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昼間原の女 - 9

声がする。

とても近くて、そして遠い、どこかで声が。


「……は……い……」

「そ……ね…………」

「…あ………………」

「…………だと……」


誰かと誰かが囁き合っている。

いつかの昔に聞いた声のような気もしたが、思い出せない。ただ、ひどく懐かしい。

真っ黒な幕が下りた意識にも、その声はじわりと染み渡ってくる。

誰かは知らない。分からない。それでも憶えている。だから、こうして声に浸り続けるのが心地良い。

……ああ、そうだ。ひょっとするとこれは、記憶の一番底に刻まれた、顔も憶えていない両親の……。


「いやまったくお恥ずかしい」

「いやはや」

「いやはやはやはや」


ではなかった。

覚醒は劇的な演出を伴わず、平凡かつ突然に訪れる。

眼が開くのと同時に猛烈な痛みが腹部を中心に走り抜け、ぎゃあ、と狐は堪らずに吠えた。

はたりと会話が止み、その場の全ての視線が呻く狐に集中する。


「あ、起きた」

「起きたよ兄さん」

「ああ起きたな弟」


呑気に頷き合っている狐二匹の前には、皿に盛った食事が置かれていた。

肉じゃがを汁ごと米の飯にかけたもので、言ってしまえば朝の残り物を温め直しただけなのだが、ひとつ違う点として、その上には更に細かく刻んだ油揚げが乗っている。

がま寿司の光安も仕入れに使っている老舗の豆腐屋で、女が購入してきたものだ。

どうしてそれを今朝出してくれなかったという不満が狐に浮かぶも、それを口に出来る状態ではなかった。

とりあえず、とても痛い。


「い、いた、いたい……」

「病み上がり……じゃなくて怪我上がりだからな。

完全に馴染むまでにはまだ暫くかかる、それまでは大人しくしてろ」


どことなく悄然と告げる女を訝しみながらも、狐は安堵した。

喋ったという事は、生きているという事だ。

次に狐は、知己の二頭へ注意を向ける。

座布団に座って肉じゃが飯に舌鼓を打つ二頭から、あの虚ろな眼差しは跡形もなく消えていた。

無論、目が合ったからといって襲ってくるでもない。

二頭は狐をちらりと見ただけで、尻尾を振りながらの食事に戻った。

殺しかけていながら素っ気ないにも程がある。水を持ってきた女に向ける目の方が、余程熱がこもっていた。


「いやあ姐さん強えな、たまにこんな人間いるけどビックリしたぞ」

「蛇なんて久しぶりに見たね兄さん」

「そう感心するな、本気で腹が立ってくる」


心底からの苦い顔をして、女が言う。

さして広くない室内は滅茶苦茶な荒れようだった。

焼け焦げた畳に、ひっくり返った座卓。外れたままの戸。砕けた蛍光灯。

壁には穴が幾つも空き、一体どういう力の加わり方をしたのか、箪笥は中央からへし折れていた。

さながら爆撃でも受けたかのようである。これがつい先程まで平和に朝食をとっていた部屋だとは信じられない。

それだけ、短時間で激しい争いが繰り広げられたのだろう。

意識を失う寸前までの恐怖と絶望が生々しく蘇り、狐はぶるりと震えた。

皿についた汁を名残惜しそうに舐めていた二頭が、そんな狐を見て言う。


「あ、大丈夫もう元に戻ってっから」

「まさかアタマを侵されるなんてね、兄さんだけならまだしも僕まで」

「兄さんだけならってどういう意味だよ弟」

「そのままの意味だよ兄さん」


へらりと笑う兄と、くすりと笑う弟。

最初に尾で致命傷を与えたのが弟で、続けて狐火を放とうとしていたのが兄であるらしい。

良く知る二頭の性格に戻っている事に狐はほっと息を吐いたが、安心したらしたで、まるで悪びれない兄弟への怒りがふつふつと湧いてきた。


「何が大丈夫、だよっ!! 大丈夫で済ませていい事じゃないだろっ!?

