第四の器
それは俺が、たぶん、生まれて初めて恋ってやつをした瞬間だったと思う。
あー、これが俗に言う一目惚れか、って感じ。
そう、あれだ。例えるなら、ピカピカに輝く金色の、途轍もなく大きな銅鑼!それを目一杯、もうありったけの力で叩いて出した馬鹿でかい音を、身体の全てで捉えたような感覚だ。
金色の銅鑼の鳴らした音は、そうして俺の中に入ってきて、どっぷりと心を浸しちまったんだ。
こう見えても俺は、同年代の中じゃ結構モテてる方だった。
ダークエルフは見た目も悪くないし、大昔の聖戦で植え付けられた怖いイメージだって今となってはもうほとんど消えてる。
だから街に行けば女の方からきゃあきゃあと寄ってきた程だ。そう、大体どこでも。
ただし俺の方はそういう色恋沙汰にはあまり興味がなく、いつも素っ気ない反応を返してばかりで、さして取り合わなかった。
まあ、どうやらそれがまたツボに入る女も多かったと見えて、尚更に熱烈な視線を向けられることも数え切れないくらいあったんだけど。
いやいい、こんな過去のことは。
話を戻そう。
そう、俺が一目惚れをした時の話。
俺はあの時、霊山の方に時々出現する、場違いな魔蛇を狩りに出向いていた。
お前も知ってるだろうが、魔蛇狩りっていうのはダークエルフの中じゃ一般的に嗜まれている狩りのひとつだ。
しかし山麓から頂上へとぐんぐん上がっていくと、どうしても暑くなって喉が渇いてきやがった。
そこで茂みをかき分けて、近くの湖に立ち寄ったのさ。
そしたらさ、…もうほら、なんとなく察しがつくだろ。
いや、わざとじゃねえ。決してわざとではねえんだよ。
そこでさ、女が水浴びをしてたんだ。
……いや、だからわざとじゃねえって!
我の始祖の誇りに誓って。本当。
そんでだな、まあ、当然この俺も流石にビックリしたわけだ。
それまで女に興味が無かったから、当然女の水浴びなんてまじまじと見たことも無ければ、見ようとも思わなかったんだよ。
でもその女の姿を見たとき、何でだろうな。目が釘付けになった。
とにかく………ああ。
本当に、美しかった。綺麗だったんだ。
俺は喉がカラカラなのも忘れて、茂みに隠れたまま、その水浴びの様子をつい見ちまった。
甘く薄い栗色の髪。
その女の白い背中には、薄い氷のような色をした羽が生えてた。
霊山の精霊の象徴だ。
霊山の精霊は普通、多種族の前には現れねえ。だから、俺が来たことを悟られたらきっと離れて行っちまうんじゃねえかと不安になってよ。
だから俺はずっとそのまま……おい、覗きとか言うのはやめろ。
そうしてどのくらい時間が経ったかなぁ。
ふと女の背後に、一匹の魔蛇が迫ってるのを見つけてよ。
あ、やべえと思ったね。
魔蛇の牙には結構強い毒があるから、噛まれたら割と大変なんだよ。
でもズルズルと近づく魔蛇に女は全然気づいてねえ。
やべえやべえと思って見ててーー、それで気がつくと俺は飛び出して、魔蛇を大剣で真っ二つにしてた。
女は当然びっくりして、慌てて羽を震わせて飛んで行こうとした。
でもその格好のままじゃまずいって気づいたんだろうな、木に引っ掛けてた衣をひっつかんで、取って、肌にかけて…ってのを見た俺は、時は今しかねえと叫んだ。
「待ってくれ!!!」
びくりと身体を硬ばらせる姿もなお可愛くてよし、なんて思ったのはまあ、置いとくとして。
女は恐ろしいものでも見るような目で俺のことをじっと見つめた。
「俺はスヴィニーって者だ。驚かせて悪かった。でも頼む、行かないでくれ。あんたと、いや、君と是非、話がしたい!!」
「……」
「初めてなんだよ!あんた、違う、き、君みたいな、こんなに惹かれる人に出会ったのは!頼む!少しだけでもいい!!」
そうして彼女は随分と長い間押し黙っていたかと思うと、服の留め具をカチッと留めてから、僅かに頷いてくれたんだ。
そんときゃあもう、俺は思ったね。
意中の女が、俺の言葉を聞いて留まってくれた。
こんなに嬉しいことがまさか、この世にあるなんて、ってな。
それから時々、俺はその彼女と湖で会うようになった。
でも、霊山の精霊は警戒心が強くて臆病なのは重々承知してたからな。
最初は少なくとも十数歩の距離がねえと、彼女はおろおろとして落ち着くことすらできなかった。
それでも逢瀬を重ねて、ぽつりぽつりと話していくうちに、段々と距離も縮まってった。
しまいには、お互いに隣り合って、湖のほとりに腰掛けることすらできるようにもなったんだ。
家族の話、好きな装飾品の話、狩った獲物の話。
基本的には俺が色んな話をして、それを彼女が頷いて聞いてくれてるって感じだったな。
お喋りな女でもないし聞き役に徹することが多かったけど、でも彼女は嫌な顔一つせずにどんな他愛のない話でも聞いてくれた。
外見だけじゃねえ。そんな彼女の姿に、俺はどんどん惹かれていったよ。
もうさ、ほんと、俺はそこに行って彼女に会うだけで、死ぬんじゃねえかってくらいに幸せでよ。
何が幸せなのかは上手く言えねえけど……。多分、好きな女が俺のそばにいて、俺の話を聞いてくれて、頷いてくれるだけでよ、もう、幸せに満たされてたんだろうな。
ーーでも。
俺が何度尋ねても、彼女は、名前だけは教えてくれなかった。
名前を聞くと、女は決まって首を横に振るばっかりでよ。
そんな彼女に嫌われるのが嫌で、俺も深入りはしなかった。
いつか彼女が心を開いてくれる、って信じて待ってたよ。
そうして気付けば、会うようになって数年が経ってた。
次第に俺は、どんどんと苦しむようになっていった。
わかるだろ?
