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昼間原狂騒・嚆矢 - 21

「ユウ?」


血溜まりの中央で倒れているユウに、かがりが呼びかける。

いつかの光景を思い出す。出会って間もなくの、あの日を。

いきなり襲いかかってきた兄弟狐の片割れにより腹に大穴を開けられて、畳一面が血の海だった。瞳の焦点がずれ、呼吸の間隔が見る間に開いていき、だらりと伸びた舌から色が失われていく。死への階段を一歩ずつ着実に降りていく様を目の当たりにしながら、決死の抵抗で敵を退け、間一髪で治療を施す事ができた。


だが、これは。


「敵性体……四号。消滅しました」


現状を報告する舞の声が、ひどく遠い。


「消滅……郭公が死んだから、か……?

しかし改変環境下で自然死するなら分かるが、敵性体が直に郭公を狙って殺しにくるなど……いや……そうか!」


辿り着いた仮説に、蟻巣塚は目を見張った。


「今の郭公にとって、巣は昼間原市ではなく楝くんだ。

巣の安定性を高める為に楝くんの存在価値を増すような異変ばかりが発生、エスカレートしていった結果、露見へと繋がった訳だが……。考えてみろ。じゃあ今の楝くんにとって、昼間原で安定した価値を保ち続ける為に最も都合の悪い、排除しなけりゃならないものは何だ」

「……まさか」

「他でもない、従属という形で巣に縛り付けられた郭公そのものだ。郭公の死こそが巣にとって最大の利益となる。自分の巣を安全に保つ為に、改変された環境は郭公そのものを排除した」

「そんな事って……破綻してますよ!

托卵とやらの能力は、産み落とした土地で雛を巣立ちまで安全に育てる為のものなのでしょう! 複雑な要因が絡み合っているといっても、それが雛自体を殺してしまうだなんて……」

「だから言ったろ、自分でコントロールできる能力じゃないんだ。勝手に周りがそうなっちまうんだよ。しかも郭公が自分を郭公だと自覚する事は通常ないから、せいぜいオレはツイてるな、恵まれてるな程度にしか思わない。いっそ分かっててやってるコントロール可能な環境改変だったら、よっぽど扱いが楽だったさ」


相手に理性があるなら、説得し、その能力を使わないようにしてもらえばいいだけなのだから。


「もっとも今回は……最後、自ら死にに行ったようにも見えたが」


蟻巣塚が肩を落とした。


「ユウ」


静かすぎるかがりの声に、蟻巣塚と舞は口を噤んだ。

全員に背を向けたまま、かがりがユウに歩み寄り、屈む。

地面に投げ出された体に、そっと手を乗せる。まだ暖かい。だが動かない。流れた血は土に吸われ、所々で固まり始めている。


死んでいた。


振り向かないまま、かがりは聞いた。


「こういう例は……他にもあったんですか」

「郭公が自害したなんて記録はない。

郭公の観測例自体が、存在を認識して血眼になって探してたうちの本家でさえ10を切る程度しか残ってないんだ。そいつらだって自分が郭公だなんて思ってもいなかったんだから、郭公である自分を排除しようなんて方向に托卵が向く訳がない。そもそもこれを自害と言っていいのかどうか……」

「どちらかといえば自滅と呼ぶべきでしょうな!」


ひとり明るく大声を張り上げる眩草に、舞が非難するような目を向けた。

眩草は一向に気に留めず続ける。


「妖怪を生物だと思うから破綻しているように感じるのです。

生物ではなく全体で一個の現象だと捉えれば、心惑わされる事はなくなる。元々そういう漠然とした訳の分からないものを指して『あやかし』と称したのですからね!

