山の蟲
それに自我は無かった。
対象の動作に、熱に反応し、生まれ持った機能通りに体組織を稼働させ、養分を摂取する。誕生してから死ぬまでそれを繰り返すだけの、世に数多溢れる小さき生命たちの中の一種、その一匹。
湿った枯葉の上を這い、平たい石の下に隠れ、通り掛かる獣の血で体を満たす。
山野に生きるありふれた生き物のひとつを、人は蛭と呼んでいた。
狩りを狩りだと認識するようになったのは、いつからだったか。
接近する獣の歩みを歩みだと認識したのは、それが伴う微かな地の揺れを揺れだと認識したのは、体温を体温だと認識したのは。
体内へ注がれ、腹を満たしていく熱い液体を、自分の命を繋ぐものだと認識したのは。
わからない。認識はすれども、言葉としての理解はいまだ遥か遠い。
だが本能を思考が制御し始めた時点で、その個体は種族の輪から外れ始めていたのだ。
膨れた体をくねらせて、このところの巣にしている倒木の穴に戻る。
ここは手を巧く使う獣や、長い爪と太い腕で何でも壊してしまう獣も入ってこられないから安全だ。
掻き集めてきた腐った葉の上に、長い身を横たえる。たっぷりと血を吸ってきたから、暫くは動かなくて済む。
しかし、おかしい。前はこんなにも腹が減っただろうか。棲家の中はこんなにも狭かっただろうか。
血を吸った相手が、倒れて動かなくなってしまう事などあっただろうか。
わからない。周囲の事象を理解はできても、原因を追求するにはまだ遠い。まだ足りない。
漠然とした焦燥に包まれながら、かつて蛭であったものは眠りについた。
いつしか、血は旨いという事を知った。
血を飲むよりも、そのまま食った方がもっと旨い事も知った。
体を伸ばし、逃げようとしていた鹿を素早く捕らえ、首を折る。食らいつく。噛む。
ばきばきと音を立てて、鹿の体が頭から砕かれて消えていく。
すっかり腹に収めてしまうと、満足して巣に戻った。
その晩、山に響き渡る甲高い音色を聞いた。
母鹿を失った子鹿の鳴き声だった。
親を探す子の声は一晩中続き、不意に途切れた。
諦めたか。他の獣にやられたか。斜面から転がり落ちでもしたか。
わからない。わからないが、襲われまいと常に周囲を警戒していた頃とも違う言い知れない不安が、膨れた体の内に生まれた。
次に獲物を見付けた時、あの悲痛な呼び声が蘇った。
だから今度は食わなかった。捕らえ、牙を刺し、血を啜るに留めた。
しかし駄目だった。樹木の幹に匹敵するほど太くなった体は、一啜りで容易に相手の命を奪う。
動かなくなった獣を見下ろしながら、思った。考えた。
もしや。
もしや自分は。
決してなってはいけないものに、成り果ててしまったのではないかと。
その日から獲物を追わなくなった。
だが、じっとしていても腹は減る。殺したくなくとも死にたくはない。
困っていたある日、川べりの藪に今までなかった黒い水溜りが広がっているのを見た。奇妙な事に、付近の鳥も獣もそれの存在にまるで気付いていないようなのだ。よくよく観察すれば水であるのかどうかも疑わしい。
ただ、それが自分と同質の、あまり良くないものだという事だけは伝わってきた。
知らず、体を伸ばしていた。頭を浸し、口を開き、牙を広げ吸い込む。
血とも水とも違う何かが、体に流れ込んでくるのを感じた。
黒い水溜りはみるみる小さくなっていき、じきにすっかり腹の中に収まってしまう。
元通りになった地面を見ていると、なんとなくほっとした。空腹も僅かに解消された気がする。
他にもあるかもしれない、探そう。
理由はわからない。わからないが、そうしなければいけないと思えたのだ。
あれをそのままにしておいたら、山にとって、鳥や獣にとって、この地にとって、きっと悪い事が起こる。
葉が茂り、木々は実りを蓄え、土を雪が覆う。
長い時が過ぎた。
とうに獲物を追うのはやめていた。殺す殺さないではなく、もはや殺して食っても意味がない程に体は膨れ上がっている。
黒い水溜りは、時間を置いて現れる。血肉の代わりにそれを啜る。おかげで常に空腹ではあったが、飢える事はなかった。
水溜りの消えた後は、元の景色が戻ってくる。何度見ても、不思議と飽きなかった。朝日に輝く森を美しいと思った。この世に生まれてはならなかった自分に出来る、たったひとつの良き行いなのだと喜べた。
だが、ああ、何故だろう。この頃、とても眠い。全身が重すぎて動かせない。
黒い水溜りを吸い込むたびに、眠さと重さが少しずつ増していく。思考の途切れる頻度が多くなる。
心を持たず、岩陰に潜み獲物を狙っていた頃に戻れるのなら、きっとそれは幸せなのだろう。
だが、だが、ああ、ああ、そうなると、気掛かりなのはこの黒い水溜りの事だ。
自分が物言わぬ獣に戻ってしまったら、誰がこれを消してくれる?
誰がこの山を、鳥や獣を、この地を良くないものから守ってくれる?
そして餌を求めるだけの蟲に戻ってしまった自分を、いったい誰が終わらせてくれるというのだ?
どうか。
誰か、わたしの生まれ愛したこの地を。
目の前に、聞いた事のない声で鳴く見慣れぬ生き物がいた。
久し振りに食らう血肉は、とても旨かった。




