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一年前

二階の開け放した窓から、夕に沈む赤い空を眺めていた。

盆の季節は毎年本家へ泊まりに行くのだが、宿泊前の準備が一番面倒だ。体の節々が気だるく、作業がなかなか捗らない。放置されたキャリーケースの中身はすっからかんで、完全に手詰まりの状態である。夜に出発するが、何一つとして準備できておらず、自分の怠け癖に辟易しながら椅子の上で溶けていた。

太陽があか朱色に輝く夕方、空調機を止め、外の空気を部屋に入れていた。暑さのピークは過ぎ、涼しい風が首を撫でていく。

 暇を持て余す高三の夏休み。ほとんどの時間はゲームに費やしていた。受験生らしからぬ余裕に両親は手を焼いているようだが、大した大学に行く予定もない。クラスメイトたちと比べても気が楽だ。

 椅子の背に体を預け、外の風を浴びる。

 「あー……」

 夏休みは暇を持て余すが、盆の時期はさらに退屈だ。

 実際は墓参りなどの用事が山積みなのだが、忙しいのは常に動いている体だけだ。大人たちの話を聞いていても心はまったく満たされない。

 なんのために親戚で集まっているのか。

 大人たちの説教臭い言葉を耳にしていても楽しいことはない。それを右から左へ聞き流せるようになったのは自分が少しは大人になれたからだろうか。だが、やはりまだ、チヤとばかをやるほうが生きている心地がしてならない。

 頭のいい幼馴染みの堅苦しい表情を思い出した。

『受験生だから今年の夏は遊べない』

 チヤは俺のことなんか忘れて勉強漬けの毎日を送っているのだろう。腹が立つどころか反対に哀れに思えてきた。

「どうしてんのかな、あいつ」

 誰に聞かせるでもない呟きは、湿気と混ざって溶けた。水分を含んだ風は、夜の訪れを告げていた。

 落ちる夕日を感慨もなく眺めていると、視界の端に人影が見えた。

 家の前の車道で人影は立ち止まる。目を凝らさずとも、背筋をまっすぐ伸ばした出で立ちを見れば誰が立ち止まったかなど一目瞭然だった。

「は!?」

 声を出して窓から身を乗り出すと、チヤが俺を見て軽く手を振ってきた。

 突然の来訪者に勢いよく椅子を蹴っ飛ばし、部屋から出た。心臓が忙しなく動く。モノクロだった夏が、いきなり鮮やかになったようだった。

 階段をドタドタ駆け下りた。母がリビングから訝しげな顔を覗かせたが、返答する余裕はなかった。逸る心臓をおさえて外へ出ると、玄関先にチヤがいた。

「よ、」

「「よっ」じゃねえよ! お前、今年は遊べないとか言ってたじゃんか!」

「会わないとは言ってないだろ」

 露出した腕をさすりながら文句を言うと、チヤは自分よりもずっと低い声で言い返してきた。部屋で感じた風の冷たさより、外の空気はずっと冷えていた。半袖シャツだと少し寒かったかもしれない。チヤも寒いのか、半袖シャツの上に薄手のカーディガンを着ている。この男とは、終業式以来一度も会っていなかった。

「で、どうしたんだよ。塾帰りか?」

 冷血漢。無愛想。

皆には、チヤがそう見えているらしい。

 真面目で堅実ではあるが、評判は決して良いものではない。俺から見ると感情がよく顔に出ているのだが、周りには無愛想すぎて社会性に欠けていると言われていた。

「まあ、そんなとこ」

 眼鏡をかけ直したチヤは、どうやら機嫌が良さそうだ。

「はー。早く受験終わんねーかな」

 今年の夏はチヤも構ってくれなくて退屈なのだ。夏休みは毎年チヤと遊び呆けているのだが、今年は一日たりとも遊んでいない。

「それはこっちの台詞だ。お前どうせゲームしかしてないだろ」

 受験についてぼやけば、チヤが気だるげに釘を刺してくる。

チヤの目の下には隈があった。

 どうせこの男のことだ。たまに息抜きをすればいいものを、勉強尽くしの日々を送っているのだろう。きつい眼光を放つチヤは、顔立ちからも神経質であることを窺わせた。

「……チヤ。お前、ちょっと痩せた?」

「少しな」

 答えるチヤの様子が、今日はどことなくおかしかった。

チヤはいつでも堂々としていて隙を見せない。普段から一緒にいるが、今日に限ってはじっくり観察しても、言葉にできない違和感があった。青いカーディガンから覗くチヤの手首は、まるで死人のようだった。

 だがチヤは自覚していないらしい。細長い指を閃かせ、黒い肩掛け鞄から小さい袋を取り出した。ほら、と手渡されたので、紙袋越しに感じるごつごつとした物体をまさぐった。

「……またお前、買ったのかよ」

 非難をこめて言ったが、チヤは口を開かなかった。

 チヤには収集癖がある。とにかく石が好きなのだ。特に原石と呼ばれる、子どもが買うには少し値段がはる石が好きだった。小さい頃から彼の収集癖に付き合っていたので慣れてはいるが、お小遣いの使い方が正しいのか甚だ疑問である。何回か注意したが、その度に「お前もゲームばっか買ってるだろ」と言い返されてしまい、ぐうの音も出なかった。