地震が起きて静まるように、川が氾濫しては引いていくように、これもまた始まって、終わったのです」

「現象か……」


かがりはぽつりと呟いた。

そこに震えや憤りはない。


「でも、こいつは確かに生きていました。私の側で」


笑って、驚いて、喜んで、落胆して。

弱いくせに滑稽なくらい無駄な努力を、それでも夢に向かって懸命に積み上げていた。

それは心を持つ生き物の証ではないのかと叫びたかったが、声はどうしても喉を出てきてくれなかった。


「……楝殿。自分にこんな事を言う資格はありませんが……。

せめて、ユウ殿を弔ってあげましょう」

「……そうですね。まず体をきれいにしてやって……一応これでも妖怪です、小さい供養塔のひとつも作ってやりたい」

「そうだな、なるべく早く移して埋めてやろうや。

狐くんも、こんな場所にいつまで長くいたくないだろうしな。

あなたん家の庭にするかい? それとも……」

「故郷の山か……どうでしょうね、事情を説明しても受け入れてくれるかどうか。こいつ、だいぶ迷惑をかけまくってたみたいですから」


そう言って、力無くかがりは笑った。

脳裏に、あの兄弟狐のそっくりな顔が並んで浮かぶ。

この話を聞けば驚くだろうか。それとも、悲しんでくれるだろうか。

あの日確かに、彼らはユウを友だと言っていたのだ。


ついさっきまで動いていたユウの血塗れの骸を、かがりは優しく撫でる。

懸命に戦っていれば気高く映ったかもしれないぼろぼろの姿が、ひどく惨めで、みすぼらしいものに見えた。

命の炎が消えるというのは、そういう事なのだと知った。

息をしていないユウは、やはり、ただの小さな、変わった毛色の狐でしかない。せめて死んだ途端におぞましい異形にでも変わってくれれば、まだ多少は気持ちを切り替えようという気になったかもしれないのに。

だから、妖怪だの元凶だのを差し置いて単純に思ってしまうのだ。

かわいそうに、と。

かがりが、そっとユウの亡骸の下に両手を差し込む。体を包むタオルを取ってこようと、蟻巣塚が縁側に向かう。ユウの死を確定した事象とし、次の段階に移るべく、各々が各々の行動を選び始める。


手を血で汚す者の、俯く者の、庭を後にしようとする者の、一体誰が想像しただろうか。


「土に埋めるのはお待ちくださいませ、お嬢様。

何故ならわたくし思うに、冬眠の時期は少し前に過ぎております」


その骸が、まるで知らない声を発するなどと。


「うわあ!?」


反射的に、あろう事かかがりは両手に乗せた亡骸を放り出してしまった。

投げられた骸は手足を弛緩させたまま低く宙を舞い――ぬるりと、瞬時に体から伸びた一本の棒によって空中に静止した。

奇怪な存在を見慣れているかがり達にとっても、それはとりわけ理解の追いつかない光景であった。ユウの胴体、ちょうど大きく斬られて裂けた箇所から一本の長い脚が飛び出し、地面に立っている。中央で支えられているユウの体が、上半身と下半身をだらりと下に垂らしたままゆらゆらと揺れた。

さながら一本足のからかさ小僧か、良く知られた一本だたらを思わせるシルエット。

だが、それは脚ではない。

外に出ているだけでも長さは軽く見積もってユウの体長の二倍はあり、太さでいえばかがりの手首ほどはある。それは菱形に潰れた先端を地面に着けたまま、器用に全体をぐにゃりと曲げ、ユウの体を地面に下ろした。

ひと仕事終えたというように、菱形の先端が地面を離れる。

再び横たわるユウの骸と、そこから生え、ゆらゆらと屹立する棒のような、紐のような、赤と黒と黄色が入り混じったまだら模様の――。


「むしろ春こそ目覚めの時期。なんちて」


狐から生えた大蛇が、ウインクでもするかのように菱形の頭を傾けた。

声を聞くのは初めてだ。意志を交わすのも初めてなら、そも、蛇として顕れた姿を見るのが初めてだ。だが他と見間違いようのない特徴的な柄の鱗と、少し前まで自分にあった力を考えれば、正体は自ずと知れた。


赤楝蛇。


かがりと、かがりの家系が代々受け継いできた、流派としての要の憑き物。


「――お前、うちの蛇か!? 喋れたのか!?」

「喋れますよ。単に寡黙だから黙っていただけで」

「寡黙に過ぎるだろう! 初めて知ったぞ!?

