第二の器
もうすぐよ。
もう、すぐそこまで。
鮮烈で甘い情熱の記憶に、私は浸っていた。
「きた!!」
ざわりと外の木々がわずかに揺れる音を聞きつけ、煌びやかな玄関口まで一目散に走っていく。
「お帰りなさい、ローネスト」
「ああ。いつまでも君は美しいままだね」
「もちろんよ。だって、歳をとらないんですもの」
「それは羨ましいね」
彼と豪華なソファに隣り合って座り、そっと身をもたれかける。
髪を撫で、額にキスをし、そして指でこめかみをくすぐられる。
ああ、なんて幸せな時間なのかしら。
「ずっといられる?」
「いや、明日にはここをたつよ」
目に見えて頰を膨らませると、ローネストが苦笑いした。
「仕方ないんだよ。君とずっと一緒にいるためなんだから」
「…そうして仕事が終われば、きっと?」
「何だい」
「あら、女性に言わせるの?」
「はは。全く、君には敵わないよ」
身をかがめ、彼の吐息が耳をくすぐる。
「約束する。結婚しよう、必ず」
ローネストは私の耳元で囁くと、眩しく笑った。
「ごめんなさい。ありがとう。愛しいローネスト」
そうして日が暮れ次の日になると、彼は言葉通り出て行った。
仕方ないの、と自分に言い聞かせ、家でひたすらその時がくるのを待つ。
その間、この贅沢な家は、ただの無機質な住まいに変わってしまう。
彼がいなければ、何にも意味なんてないの。
でも彼がいれば、何にでも意味はあるわ。
幾度か日が暮れ、そして昇った後、ローネストは帰ってきた。
しかし今度はどこか様子が違った。
どこか上の空で、私の頭を撫でている。
「どうしたの?」
「……」
「お願い、教えて?」
こちらを見つめるローネストの瞳は、ただただ暗く沈んでいた。
「連中がさ。君を何としても見つけ出して、そして捕らえようとやっきになってるんだ」
「まあ」
「もう諦めたらいいのにな。いくら海を探したって、見つかりっこないのに」
「そうね。だって私、陸に上がってしまったのだものね」
ローネストが笑い、沈黙し、そうして口を開いた。
「みんな君を誤解してるんだ。君は海の魔物だって。とんでもない、君は海からきた女神だってのに。誰もそれをわかっちゃいない」
「それは……でも、仕方ないわ。王宮で散々に、それはもう完璧な悪役をやったのだもの」
「でもそれは、あの悪どい王妃との誓約によるものだ!君の…君自身の意志じゃない」
「ありがとう」
そう言ってくれる人がこの世界にいるだけで、私が一体どれだけ救われていることか。
彼自身はそのことを自覚していないかも知れないけれど。
そうしてまた幾日か経った頃。
彼は突然、大勢の来客を連れて帰ってきた。
いや、帰ったとは言えないだろうか。
ローネストは気を失い、そして鎖で捕らえられた状態だったのだから。
「王妃。やっと悪しき海の魔物の元に辿り着きましてございます」
「ええ。皆、御苦労だったわね」
「この男、味方のふりをして、俺たちの動きを調べていたんだな。なんてやつだ!」
かつて、王妃の座が欲しいと、海を訪ねて誓約を交わした女を目の前にしても、私は何の感情も持ち合わせなかった。
募り行くのはただ、その鎖に捕らえられたローネストへの想いだけだった。
彼だけは、助けたい。
「なんだ、思ったより呆気なかったわね」
「何?!」
「その男に催眠術をかけて、私の下僕になるよう仕向けていたのに。全く、人間って何て無様で脆いのかしら」
「貴様、ローネストを操っていたのか?!」
水面に石を放つように、兵士の中に動揺が広がっていく。
「さ、て。ここであなた達のことも同じ目に合わせてもいいのだけれどーー。興が削がれたし、このまま海に帰ろうかしらねえ」
これでいいの。
だって別に、人間のことを殺したいわけでも、操りたいわけでもないもの。
私が欲しかったのは、未知なる人間の世界での居場所だった。
でも、それを望むのはきっと、間違いだったのね。
目の前に無残にも縛り付けられている愛しい人をそっと見つめる。
私との別れの時がきたのね。ローネスト。
でも大丈夫。これであなたの居場所は、また取り戻せたはずだから。
あとは、私が、このまま海に……。
「待て」
王妃が抑制の声をかける。
「其奴は危険だ。すぐに始末しろ」
「王妃様!」
「し、しかし、こいつはどんな力をもっているか…」
「今すぐだ!やれ!!」
そうか。
王妃の今の地位が、私の魔法の力によって築き上げられたものだということを、知られたくないのだろう。
口封じにかかるわけね。
一斉に向けられた矢じりを見て、私はどこか冷静な自分がいることに驚いていた。
母なる海に飛び込んだ時には、私の身体はズタズタに傷ついていた。
……あれだけの数の人間を傷つけないように戦うのは、流石に無理があったかしら。
私が逃げる先はここしかない。
このまま海でしばらく傷を癒すしかない。
でもこれでよかった。
どっちにしろ海にしか、私の居場所はなかったのだから。
そうして海の底から、ゆらゆらと辺りを照らす太陽の日差しを眺めていると、どぼり、と何かが水の中に放り込まれたような波紋が広がった。
知っている匂いがする。
いえ、知っている、なんてどころではない。
これは、この匂いはーーー
「ローネスト!!!」
泡がぼこぼこ立つのも構わず、急いで波紋の出所に向かう。
藻の生える岩にひっかかるようにして、そこにローネストの身体はあった。
なんてこと、なんてことなの。
あの王妃、証拠の全てを隠滅するために、ローネストまでこんな目に……。
全身が震え、怒りに鱗が泡立つようにして逆立つ。
許さない。許さない。許さない。
あの女を、いえ人間を、決してーーー
「ク、レア」
髪を震える手で撫でられる。
次いで額に掠めるようにしてキスを。
そして、指でこめかみを。
「ローネスト…」
「駄目だ。怒りなんて、君には似合わないよ」
「ローネスト!」
「安心して。僕は、幸せだよ」
「嫌、嫌よ……やめて……」
「クレア」
「やめて!置いていかないで!!」
涙の雫か海の泡か、わからないものが、私の額の上を滑っていく。
「お願い、お願い、ローネスト」
お願い。
何も、もう何も望まないわ。
だから、彼を、どうか。
お願い。
その時、私の鱗がみるみるうちにはがれていった。
剥がれた鱗が、次々とローネストの身体へと向かい、そして痛ましい傷口を塞いでいく。
「クレア…?これは…」
「ローネスト……!」
母なる海が、ローネストを助けたいという願いを叶えたのだと悟る。
ただし、ローネストの身体の表面は鱗で覆われ、もはやその姿は人間のものではなくなっていた。
「……よかった」
「え?」
ローネストがゆっくりと起き上がり、もう一度、私の頬を撫でた。
「これで、君とずっと、生きていける」
ああ。
未知の居場所への探究心など。
この幸せに、比べたら。
私たちはお互いに手を取り、そして静かに微笑みあったのだった。