「それ、やる」

「マジで? 誕生日とかまだだけど」

「それくらい知ってる」

 石に人一倍執着心を持つチヤから贈られるとは思わなかった。どういう風の吹き回しだろう。やはり今日のチヤはおかしい。

 チヤは鞄の中から水の入ったペットボトルを取り出すと、そのままぐいと煽った。人が飲料を飲むのを見ると、自分も喉が渇いてくる。よこせと催促してみると、チヤはひとつ息を吐いてペットボトルを渡してくれた。

口に含んだ水は、なんの変哲もない、ただのミネラルウォーターだった。

 そして、チヤの周りに渦巻く違和感の正体に気づいた。

 あ、と思わず声をあげると、チヤは眉をひそめた。

「どうした」

「お前、なんか水の匂いしねえ?」

「はあ?」

「今日のお前、どっか変だなあって思ってたけど……。そうだよ。お前から水の匂いがする」

 唐突だったのか、チヤはあきらかに怪訝な顔をした。

「なんだよそれ」

 本当に理解できないのか、チヤは呆れ顔で笑った。寂しげに下がっている目尻を見て、やっぱり今日のチヤはおかしいと確信した。

 日はどんどん傾き、夜の風が吹き込んでくる。紫に染まった空のせいで、チヤの顔色が更に悪く見えた。俺の不安な気持ちを押し隠すかのように、玄関口の照明がついた。

 いつもだったら「なんかあったのか?」と言えるのに、今日に限って口に出すのが憚られた。

話の内容を変えたほうがいいのだろうか。石の入った紙袋を開けると、原石の他に紙片が入っていた。

「なんだ? これ。メッセージカード?」

「それは後で見てくれ」

「店のカードか?」

「読めば分かる」

 だから今は読むなと分かりやすく顔に書いてある。紙片についてはあまり触れないでやろう。

その代わりに、袋の開け口から石の色を眺めた。少し黒っぽい、オーロラの煌きが残る石だった。

「あれ? この石、どっかで見たことが……」

「サキ」

 強い口調で呼ばれ視線をあげると、チヤの顔がすぐ目の前にあった。

 鼻筋が通っていて顎の細いチヤは、眼鏡をかけていても整った容姿をしている。そんな彼が、顔をしわくちゃに歪めて泣きそうにしているのだった。

 チヤが突然腕を掴んできた。抵抗する気概もなく、引っ張られるままチヤの腕に抱き込まれる。

塾に行っていたのは嘘なのかもしれない。

微かな汗の匂いに混じって、いつも連れ添っている鉱石店の匂いがした。熟れた檸檬の匂いだ。

どうして彼から水の匂いがするのだろう。

チヤにまとわりつく汗や檸檬の匂いをかき消すほど、強烈な水の匂いが彼の姿を消している。自分の背に回された腕は微かに震えていた。

 なぜだか、チヤが遠くに行ってしまう気がした。

 彼の首筋に鼻を埋め、抱き返した。

「チヤ、本当にどうしたんだ?」

「……お前、やっぱりばかだな」

「はあ!? なんだよそれ!」

チヤの耳元で怒ると、逃げるように彼は体を離した。こっちは心配しているというのに、肝心のチヤは俺を小ばかにしてくる。両腕が宙ぶらりんになったチヤは、いつものチヤだった。

「じゃあな」

「へーへー。さっさと帰りやがれクソチヤ!」

 帰りたくなさそうなチヤは、眼鏡をかけ直してじっと見つめてくる。空はもう暗く、星が点々と見え始めていた。

さすがにもう家に帰さなくてはならない。チヤに背を向け、玄関の戸を開ける。しかし胸に残る不安は隠しようもなく、俺は動きを止めた。

「そんなに寂しがらなくても、夏休み終わればまた……って、いねーし!?」

 振り返ると、もうその場にチヤはいなかった。慌てて車道に顔を出すと、とっくにチヤはこちらへ背を向けて歩いていた。彼のすました態度に、次第に胃がむかむかしてきた。

「この薄情者お!」

 チヤに捨て台詞を吐き、駆け足で家の中に入った。音を立て階段をのぼると、母が「うるさいよ!」と叱ってきた。母を無視して部屋に閉じこもる。

 開けっ放しの窓の外は既に夜が鎮座していた。入り込む夜気の寒さに身震いしてしまう。電気をつけて窓とカーテンを閉めると、やはり怒りが煮えたぎってくるのだった。

 なんなんだあいつは! 情緒不安定にも程があるだろ!

 机の引き出しにチヤからもらった紙袋を乱雑に投げ入れ、その次に衣装棚から適当な服を出していく。キャリーケースに無理矢理詰め込んでいると気持ちも落ち着いてきた。やはり、俺はチヤが心配だった。

 あれだけ手につかなかった準備が数分もしないうちに終わり、うめき声をあげながらベッドに飛び込んだ。薄い毛布に顔を埋める。

 やっぱりチヤと一緒にいるのが楽しかった。彼といるときは自分が生きているのだと実感できた。

 チヤと一緒にいない時間を過ごすなんて、退屈すぎてどうにかなりそうだ。こんなに色あせた世界が、チヤと一緒だと途端に色彩を帯びる。

「早く夏休み終わんねーかな」

 まだやってこない二学期へ想いを馳せていると、一階から母の呼び声が聞こえる。出発の時間になっていたようだ。

 時間を確認しようと、ベッドサイドにある目覚まし時計を見た。部屋を出て行く自分が恨めしいのか、時計の針は止まっている。針はちょうど十一の数字を指していた。

目覚まし時計の電池を後で入れ替えておかなくては。時計から視線を外し、それほど重くないキャリーケースを引っ張って部屋の外へ出た。


その日を境に、チヤは俺の前から姿を消した。



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