父さんだって一言も喋れるなんて教えてくれなかった!」

「知らなかったんじゃないですか、最後に口きいたのお爺さんが幼少の頃ですからね。お仕えする前も話し相手なんて特にいませんでしたし、ぼっちには慣れてます」


己が身に移植されてから初めて向かい合った自分の従属者は、やたらとフランクな物言いをしていた。

かがりに次いで蟻巣塚と舞も事態を悟るが、かといってこの驚天動地の展開に口を挟めるでもなく、呆然と成り行きを見詰めている。


「ただ移植された時は焦りました。体引き裂かれて痛かったし、さすがに何か言おうかと思ったのですが」

「いや言えよそこは」

「ただ移された先の体でね、ちょーっと違和感あったもので。具体的にどこがどうとは言えないけれど、妖狐の……というより、わたくしが知る限りのこの国の獣妖の肉体に融合しているとは思えない気持ち悪さがある。

なのにああそれなのに、お嬢様含めて周りの方々は狐だと信じて疑わない。

狐も狸も狢も熊も猪鹿蝶も、山にいるものはあらかた喰らってきたわたくしに言わせれば、それは違うでしょうと。でも、それは違うでしょうと言いたいわたくし自身にも、やっぱり狐にしか見えないのですよ。

ですのでこいつはひと悶着あるかもしれないと直感し、いよいよもって有事の際には切り札として動けるよう身を潜めていたのです」

「できた奴だよ……」


じわじわと染み込むように現状が把握できてくる。

今のかがりを満たしているのは、純粋な驚愕と動揺だった。

土と血に汚れたユウの骸はいまだ視界にあるものの、未曾有の驚愕によって一時的に悲嘆を塗り潰された状態にある。

例えば、大切な家族を殺されれば誰でも嘆き悲しみ、怒るだろう。

しかしその直後に上空で隕石が爆発して中から現れた巨大怪獣が大暴れし始めれば、遺体に縋って泣いているどころではなくなる。

加えて、目の前にいる蛇からはのべつ幕なしに話しかけられ続けているのだ。この状態で気を取られないのは難しい。


それにしても、何故ここにきて急に姿を現し、言葉を交わす気になったのか。

移植先のユウの死により意識が表に出てきたのかと思ったが、どうも話を聞く限り終始自由意志で黙り、そして現れたように感じる。宿主が死んだから再びかがりの元に戻ろうとしているのかもしれず、それなら受け入れない訳にもいかない。

ただしそうなると、言葉を持ち、人格を有し、話のできる相手だと意識した事で、自分が前にしてしまった仕打ちが気になってくる。


「……ところで、体は大丈夫なのか? 私はその……あの時ユウの傷を塞ぐ為に、かなり無茶苦茶を」

「傷を塞ぐのに使ったように、蛇の命とは強いもの。生命と繁殖こそが蛇の力の本質。餌を食わずとも四季を跨ぎ、はらわたを抜かれても動き続け、切り落とされた頭は尚も牙を突き立てようとします。まあ空腹はいいとして水は欲しいですけどね、お水大好きなので。

それでなくとも私、生まれを辿れば日光華厳の滝。白く烟りし霊泉瀑布に身を浸すこと幾年月、時にそこを出ては東照宮くんだりまで足を伸ばして羽根を伸ばし、大権現の霊気を浴び続けた霊験あらたか年季明けたかの身。バラバラにされた程度では死にません。