こっちは殺されかけたんだぞ、ちょっとは反省するとか……!」

「なんで?」


聞き返されて、狐は言葉を失った。

狐自身が反省という概念からだいぶ遠い生き方をしてきたものの、この怒りには筋が通っているというのに。


「――な、なんでってそんなの当たり前じゃんか! 悪いって思わないの!?」

「だって俺ら殺せって命じられて来たんだしな」

「狐的にはやるべき事をやっただけだね兄さん」

「え」

「まァあれだ、さすがに上もオカンムリだって話だよ」


指導者か、と話に割り込んだ女に、その通りと兄狐が頷いた。


「山で馬鹿やってる分には、皆で助けてやるし守ってやるけどな。群れの外に出たとなったら話は別だ。

知らなかった訳じゃないだろ? はぐれ狐が人間に危害を加えでもしたらそらもう大変よ。日頃の不干渉なんて撤廃されて討伐隊派遣されかねない。そこの姐さんみたいな人間が山に攻めてくる」

「なんて言っときながら、他ならない僕たちが危害加えちゃったみたいだけどね兄さん。どうするのこれ、体で払う?」

「どうしような弟」

「私から事を大きくするつもりはないよ。

お前らもまさか自分が暴走するとは思ってなかったんだろう。

……仲間内で迷惑をかけているだけなら許す。しかし群れを巻き込みかねない行為は容認できない、か」


規律があるから寛容さが認められる。

普段が甘すぎるくらい甘いから、厳しい処分にも納得できる。

この程度の決まりも守れない奴が悪いと。

理解が追いついたらしく、しょぼくれている狐を女が見やる。

狐は、くぅん、と切なげに鼻を鳴らした。


「ううっ……こんなの英雄の姿じゃない……」

「まだ言ってるんだそれ。

とにかくそういう訳でね、僕たちのイチの目的は君の首を持ち帰る事だったの」

「任務とはいえ殺意は殺意だ。それが霊場で増幅された結果ああなってしまったのか」

「使命感って言って欲しいな」


積極的に原因を探る女とは対照的に、狐の口数はどんどん減っていった。

外的要因により狂っただけならまだしも、それとは関係なく最初から殺す気だったと聞かされて、さすがにショックを隠し切れていない。


「やはり妖にとって昼間原は……しかしそれなら、こいつはどうして……」

「ん? 僕たちみたいに一回暴走して正気に返ったんじゃなかったんだ?」


弟狐は特に理解が早いようで、即座に経緯を察して小首を傾げた。

てっきり自分達と同じく、暴走していたところを女に叩き伏せられたものだと思っていたらしい。

合っているのは叩き伏せられたという点だけである。英雄志願も暴走といえば暴走だが、精神状態でいえばあの夜の狐は正気を保っていたし、今も保っている。


しかし、それはそれで話がおかしくなってくる。

紛れもない強者であるこの兄弟狐すら惑わせる程の呪いに、狩りさえまともに出来ない弱小代表狐が耐えられる筈がないのである。

育ち切っているから、幻惑を得意とするから効かないという仮定も、今回の件で消えた。

やや遅れて兄狐もそれに気付いたようだったが、より重要な話に移る為にひとまずこの話題は途切れる。

命が失くなってしまえば、呪いがかかるかからないを論じるどころではない。


「俺らが来たのはそういうワケ。

ただ正直なとこ殺したくもない訳よ、友達だろ?

だからきつめに言い聞かせてさあ、こう、今度こそ本心から悔い改めるって感じの?」

「うん、懲罰前提で助命狙えないかなって落とし所を探してたんだけど」


兄弟狐が、交互にうんうんと頷き合う。

怯んだのは殺されかけた狐である。殺すと言いつつ何とか命を救おうとしてくれていた事には感動するが、罰を受けさせるという事は即ち、最悪このまま山へ連れ戻される可能性がある。

そうなればもう、群れの外へ出られる日は二度と訪れまい。尚も挑めば、今度こそ命は無い。


「ま、待ってくれよ! 罰ならこの大怪我で丁度いいじゃん!

怪我が完全に治ったら、俺は英雄になる旅を再開するんだっ!」

「無理だろ」

「無理だね兄さん」

「無理じゃないもん! いつか絶対……」

「だってお前もう従僕にされちゃってるぞ。離れられねーよ、少なくともその姐さん生きてる間は」



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