 その生き物はやたらと自分の傍に寄りたがる。

「怖いからもう少し離れてくれ」

小さい声で言うと、それは素直に従って自分と距離をとった。

太陽の日差しが窓から差込み、部屋をひだまり色に明るく染める。光に満ち溢れた空間で、圧倒的な黒がくっきりと形づいているのだった。

 それは疲れの色すら見せず、ずっと立ち尽くしていた。ひたすら俺だけを食い入るように見つめている。不審者のような異様な態度はただ俺の恐怖心を煽るだけだ。

「とりあえず座れよ。ずっと立ってると疲れるだろ」

 座るよう促すと、それは大きい口を開いた。口から見える牙は狼のようだ。

「我に疲労の概念は存在しない」

「立たれてると怖いんだよ。あんた、でかいから」

「承知した」

 面倒な屁理屈を言われそうだったが、意外にもこの生き物は素直に俺の頼みを聞いてくれた。

「なにか飲むか?」

「この姿になってから人間の食べ物は口にしたことがない」

「やっぱあんた、幽霊とか妖怪とか、そういう感じのやつ? ていうか飲めるの?」

「興味の対象となれば、実態を持たない我でも触れられる」

「じゃあ適当にコーヒーでいいか?」

「好きにせよ」

 それは底から響くような低い声で話す。言葉遣いに圧はあるが、口調そのものは穏やかだ。質の良い黒の燕尾服のせいか、英国紳士然とした雰囲気がある。ダンディーとは、きっと彼のような人を指すのだろう。

 コーヒーメイカーで製造される黒い滴を眺めながら、謎に包まれた異人に問いかける。

「多分俺に用があるんだろうけど、なんなんだ?」

「汝は概念に選ばれた」

「……あんたさあ、回りくどいんだよな。もっと俺に分かりやすく言ってくれない?」

 難色を示してみると、それはこくりと頷いた。

「ふむ。確かに、人間には理解しがたいかもしれぬ。説明しよう」

 背筋を伸ばして椅子に座るそれは、日常の風景とは相容れないものだった。

「汝が見ている世界は、一方向から見ている世界に過ぎない。世界とは「複数の世界」が混ざり合って構成されている」

「どういうことだ?」

 唐突に難しい話をふられ、首をひねるしかない。距離感が近いわりに俺の理解速度には擦り寄ってくれないのか。

それは構わず話を続けた。

「汝は視認できないが、生者の世界と死者の世界は混ざり合っている。人間の言う「心霊体験」とは、いくらかの条件が合致して、普段視認できない死者の世界を覗いた結果だ」

「……混ざり合ってるってことは、俺が今いるこの場所も、死者の世界であり生者の世界ということか?」

「そうだ。その二つだけではなく、様々な世界が複数混ざり合っているのだが……汝には難しい話だろう」

 カップにコーヒーを注ぎ、彼の前に置く。ついでに甘いものでも貢いでおくか。確か冷蔵庫にケーキがあったはずだ。「我々は、複合した世界を繋ぐ『概念』だ」

「概念……?」

聞き返しながら冷蔵庫を開け、物色する。

「例えばこのコーヒーだが、コーヒーの概念が存在しているからこそ汝はコーヒーだと認識できる。人間の文明が発達するたびに概念は増えていく。人間は当たり前のように認識しているから、実感としてわかないのかもしれぬ」