それがある日、久々に滝に帰ろうと本殿から這い出したところをお嬢様の曾祖父さんにとっ捕まってしまい、あれよあれよと使い魔に」

「何やってんだうちの曾祖父さんは!」

「しかしお嬢様もあまり人の事は言えないご様子。変なものを拾って飼いたがる血筋なんですかね。どうかと思いますよそういうの妖的に」


蛇がぬるりと長い首、いや胴だろうかを曲げ、横たわるユウを見た。

腹から太い蛇が縦に伸びているせいで、まるでプランターか、あるいは冬虫夏草における蝉の蛹のような状態になった亡骸は、冷たい土の上で無残な傷口を晒したまま手足を投げ出して――。


否。


傷が、塞がっていく。

最初の傷跡を覆っていた鱗の面積が広がっていく。

四肢が数度びくりびくりと前後に動き、唖然と見守る一同の前で、やがて大きく――その口から咳が漏れた。


「ゲハッ!! ガッハアッ!! グエッ……!」

「ユウ!! ユウーッ!!」


蛇の事も何もかも忘れ、かがりは絶叫に近い声をあげて駆け寄る。

ユウは苦しげに全身を弓なりに曲げ、何度も何度も血混じりの咳をしては、粘った胃液を鼻や口から吐き出す。だが、それは死へと落ちていく断末魔の藻掻きではなく、生へ戻ろうとする者の足掻きであった。苦痛に暴れる手足が、それでも確かに力強く地面を抉り、土を四方へ蹴散らす。


「ぐえ、うえっ……ぐえええ……」

「ユウ! おい、ユウ……!」

「う……かが、り……? うっげええええ!!」

「無理に喋るな! こう、ゆっくり首を起こして……少しずつ、少しずつでいいからな!」

「おいタオルだ! タオル持ってこい!」

「どこにあるか分かりませんですよ! さっき取りに行こうとしてたなら主殿がご自分で行かれたらどうですか!」


軽い混乱に陥る場で、ひとり澄ましている蛇が呟く。


「それにしても似た習性の鳥になぞらえてカッコウですか。シャレた名前を付けるものです。こちらはこちらでユウなる個別名も貰っているようですし。わたくしなんて百年単位でお仕えして名前もないのに」

「それは喋らなかったから付けようがなかったのでは……」

「そうとも言います。

ところでさっきからわたくしに熱い眼差しを送ってきているそちらの巨漢の方を直ちにゴリラ舎にでも輸送してくださいませんかね。神気を長年浴び続けて妖怪から半ば神使と化しつつあったスーパー限定版ヤマカガシのわたくしでも何やらヤバげな気配が致します」

「いやあ、これは殺しておいた方がいいと思いますね僕は!」

「……人間社会全体から見たらそうなのかもしれませんが、ひとまずやめておいてください」

「雇い主がそう仰るならやめておきましょう、ははは」


もうひとりの冷静なのか何なのか良く分からない者、眩草はやたら軽やかに厚い掌を振りながら言った。


「うげ、うええ……」


長年の沈黙の反動のように蛇が小気味よく喋り続ける傍らで、ようやくユウが二度目の反応らしい反応を示した。喋る大蛇を胴体から生やしたまま嘔吐し続ける様は、非常に気の毒だがシュールな光景である。

最低最悪の体調と、死んだ筈の自分が生きている事への困惑もさる事ながら、腹からにょきりと伸びて見下ろしてきている蛇と目が合って細い悲鳴をあげ、そのせいでまた吐く。水分という水分を出し切るまで止まらないかのようだったが、それでも少しずつ、少しずつ、ユウの反応も収まってくる。

蟻巣塚が取ってきたタオルで、かがりが唾液と吐瀉物と血に塗れた口周りを拭った。まともに焦点の定まっていなかった目が、うっすらと開いて像を結ぶ。


「かがり……」

「ああ、ああ……ここにいるぞ。ほら、分かるか」


かがりは強くユウの手を握った。

ユウは答えず、再び苦しそうに目を閉じる。

それでも、上下する胸の動きは安定してきていた。


「俺……結局どうなったの……? 死んでないの……?」

「死にました。ええと、カッコウですか。そんな同胞はわたくしも見た事も聞いた事もありませんでしたから驚き桃の木更年期でしたが、お話しを聞いているうちに、こりゃ生かしておくとまずいぞと。とにかく死なない事にはどうにもならないと判断したので、まず放置して死なせました」