……なぜ、彼女は名前を教えてくれないんだろう、ってな。
最初は名前を聞き出そうとすらしてなかった。
一緒に居られるだけで十分だったはずなのによ。
きっと知らず知らずのうちに、欲が出ちまってたんだな。
でも一旦気になったら、もうその疑問と苦しみに蓋をすることはできなかったよ。
それで決めたんだ。
いっそ本当に覚悟決めて、名前を聞いてみようってな。
例えそれがきっかけで、もう、会えなくなっちまったとしても。
次の逢瀬。
いつも通りに会い、俺のどうでもいい話をした。
ひとしきり話し終えて、彼女が花が揺れるように笑った後。
「なあ」
「?」
「…俺はさ。なんて…呼べば良いんだ?」
「……。」
「どうしても知りてえんだよ。名前で呼んでみてえ。ダメか?」
彼女は少し驚いた顔をして、暫く黙ってた。
そして、ゆっくりと息を吸って、そうして吐いた。
「……私の種族の掟を、ご存知ですか?」
「掟?人前に出るのは避けること、とか?」
でも、彼女は首を振って否定した。
「いいえ。それはあくまでも、掟を守るための手段に過ぎません。ーー掟の遵守のために。知られる可能性を、避けるための……。」
「そりゃ…大変だな。……で、どんな掟なんだ?」
彼女はもう一度深呼吸をすると、静かに告げた。
「……名を知られた相手と夫婦になる、という掟です」
「………!」
俺は思わず口の中で唾を飲み込んだ。
「驚いたでしょう?名前には魂が宿るという信仰からきているのです。だから…」
「だったら、尚更だ」
「え?」
…俺は、ずっと言いたかった言葉を、この時初めて声に出したんだ。
「好きだ。ずっと一緒にいたい。だから、君の名前を知りたい」
そうして彼女の白い顔は、みるみるうちに朱に染まっていった。
「……本当に言っているのですか?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
彼女にそうっと手を伸ばして、初めてその頰に触れた。
まるで霜のように繊細な身体を抱き寄せたら、その身体はほのかに温かかった。
「俺と君とじゃ、種族が違うのはわかってる。でも俺は、……ああ、もうさ、ごめん、ガラじゃねえんだよ。大事なことだから、俺らしく言わせてくれ」
そして今度は俺の方が深呼吸した。
全身全霊。
ありったけの愛情を込めて、言わなくちゃ駄目な気がしてよ。
「お前がいい。お前がいいんだ、俺は。
だから……!名前を教えてくれ!!」
「……。ありがとう、スヴィニー。
………私の名はーー……」
ーーーな?
何度聞いても、いい話だろ?
「……で?」
「は?」
「何だったんだよ結局」
「何が?」
「決まってんだろ!お前の花嫁の名前だよ!!!」
「はっはーー、やっぱり知りてえか?」
「んだよ!その話もくだりも何度聞かせりゃ気が済むんだよテメエは!結局名前も教えねえしよ!!いくら新婚ホヤホヤだからって惚気すぎだろが!!」
「だってよ、俺の嫁さんさ、ほら、あんまりにも可愛いじゃねえか。"結婚済みの精霊は他者に名前を知られても掟破りにはならない"とは言ってもよ、他の奴に知られるのが勿体無くてだな……」
「グァーーやっぱそのオチじゃねえか!!腹の立つ野郎だな!!!」
友人が、この幸せモノめ!!と叫び、俺の頭を思い切り叩く。
ああ。そうだよ。
俺は、世界一の幸せ者だよ。