「ふうん。じゃあ、あんたはなんの概念なわけ?」

「死だ」

 冷蔵庫からケーキを取り出そうとしたが、「死」の単語に手を止めてしまう。

「死の概念……要するに我々だが、ここ数日の合間に希薄になった。欠員が出たのだ。そこで、我々はより死に近い人間を概念化し、補完することにした」

「その死に近い人間ってのが、俺か」

「そうだ」

 死という単語を聞いても、感情が湧き上がってこない。そうか、としか思えなかった。やっと俺はあいつのしがらみから抜け出せるのか、とも思った。

「俺は死ぬのか?」

「違う」 

 それは……「死の概念」は、カップを持ち上げコーヒーに口をつけた。人間の口をしていないのに随分器用な動作だ。その丁寧な所作は、指先まで気品に溢れていた。

「はじめから無かったことになる」

 コーヒーが口に合わなかったのか、死の概念は苦々しげに言った。

「……そっか」

 ケーキを取り出して冷蔵庫の扉を閉めた。ケーキを目の前に置くと、死の概念は首を傾げた。

「やるよ。俺、甘いの嫌いだし」

「そうか」

 死の概念は巨躯に合わない小さめのフォークでショートケーキをつつく。もしかすると甘いものが好きなのかもしれない。そういえば、砂糖とミルクを準備するのを忘れていた。

「で、俺はいつ、その『概念』とやらになるんだ?」

「今と言いたいところだが、そういうわけにもいかない」

 砂糖とミルクを準備してやるが、死の概念はそれらに見向きもせず興味深そうにケーキを見ている。

「どうやら汝には悔いがあるようだ。その意思が概念化を阻んでいる。悔いを解消するための助手として、我が代表となり汝との接触をはかった。それが事の次第だ」

「悔い、ねえ……」

 俺も椅子に座りコーヒーを啜った。

 後悔か。そんなもの、もうないのだけれど。

 生に執着する理由も特にない。あいつのことを忘れられるのならもうどうだって良かった。

 そう、悔いなんてないはずなのだ。それなのに。

 思い悩んでしまう俺とは対照的に、死の概念はぱくぱくとのんきにケーキを食べている。やはり甘党だったらしい。随分フォークが進むようだ。奇怪な外見とは裏腹にかわいいところがあるじゃないか。一向に飲み干せない自分用のコーヒーを啜りながら、彼が食べ終わるのを待つことにした。

 ケーキの崩れていく様があまりにも平凡だ。

 こんなにも平凡なのに、なにも平凡じゃない。

 最後のひとかけらを食べ終わった後、死の概念は突拍子もないことを言い始めた。

「さて、気になることがあるのだが」

「なんだ?」

「この部屋から死臭がするのだ」

「はあ!?」

 目玉が飛び出かけ、つい大声を出してしまった。この部屋に死体があるとでも言いたいのか。もちろん、人見知りが激しく小心者な自分が殺人などできるはずもないし、覚えもない。

「それ、どういう意味だよ」

「死臭といっても人間の死体ではない。死の概念の匂いがするのだ。残り香かもしれぬ。この部屋だけではなく、汝が先程籠っていた場所にも香っていた。死の概念として、把握しておかねばなるまい」

 慌てる俺を差し置き、死の概念は部屋を見回した。

 緩やかに椅子から立ち上がった死の概念は、リビングの隅にある小さな本棚の前に向かう。

「特にここから、匂いがする」

瞬間、背筋に冷たいものがはしった。

 死の概念が一番下の棚から取り出したのは、一冊のアルバムだった。

 青と黄色の縦縞模様が印象的な表紙の、どこの書店でも売っているようなアルバムだ。

 俺が見たくないものだった。どっと汗が噴き出す。心臓がうるさい。金属を弾いたような耳鳴りがする。うるさい。やめろ。鳴りやんでくれ。

 俺は「それ」を見たくない。

 アルバムには、嫌というほど撮ったチヤとの思い出を閉じ込めてある。

 俺の意思に関わらず、死の概念は無遠慮に冊子を開いた。そしてとあるページを開いて、俺に見せようとしてきた。

「同胞よ、この写真は……」

「やめろ!」

 差し出してきたページを見るのすらままならず、咄嗟にアルバムを叩き落とした。

 あいつのことなんて思い出したくもない。俺をおいていったあいつのことなど、思い出す価値もない!

「俺にそれを見せるな!」

 激昂した俺の叫び声は、自分の感情に関わらず今にも泣きそうで、まるで他人の声を聞いているみたいだった。

 ――お前、本当にばかだな。

 耳の奥で、あいつの声が蘇る。

 本当に、ばかなのだ。自分は。自分の感情すら素直に受け止めきれない。いつも見栄をはり、あいつのことを見ないように、思い出さないように生きている。なのにいつも着ている服は黒ばかりで、ひたすら喪に服しているのだ。自分は思い出したくないのに他人にはチヤのことを覚えていてほしい。矛盾している。自分の生き方は、矛盾している。

 でも、本当にこのままでいいのか? もう少しでいなくなっちまうんだぞ?

 チヤと一緒にいたことを、誰も証明できなくなるんだぞ?

 分かってる。分かってる。

 分かっているのだ、本当は。

 気が付けば死の概念に背を向け、自分の部屋に逃げ帰っていた。そのままベッドに横たわり、毛布を頭からかぶる。エアコンが効いているとはいえ、熱がこもって少し暑かった。

 自然と涙が目から溢れてきた。嗚咽をとめたくてもとめられない。みっともない声が口の端から漏れた。

「同胞よ」

 部屋のドアが開いた音もしなかったのに、彼の声が聞こえた。低くて優しい、砂糖みたいな声だった。

「三日間だ。三日間しか我々は汝に与えてやれぬ」

 毛布越しに頭を撫でられた。固い感触の手は、確かに俺を撫でていた。

「だから、悔いのないように生きよ。そのための助力は惜しまないつもりだ」

 その低い声は、チヤの声によく似ていた。

 暗い視界、微睡みの中、チヤの寂しげな表情を思い出していた。何も分かってやれなかった俺は、現実を見ないように目を閉じた。


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