「なんかとんでもなく雑な事を言ってる気がしますが……ええと、つまり死んだユウ殿をそちらの力で蘇生したと?」

「いえいえ蘇生はしてません。ノン・リザレクション。ノット反魂です。だって生き返らせたらまた能力発動で托卵お嬢様とかいうそこはかとなく官能めいた響き再発見になっちゃうじゃないですか。それじゃ意味がありませんでしょう。だから死んだままです」

「……え?」

「え?」

「バッチリ死んでます」

「え、でも俺意識あるし、体も動くけど……うえっ、気持ち悪……ってかこの蛇は何……」

「ですから死んだまま動いてます。生きてないのだから育成用の環境改変も起こりようがありません。ハッピーハッピーです」

「……つまりアレかい、お前さんに操られてるゾンビみたいな状態だって事か!?」

「ああそれですね。自我はありますし肉体の主導権も奪ってない有情ゾンビです。ゾンビフォックスです」


ユウが、ものすごくショックを受けた顔になった。

当たり前である。

心からの同情と、B級映画かよという思いを同時に抱きながら、全員が沈痛な眼差しをあんぐりと口を開けたままのユウに向けた。


「やーい」


ただひとり、当の蛇だけが同じ体からユウをなじった。


「やーい、ゾンビフォックス」

「死にたい」

「ユ、ユウ」

「死にたい。かがり、俺を殺して」

「ほんとにゾンビっぽい事言うなよ」


無理もなかった。キャプテンフォックスからゾンビフォックスでは死にたくもなるだろう。そもそもフォックスでさえなかったのである。


「ゾンビがお気に召さないなら、こういうのはいかがです。『――俺は命を落とした後、この山の社に古くから棲む蛇神様のしもべとして召し上げられた』とでも自己モノローグ付けて頂ければ」

「うう……ちょっとかっこいい……」

「あ、少し持ち直した」

「更には『俺は平凡だ。他に優秀な奴はいっぱいいるのに、どうして蛇神様は俺なんかを選んだんだろう……』と付け足すと特別感が」

「設定に凝らなくていいから」


かがりはユウをぺたぺたと触る。大量の血でべたついているが、汚れていない箇所はこれといって特別な手触りもしていない。それこそゾンビのように、ずるっと皮膚が剥けたり肉が落ちる事もないようだ。


「本当に死んでいるのか……? 体温は……少し冷えたような感じがするが。心臓も動いてる……」

「死んでいますよ。生きてたら元の木阿弥ですから、今度は生かさなかったんです。そうですな……シビトの眷属としてわたくしの命の延長線上にくっ付いてるとお考えください。お嬢様がわたくしを無断でバラバラに引き千切ってバンソーコー代わりにしてこの者の命を繋ぎ止め、結果として従属させてしまったのと同じように」

「すいません」

「わたくしは、死者をわたくしの魂に縫い止める事で死んだまま動かしているのです。すごいでしょう。褒めて」

「いやめちゃくちゃ凄いけど。お前ってこんな事ができるくらい高位の妖怪だったのか……!? うちは平凡も平凡な、それこそ二流に引っかかるかどうかって程度の家なんだぞ。歴史だって私で四代目だから特別に長い訳でもないし、横の繋がりも分家みたいな発展性もないし、弟子もいないし……」

「曾祖父さんがそう望まれましたからね。本人が特に見るべきところもなく、血統にも光るものはなく、横への広がりも期待できないとあっては、個として表立って振るう巨大な力なんて災いしかもたらしません。家族思いで、でもちょっとは富も欲しい。そんな人間だったんですよあの凡人」


ではどうしてそんな平凡な人間と契約し従うに至ったのかという話には、不思議と踏み込みにくい雰囲気があった。公園で眩草に昔何かあったのかと聞きそびれた時のように、触れるのを躊躇する透明な壁があったのだ。


「ねえ、結局この蛇は誰なの……てか今気付いたけどなんで俺の腹から生えてんの……」

「ええと、こいつはな……ほら、お前のお友達が襲ってきた時に、お前の怪我を塞ぐのに移植した蛇だ。なんか実は生きてたらしい。で、さっき言ったみたいにお前を生き返……らせてはいないんだっけか」

「なんか実は生きてたって何だよ……」

「あんまり笑う所じゃないですよそこ。なんか実は生きてたのノリで後々まで禍根を残すのが強い妖怪の特徴ですからね。

ともあれ死んだまま動くのに馴染む為には、幾らか時間が要ります。体内に飛び散った血やら体液やら漿液やらを吐き出して、体を清めて、布団敷いて休ませてもらいなさい。落ち着いたら、その後はまあ家に戻るといいでしょう。わたくしの家でもありますが。

いかがでしょう顔の四角い市長さん。環境問題が解決したのなら、それで手打ちに致しては?」


蟻巣塚に向かって、蛇がぬっと頭部を突き出す。

ちろちろと出し入れされる舌が、顔に触れんばかりの位置で何度も閃いた。あまり気分のいいものではないだろう。見ようによっては明白な脅しとも受け取れる。

蟻巣塚は特に臆する事もなく、かといって諸手を挙げて提案を歓迎するでもなく、厳しい顔付きを一層厳しくして考え込んでいた。

かがりも、舞も、他の者も、ただ黙して蟻巣塚が答えを出すのを待つ。

市の安全を最優先するなら、却下されてもやむを得ないだけの材料は揃っていただろう。だが。


「……当面の経過観察は必要だ。最長で一生続くかもしれない。

本当に托卵が無力化されたのか、この先環境改変が起こらないのかを確かめずに、責任者として安全宣言は出せないからな」

「慎重かつ無難かつ的確な決定ですね。長はそうでなくては。飛躍が望めないのが欠点ですが」

「飛躍を望んでるなら市長なんかやってないさ」

「ごもっとも」

「ってな訳だ、できるかいフッチー。一切の贔屓目も隠蔽もなしの公正なデータ取りと定期提出。もし嘘つけば殺すよ」

「は、はい。それは勿論」


答えながら、かがりは信じられないものを見ている思いだった。

改めて問うまでもない。これ以上のユウに関する調査及び駆除を一旦保留とし、観察処分に戻すと蟻巣塚は言っている。これがどれほど異常かというと、基本、一度でも人に危害を加えた妖は、詫びようが命乞いしようが捨て置かれる事はない。殺されるか封じられるか、もっと悪ければ素材や実験材料や下僕にされるかだ。だからこそ知能の高い妖ほど、現代では人に危害を加えるのを避ける傾向にある。今は情報伝達も早く、全面戦争などしたくないのは人間も妖怪も変わらない。この驚異的な力を持つ蛇を敵に回しかねない危険を回避する為だとしても、本気で排除したいなら、それこそ眩草に頼めば済む話だ。

だが、蟻巣塚はそうしなかった。

苦渋の決断であるのは疑わないとしても、この世界に生きる者なら当然するべき決定を蟻巣塚はしなかった。

血生臭い毎日に嫌気が差したなどと言っていたが、かがりにはこの時初めて、蟻巣塚が家を出奔した本当の理由が分かった気がした。それが非常に危険な隙を作りかねない、出さなくて良かった犠牲を出すかもしれないと承知しつつ、最後の最後で、みんな幸せになれるかもしれないという夢見がちな甘い選択をしてしまう。それは、特に研究を主眼に置いた術者において致命的なまでの不適格といえる欠陥だった。


とはいえ、今の言葉にも嘘はあるまい。

もしも今後かがりが不都合を隠そうとし、それが露見したならば、次こそ蟻巣塚はあらゆる手段を用いてユウを殺そうとするだろう。二度と異変が起きないよう、起きた時に隠そうとする自分がいないよう、ふたつの意味でかがりには祈るしかない。


だが、だとしても――祈る事が許されるというのは、幸運だ。


「かがり」

「ん」


相変わらずぐったりと地面に寝たまま、ユウが小さな声でかがりを呼んだ。


「俺……戻っていいの?」

「いいの、とは」

「だって、俺……町がこうなったの全部俺のせいだったみたいだし、かがりにもみんなにもいっぱい迷惑かけた。もう何も起きないったってまた起きるかもしれないし。起きても自分じゃどうしようもないし。それに俺、もう死んでるんだ」


気持ち悪くないの、と消え入りそうな声で言う。

返事を聞くのが怖いのか、視線はかがりから逸れていた。


「死んでるんだったってなあ……。

だいたい普通の人間からすれば、妖怪なんて幽霊といっしょくたにされる程度の扱いなんだよ。なら元々死んでるようなもんだろ。だから別に今更だ」


それはそれで酷い事をかがりは言った。

ユウは案の定傷付いたようだったが、言い返して詰ってくるだけの気力はあるようだ。

拗ねてしまったのか、まだかがりの方を見ようとはしない。


「ひどいや」

「そうだな」

「でも、嬉しい」


目を覚ましてから初めて、ユウの声に微かな笑いが混ざった。

その微笑みが消えないうちに、かがりはユウの頭を撫でる。

初めて会った時に見舞った蹴りは、容赦のないものだった。あのまま死んでいてもおかしくないくらいに。あれからいろいろあったけれど、そのひとつの決着点で、こうしてまた倒れる狐に手を伸ばしているのが何とも可笑しい。

捕まって、真相を明かされて、殺すしかないとなって、死んで、生き返って、でも生きていなくて、元通りになりそうで。

ああ、理解が追いつかない。上がっては落ちるコブ状のコースをスキーで滑走しているような一日だった。


「死にたくないって言ってもいいかな」

「いいよ。もう死んでるけどな」

「あは。それじゃ、帰りたいって言ってもいいかな」

「いいよ」

「そっか、それじゃ」


ユウの眼が、もう一度かがりを見た。


「ただいまって、言ってもいいかな」

「……ああ、おかえり」


おかえり。

英雄でも勇者でもない、小さなユウ。






こんな状況から各自帰宅という訳にもいかず、また簡易的にでもユウの状態をチェックする必要もあって、その晩は全員でそのまま蟻巣塚の自宅に泊まった。

独り者で料理もしないからまともな食い物がないと、蟻巣塚は近場の飯屋にありったけの店屋物を出前で頼んでいた。

その割に人数分の布団がするすると出てくる事に眩草は女の存在を疑い、押し入れやら台所の流しの下の棚やら庭の池の中やら、本当にそこに隠れていたら怖いだろと思うような場所を片っ端から覗いては、何かしらの品を必ずひとつ引っ張り出してきて「いませんでした!」と残念そうに報告した。

眩草が持ち出してきた品をいちいち元の場所に戻しながら、その都度いやでも目に入ってくる庭と建物の損害状況に、今更ながら蟻巣塚は修復にかかる費用を思い遠い目になった。

ユウは自分の腹から自在に伸び縮みしてみせる蛇が怖くて泣いていた。

この家で唯一の自慢らしい自慢だという檜風呂の一番風呂からあがってきたかがりは、改めて深々と頭を下げる蟻巣塚に困惑させられた。

金で解決できる問題じゃないが、謝罪の一環として金銭面での補償も行いたい。希望があるなら何でも言ってくれというので、とりあえず例の地下室へ連れて行ってもらい、返してもらった道具を全部使って目についた物品を爆破できるだけ爆破しておいた。途中から何故か舞と眩草も加わっていた。最終的に自分はここで寝ますと舞が自主的に黒焦げの檻に入ろうとしたので皆で止めた。

蟻巣塚邸の修繕費用が、更にもう一段階嵩増しされた。




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